第73話:国璽奪還
夜明け前の王都は、嘘みたいに静かだった。
馬車の中。毛布にくるまった私の体力値は――十一。
ステータスオープン。
数字が視界の端でちらつく。昨日より一つ減った。いや、減ったのは数字だけじゃない。指先の感覚が少しずつ遠くなっている。インベントリの発動に必要な集中力も、正直ギリギリだ。
でも。
「現在の状況を整理します」
馬車の中に詰め込まれた全員の顔が、ランタンの灯りに照らされる。ユリウス、ノア、レオン。そしてミナ。
「城内残存は七名。うち戦闘意思ありが四名、迷いありが三名。王璽は東棟二階、金庫室。突入は第一鐘。――ここまで、変更はありますか」
ノアが静かに首を振った。
「変更なし。地下通路の安全確認は完了。カイとヴェルナーが待機中」
よし。
「レオン」
「はっ」
「投降ルートの最終通告、あなたが読み上げてください。第三鐘で出した恩赦条項と同じ内容でいい。ただし一文だけ加えて。――『第一鐘をもって、城門を開放する』」
レオンの目が一瞬揺れた。それは恐怖じゃない。覚悟の確認だ。
「了解しました」
短い。鋭い。いいぞ、レオン。
「ユリウス」
「はいはい。王璽確保後の委任状発効手続き、三通りの草案は用意してありますよ。……正規手順、略式手順、そして王璽が破損していた場合の迂回策。まあ最後のは使いたくないですけどね」
皮肉交じりの声だけど、手元の書類の束は完璧に整っている。さすが一流の仕事人。
「ミナ」
「はいっ、ミチカ様!」
「私がこの馬車から動けないことは、全員わかってますね」
沈黙。
ミナだけが、小さく頷いた。
「だから――命令。全員、生きて帰ること。これは実務です」
―――
東の空がわずかに白み始めた頃、レオンは城門の前に立った。
松明の列が、彼の背後に並ぶ。連盟治安隊の制服を着た兵士たちが、整然と――しかし武器は下げたまま――城壁を見上げている。
レオンが羊皮紙を広げた。
声が、夜明け前の静寂を割った。
「王城内に残留する全ての者に告ぐ。連盟評議会の名において、恩赦条項全十二条を再度通達する。投降する者には身体の安全と公正な審理を保障する。徴用された使用人については、労役編入ではなく原職復帰を優先する」
城壁の上で、影が動いた。
「――付記。第一鐘をもって、城門を開放する」
その一言が、城壁の向こうに沈む沈黙を砕いた。
最初に出てきたのは、白髪の老人だった。厨房の副料理長。両手を上げて、城門の隙間から這い出てくる。
続いて、若い侍女が二人。泣きながら走ってきた。
三名。残存七名のうち、三名が投降した。
レオンが彼らを受け止め、後方の治安隊員に引き渡す。手際がいい。詰所・交代制・巡回――こいつが最初に教わった制度が、今、王都の城門前で動いている。
残る四名。
金庫室に立て籠もった。
―――
第一鐘が鳴った。
王都の教会塔から響く低い鐘の音が、朝霧を震わせる。
同時に――東棟の地下。
カイが先頭だった。
暗い通路を、音もなく進む。背後にヴェルナー。元城内使用人だった彼だけが知る裏道。壁の煉瓦の数を数えながら、分岐を右、右、左。
「ここ」
カイの一言。
ヴェルナーが壁の一部を押す。石が軋み、隙間が開いた。東棟の一階、使用人用の階段裏。
二階へ。
金庫室の前には――四人。
残党幹部のガレス。元王璽局の次官だった男が、王璽の前に立っている。手には斧。
「来るな!」
ガレスの声は、震えていた。
「一歩でも近づけば、王璽を叩き割る! この印がなければ、貴様らの委任状も紙切れだ!」
……うん。それはまあ、その通りなんだよね。
馬車の中で私はステータスオープンを発動した。射程ギリギリ。ガレスの数値が、ぼやけながらも見える。
忠誠値――ゼロ。ストレス値――九十八。嘘反応――なし。
本気だ。この男は本気で王璽を壊す気でいる。
でも。
嘘反応がない、ということは――交渉の余地もない。
「カイ」
私の声は馬車の中で小さく呟いただけだ。でも、作戦は事前に決めてある。
レオンが正面から来る。
城門を開放した治安隊が、正面階段を駆け上がる音。足音は意図的に大きい。陽動。
ガレスが正面を向いた。
「来るなと言っている!」
斧を振り上げる。
その瞬間――背後から、影。
カイ。
極端に言葉が少ない男は、この時も何も言わなかった。
ガレスの手首を掴み、斧を払い落とし、一息で床に組み伏せた。残りの三人がヴェルナーに取り押さえられる。元使用人仲間の顔を見た瞬間、彼らの抵抗は消えた。
金庫室の扉が開く。
王璽――無事。
重厚な金の印が、朝日の最初の光を受けて、鈍く輝いていた。
―――
報告は、馬車に届いた。
「王璽確保。損傷なし」
カイの声。短い。それでいい。
