第71話:籠城戦の算術
ノアが仮本営の扉を開けたとき、彼の外套には夜露がびっしりと張り付いていた。
背後から、王都の夜気が流れ込む。
松明の煙と、どこかで焚かれた薄い粥の匂い。
通りに人影はない。
配給所の前に朝から並んでいた市民たちも、日暮れとともに家屋の奥へ消えた。
窓という窓に灯りはなく、蝋燭すら惜しむ暗がりの中で、遠く王城の城壁だけが篝火に照らされて浮かんでいる。
包囲三日目の王都は、音を失った街だった。
偵察帰り。丸一日ぶりの帰還。
「報告」
その一言で、部屋の空気が変わる。
レオンが椅子から立ち上がり、ユリウスが羽ペンを置き、リオが壁から背を離した。王位継承者も――まだ慣れない様子で、けれど確かに顔を上げた。
ノアは地図を卓上に広げ、指で王城の外郭をなぞった。
「籠城兵、約四十名。指揮は本家当主の家令。ただし正規の兵は二十名前後。残りは城内使用人の徴用と推定。城壁の損傷なし。正門・裏門ともに封鎖済み。井戸は城内に二本あり、食料庫は――」
ノアが一瞬だけ言葉を切った。
「推定七日分」
沈黙が落ちた。
七日。
こちらの配給上限は三日。
つまり何もしなければ、先に干上がるのは――連盟側だ。
「……最悪だな」
リオが珍しく笑わなかった。
レオンの拳が卓上で白くなる。
「時間は、敵の味方ということか」
ノアが頷いた。淡々と、けれど確実に。
「城内は自給可能。こちらが攻めなければ、彼らには待つだけの余裕がある。逆に連盟側は王都市民への配給を維持しながら作戦行動を取る必要がある。三日以内に決着がつかなければ、市民の信用値が崩壊する」
信用値の崩壊。
それは武力の敗北より遥かに致命的だ。
ミチカが何度も言っていた。統治の基盤は民の信用であり、それは数値で見える。一度崩れた信用を取り戻すのに、築いた時間の三倍かかると。
「……つまり、強攻するしかないのでしょうか」
王位継承者が、不安を滲ませた声で訊いた。語尾がわずかに揺れていた。
「四十名とはいえ王城の防御は堅い。正面攻撃なら――」
「被害は甚大になります」
レオンが遮った。硬い声だった。
「正門は跳ね橋構造です。裏門は狭隘路。どちらも少数で守れる地形だ。こちらが百名投入しても、城壁上から矢を射かけられれば――」
「やめて――」
継承者が小さく首を振った。言葉を探すように視線が泳ぎ、そしてその目が、窓の外に向いた。暗い王都の街並みの、そのさらに向こう――篝火に浮かぶ王城の輪郭。
「……あの城で、わたしの民同士が血を流すのか」
声が変わっていた。揺れが消えたのではない。揺れたまま、それでも言葉を押し出していた。
その一言が、部屋に重く沈んだ。
―――
沈黙を破ったのはリオだった。
「ちょっと待って。三日ってのは現状の話でしょ?」
全員の視線がリオに集まる。
リオは腕を組み、天井を見上げた。商人の顔だ。
「王都の物流、まだ全部は死んでないよ。王城が押さえてたのは城内の食料庫――つまり旧制度の王室備蓄だ。配給は全部あそこを経由する仕組みだったから、城が落ちた時点で止まった。でもね」
リオが卓上の地図に指を走らせた。
「王都南門の外に、商人組合の仮倉庫がある。王室備蓄とは別系統の、組合独自の流通備蓄だ。旧制度じゃ王城経由の配給しか認められてなかったから手をつけられなかったけど――今は連盟が統治してる。俺の裁量で動かせる」
リオの指が倉庫の位置を叩いた。
「ここに連盟規格の救援物資がまだ二十車分。ただし南門から各配給所への輸送路が一本しかない。一本じゃ一日に運べる量に限界がある。だから俺の王都商人網を使って――」
指が地図上に三本の線を引いた。
「迂回路を二本追加。南門倉庫から東市場と西市場を経由して、配給所五箇所に分散搬入する。輸送路が三本になれば一日あたりの搬入量は倍以上になる。商人組合の荷車と人足は既に声をかけてある。これで配給三日を五日に延伸できる」
「五日……」
レオンが呟いた。
「二日の余裕が生まれる」
「二日あれば十分でしょ。まあ、物流屋としてはもっと余裕が欲しいけどね」
リオがようやく笑った。ただし目は笑っていない。
「ただし条件がある。城外の井戸三箇所を完全に連盟が確保すること。籠城側が夜襲で井戸を潰しに来たら、この計画は終わる」
「井戸の警備は俺が――」
「レオン」
ノアが静かに制した。
「井戸の警備配置は既に組んである。三箇所、交代制、二時間ごと。偵察の途中で治安隊の王都派遣組に伝令を飛ばして指示済みだ」
レオンが目を見開いた。
「……いつの間に」
「城外の井戸が急所になるのは、偵察の序盤で分かった」
ノアはそれだけ言って、地図に目を戻した。
―――
配給の延伸。これで時間は稼げる。
だが、もう一つの問題が残っていた。
「五日あっても、王璽がなければ委任状は紙切れだ」
ユリウスが立ち上がり、卓上に一枚の書面を置いた。
「諸侯会議の緊急召集」
全員が書面に目を落とした。
ユリウスの字は相変わらず整然としていて、読みやすい。内容は――前例がなかった。
「王璽による認証が不可能な場合、諸侯会議の出席者三分の二以上の多数決をもって、公文書に王璽と同等の法的効力を付与する。……これが俺の提案だ」
「前例がない」
レオンが即座に言った。
「ないから作るんだよ」
ユリウスが肩をすくめた。
「王国法には『王璽なき場合の代替手段』について明文の規定がない。規定がないということは、禁止もされていないということだ。法の空白を埋めるのは、立法者の仕事だろう?」
「立法者って、それは――」
「諸侯会議そのものだ。王璽がなくても、王国の統治権者たる諸侯が合議で決めたことには正当性がある。……いや、正確に言えば、正当性があると主張できる」
ユリウスが継承者を見た。
「殿下。この迂回策が成立するには、継承者ご自身が諸侯会議の召集を宣言する必要があります。王璽はなくとも、召集権は血筋に付随する固有の権限だ」
継承者の顔が強張った。
「わたしに、それだけの権威があるだろうか……」
「権威の話じゃない」
ユリウスの声は冷たかった。だが、冷たさの奥に確信があった。
「制度の話です。殿下が召集し、諸侯が応じ、多数決で承認する。この三段階が揃えば、王璽がなくても法は動く。……ミチカならこう言うでしょうね。『仕組みが正しければ、椅子に誰が座っていても国は回る』と」
継承者が息を呑んだ。
そしてゆっくりと、頷いた。
―――
扉が叩かれたのは、その直後だった。
カイだった。
「情報。城内から」
全員が振り向く。
カイが差し出したのは、小さく折り畳まれた紙片。
「出処は――」
レオンが問いかけた。
「元近衛副長」
レオンの表情が変わった。カイの王都協力者。元近衛副長にして、かつて継承者の側近だった男。
紙片を広げる。
内容は簡潔だった。
『籠城兵四十名のうち、正規兵は十八名。
残り二十二名は城内使用人の強制徴用。
武器の扱いに不慣れ。
士気は極めて低い。
指揮を執る家令への不満が兵・使用人双方に広がっている。
食料七日分は正確だが、配分に不満が出始めている。
正規兵が優先的に食事を取り、使用人には残り物しか回らない』
ノアが紙片を一瞥し、小さく頷いた。
「正規兵十八名。偵察時の推定と一致する」
レオンが紙片を卓上に置いた。
「……半数以上が、戦う意志のない人間だ」
「投降の余地がある」
ノアが言った。
「ある。……いや、投降させなければならない」
レオンの声が変わった。硬さの中に、決意が混じっていた。
「強攻はしない。補給を断ち、投降を促す。城外の食料と水を完全に押さえ、城内の七日分が尽きるのを待つ――いや、待つ必要もない」
レオンが地図を指差した。
「城内の使用人たちは、城の外に家族がいる。配給を受けているのは彼らの家族だ。連盟が配給を維持し、城外で彼らの家族を守っている事実を――城壁の向こうに伝えればいい」
「どうやって?」
リオが訊いた。
「城門の前に立つ」
全員が、レオンを見た。
「――いえ」
声を上げたのは、王位継承者だった。
継承者の手が震えていた。誰もがそれに気づいていた。けれど継承者は、その震える手を膝の上で握り締め――顔を上げた。目が、定まっていた。
「わたしが立ちます」
静寂。