「……っ」
息を吐いた。体力値が十に落ちた気がする。いや、ステータスを見る気力すら惜しい。
でも――ここからが、本番だ。
「継承者殿下を」
ノアが頷き、馬車を離れた。
―――
王璽の間――金庫室ではなく、正式な王璽局の広間に、王璽が運ばれた。
継承者が入ってきた時、朝日が窓から差し込んで、埃が金色に舞っていた。
昨夜、私が問うた。
『仕組みで継ぐ覚悟はありますか』
あの時、この人は答えなかった。
今。
王璽の前に立った継承者は、長い沈黙の後――口を開いた。
「私は……弱い人間です」
声が震えている。でも、目は逸らさなかった。
「幽閉された時、私は何もできなかった。誰も救えなかった。この血筋が――この名前が――民を守る力になると、もう信じることができません」
広間にいた全員が、息を止めた。
レオンが。ユリウスが。カイが。ヴェルナーが。
そして――馬車の中で、毛布にくるまった私が。
「けれど」
継承者の声が、変わった。
震えは消えていない。でも、その奥に――芯が通った。
「昨夜、ミチカ殿に問われました。仕組みで継ぐ覚悟があるか、と」
一歩、前に出た。王璽に手を伸ばす。
「私の答えは――はい。私の血筋ではなく、この仕組みに王璽を預けます」
その言葉が、広間に響いた。
「この王璽は、王の血を引く者の私物ではありません。民が選んだ仕組みの中で、仕組みが認めた者だけが使うべきものです。――連盟評議会に、この王璽を委託します。条件は一つ。民の暮らしを守る制度の下でのみ、この印が使われること」
……。
……来た。
来たよこれ。
ユリウスが、わずかに目を見開いた。あの皮肉屋が――言葉を失っている。
レオンが、拳を握りしめていた。
ミナが、私の隣で、小さく泣いていた。
「ミチカ様……」
うん。
うん、わかってる。
これが答えだ。
血筋じゃない。制度だ。仕組みだ。
私がずっと――前世の記憶を持ったまま、この理不尽な世界で積み上げてきた全てが、今、この人の口から語られた。
体力値なんか知らない。涙が出そうだ。
いや、出てる。たぶん。
―――
ユリウスが動いた。
「……やれやれ。感動的な宣言の直後に実務の話をするのは無粋ですが――これが私の仕事なので」
羊皮紙の束を広げる。三通りの草案のうち、正規手順の一枚目。
「王璽を用いた委任状の正式発効手続きを開始します。殿下、まずこちらに署名を。連盟評議会への委託宣言と、条件付き委任の全文です」
継承者が頷く。
ペンを取る手は、もう震えていなかった。
「ユリウス殿。この文面、一箇所だけ直してもよろしいでしょうか」
「……どこです」
「『王の名において委任する』ではなく、『民の仕組みの下に委ねる』と」
ユリウスが――笑った。
初めて見た。あの皮肉屋が、嫌味でも揶揄でもなく、ただ純粋に――笑った。
「……ええ。そちらの方が、正確ですね」
ペンが羊皮紙の上を走る。王璽が朱肉に押される。
制度が、動き始めた。
―――
――その時だった。
広間の扉が、勢いよく開いた。
カイ。
息を切らしている。あの寡黙な男が、走ってきた。走って。
「急報」
二文字。
「王都城外。南東方面。軍勢、接近中」
全員が凍った。
「……数は」
ノアが問う。
「約五百。旗印――不明」
旗印不明。
つまり、どこの軍かわからない。第二宰相派の残党か。いや、グレゴールは拘束されている。第一宰相派の増援か。それとも――
「進軍速度から、明日の昼には王都外壁に到達する」
カイの報告が終わった。
広間が、沈黙に沈んだ。
王璽を確保した。委任状の手続きが始まった。継承者が、自分の言葉で制度に王権を預けると宣言した。
全てが、やっと――やっと動き出した、その瞬間に。
五百の軍勢。旗印不明。
……ねえ。
ちょっと待ってよ。
体力値十一で、もう一つ危機を捌けって?
馬車の中で、私は毛布を握りしめた。
ユリウスの声が、広間に響いた。
「……委任状の発効を急ぎましょう。王璽が有効なうちに、制度を完成させる。敵が誰であれ――仕組みが動いていれば、対処できる」
そうだ。
そうだよ、ユリウス。
仕組みだ。制度だ。一人じゃ無理でも、仕組みがあれば――
「命令」
私の声は、小さかった。でも、ミナが聞いていた。ミナが、広間に伝えてくれる。
「全部隊に通達。王璽確保を公式発表。同時に、南東方面の偵察隊を編成。旗印の確認を最優先。――それと」
息を吸った。体力値が削れる音がした気がする。
「諸侯会議の緊急召集を、前倒しで。外から何が来ようと、中の仕組みが先に立ち上がっていれば――」
負けない。
朝日が、王璽を照らしていた。
金色の光の中で、旗印不明の影が、王都に迫る。