「わたしは――幽閉されている間、何もできなかった。わたしの名が使われ、民が苦しんだ。その責任から逃げたくない」
「殿下、危険です」
レオンが即座に言った。
「分かっています。けれどレオン殿。城壁の上にいる使用人たちは、わたしの顔を知っている。王城で働いていた人たちだ。わたしが――わたし自身が、彼らに語りかけなければ」
継承者が拳を握った。
「血筋の権威で命じるのではありません。制度の承認者として――投降すれば恩赦と処遇を保障すると、わたしの言葉で伝えたいのです」
ユリウスが、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……投降者の処遇、制度案は俺が書く。恩赦条件と労役編入の規定。連盟規格に準拠した形で」
レオンは答えなかった。継承者の目を見ていた。
――この方は、本気だ。
軍事指揮官としての判断が、忠臣としての感情と引き裂かれる。だが。
「ノア」
レオンが呼んだ。
「城門前からの射線。把握しているか」
「全て」
ノアが即答した。
「城壁上の射撃位置は七箇所。うち正門前に有効な角度を持つのは三箇所。偵察時に全て確認済みだ。殿下が立つ位置を城門正面から十歩左にずらせば、死角に入る箇所が二つになる。残り一箇所は――俺が抑える」
レオンは目を閉じた。一瞬だけ。
そして開いたとき、その目には覚悟があった。
「――殿下の身辺には俺が直接つきます。リオ、投降者の受け入れ場所と食事の手配を」
「了解。配給の延伸分から回す。五日分のうち半日分を投降者用に確保しておくよ」
カイが小さく頷いた。
「城内への伝達経路。元近衛副長に連絡する」
作戦が、形になっていく。
武力ではなく。補給と制度で。
―――
夜が更けた。
作戦の細部を詰める会議が終わり、翌朝の城門前行動に向けて各自が持ち場に散っていく。
仮本営の外に出ると、夜風が頬を打った。通りの向こう、配給所の前に積まれた空の木箱が、月明かりの下で白く光っている。どこかの家屋から子供の泣き声が聞こえ、すぐに母親の声に包まれて消えた。王都は眠っているのではない。息を潜めているのだ。
レオンが仮本営の窓辺に戻り、王城を見上げていたとき――
蹄の音が聞こえた。
南から。
「早馬!」
治安隊員の声が夜の王都に響く。
レオンが外に出ると、息を切らせた騎手が馬から転がり落ちるようにして降りた。
「南方より――ミナ殿からの急報です!」
封を切る。
レオンの目が、一行一行を追った。
『ミチカ様の体力値、十二まで回復。通常の成人で四十前後のところ、まだ子供が短時間立てる程度の値ですが――本日午後、自力で立ち上がりました。意識明瞭。食事も摂取。ミチカ様より伝言あり――』
レオンの手が止まった。
伝言は、一言だった。
『視察です』
レオンは書簡を持ったまま、動けなかった。
背後から、ユリウスが覗き込んだ。
「……何だって?」
レオンが書簡を渡した。
ユリウスが読み、そして――鼻で笑った。
「視察、ね。体力値十二で王都まで来るつもりか、あの盟主は」
リオが駆け寄ってきた。書簡を見て、声を上げた。
「マジか! 立てたのか!」
ノアが静かに書簡を確認し、小さく息を吐いた。
カイは何も言わなかった。ただ、わずかに口角が上がった。
王位継承者が、最後に書簡を読んだ。
「視察です……」
継承者は、その一言を噛み締めるように繰り返した。
「この方は――本当に、こういう方なのですね」
レオンが笑った。
仮本営に来てから――いや、王都に入ってから初めて、レオンが笑った。
「ええ。こういう方です」
全員が、窓の外を見た。
南の空は、まだ暗い。
けれど王城の輪郭は、松明の光の中にはっきりと浮かんでいた。その手前に広がる王都の屋根の連なりが、篝火の橙色に縁取られて波のようにうねっている。息を潜めた街。けれど、朝が来れば――この街に、継承者の声が届く。
明朝。城門の前に、継承者が立つ。
そしていつか――あの南の道の向こうから、小さな盟主がやってくる。
体力値十二で。『視察です』と言いながら。
レオンは笑みを消さないまま、剣の柄に手を置いた。
「――全員、明朝に備えろ。作戦開始だ」




