第69話:地下通路の救出
地下は、腐った水の匂いがした。
カイの背中だけを頼りに、レオンは石壁の隙間を進む。松明は使えない。煙が通気口から漏れれば、地上の見張りに気づかれる。
唯一の光源は、ユリウスが持つ小さな遮光灯だ。革の覆いで三方を塞ぎ、足元だけを照らしている。
「……左」
カイの声。短い。それだけで十分だった。
レオンは背後の治安隊員六名に無言で手を振り、左の分岐路へ入る。天井が低い。兜の頂が石に擦れる音が、暗闇の中でやけに大きく響いた。
突入開始から、およそ四半刻。
カイが確保した地下通路は第二宰相邸の東翼地下に通じているはずだった。だが問題がある。
「カイ。ここ、前回と構造が違わないか」
小声で問いかけると、カイが足を止めた。
「……壁。新しい」
遮光灯をわずかに持ち上げたユリウスが、壁面の煉瓦を指先で触れる。
「漆喰が乾き切っていない。ここ数日で塞がれた通路がある。つまり――」
「囮だ」
レオンが断じた。
カイの情報は正確だった。だが第二宰相派も馬鹿ではない。通路の存在に気づき、一部を塞ぎ、残した経路に誘い込もうとしている。
王都内に二箇所の囮幽閉拠点がある――事前にそう聞いていた。その罠が地下通路にも仕掛けられている可能性は、十分にあった。
レオンの脳裏に、出発前のユリウスの言葉が蘇る。
『罠がある前提で動け。ステータスは射程外だ。盟主の目がない以上、お前の判断が全てだ』
そう。ここではミチカのステータスオープンは使えない。嘘反応も、忠誠値も、ストレス値も――何一つ見えない。
丸裸だ。
「……カイ。お前の協力者はこの先の構造を知っているか」
「元近衛副長。邸の設計図は頭にある。だが改修後は不明」
元近衛副長であり、王位継承者の側近だった男。その協力者の情報がなければ、そもそもこの通路に辿り着けなかった。
だが、改修後の情報はない。
レオンは歯を食いしばった。判断を迫られている。ステータスなしで。盟主なしで。
――これが制度だ。
自分で言った言葉が、今、重くのしかかる。
「進む。ただし、二手に分ける。カイ、お前は三名連れて右の旧通路を確認しろ。罠なら引き返せ。俺とユリウスで左を行く」
「了解」
カイが頷き、無言で三名を率いて右へ消えた。
―――
左の通路は、行き止まりではなかった。
石段を降りた先に、鉄格子の扉がある。錠前は――かかっていない。
「開いてる扉ほど怖いものはないな」
ユリウスが皮肉めいた声で呟く。だがその目は鋭い。遮光灯を扉の向こうに差し入れ、数秒。
「……人がいる」
レオンは剣の柄に手をかけた。
鉄格子の向こうは小さな石室だった。奥の壁際に、粗末な寝台が一つ。その上に横たわる人影。
痩せ細った体。だが――衣服の紋様に、レオンは息を呑んだ。
王家の百合。
「殿下」
声をかけると、人影がゆっくりと首を動かした。窪んだ目が、遮光灯の光に細められる。
「……誰だ」
掠れた声。だが意識はある。
「自由都市連盟治安隊長、レオンと申します。お迎えに参りました」
「連盟……ミチカ殿の」
継承者の唇が、かすかに動いた。名前を知っている。それだけで、カイの協力者――元近衛副長が事前に情報を伝えていたことがわかった。
「立てますか」
「……少し、待ってくれ」
継承者が寝台に手をついて体を起こす。その動作の遅さが、幽閉期間の長さを物語っていた。
ユリウスはその間に石室の隅を調べていた。木箱が一つ。蓋を開け、中身を確認する。
「――あった」
その声には、珍しく感情が混じっていた。
帳簿の束。表紙に第二宰相の私印が押された、裏金の記録。
ベッカーが証言した通りだった。第二宰相邸に保管されていた裏帳簿の写し。
ユリウスは遮光灯の下で数頁を素早くめくり、数字と署名を確認した。
「本物だ。筆跡はベッカーの帳簿と一致する。金額の桁も――ああ、これは王都の横流し総額だ。領の分とは比較にならん」
「回収するぞ」
「当然だ。……が、問題がある」
ユリウスが帳簿を抱えたまま、低い声で言った。
「これをインベントリに入れるには盟主が必要だ。物理的に持ち出すしかない。重い。そして――見つかれば真っ先に狙われる」
レオンは頷いた。わかっている。だからこそ、撤退路の確保が最優先だ。
「殿下、失礼します」
レオンは継承者の腕を自分の肩に回した。驚くほど軽い。骨と皮だけの体が、鎧越しにもわかった。
「……すまない」
「任務です」
―――
撤退は、順調にはいかなかった。
合流地点でカイの隊と落ち合ったところまでは良かった。カイの報告――右の旧通路は完全に塞がれており、罠はなかったが使えない――を受け、来た道を戻り始めた直後。
足音。
前方から。複数。
「止まれ」
カイの声。
遮光灯を消した。闇。
そして――松明の光が、通路の奥から近づいてくる。
「第二宰相派の残存兵。八名以上」
カイが闇の中で囁いた。どうやって数えたのか、レオンには見当もつかない。だがカイの報告を疑う理由はなかった。
「退路は」
「ない。一本道」
レオンは継承者をカイに預け、剣を抜いた。
狭い通路。横に二人並べるかどうか。これは――不利ではない。
「ユリウス、帳簿を守れ。殿下をカイに。俺が前に出る」
「……レオン」
ユリウスが何か言いかけ、飲み込んだ。代わりに帳簿を胸に抱き、後方へ下がった。
松明の光が近づく。
先頭の兵と目が合った瞬間、レオンは踏み込んだ。
狭い通路での剣戟。技術よりも、覚悟が勝負を分ける。
一撃で先頭を押し戻し、二番手の槍を盾で弾く。三番手が横から突こうとするが、通路が狭すぎて仲間に阻まれる。
――数の利が使えない地形。これなら。
「治安隊、交代制で前衛を回せ! 三十秒ごと!」
レオンの号令に、背後の隊員が即座に応じた。訓練通りだ。詰所・交代制・巡回――ミチカが設計した治安隊の基本構造が、まさか地下通路の戦闘で活きるとは。
三十秒。交代。三十秒。交代。
疲労を分散し、常に新鮮な前衛を維持する。残存兵は数で勝るが、狭い通路では一度に二人しか当たれない。
五分。十分。
やがて、敵の足音が遠ざかり始めた。
「……撤退した」
カイの報告に、レオンは荒い息のまま頷いた。
―――
地上に出たのは、夜明け前だった。
―――
同じ頃――遥か南の領主館。
ミナは、ミチカの枕元で目を覚ました。
いつの間にか眠っていた。定時報告書の束を膝に載せたまま。ミチカの手を握ったまま。
――握り返されている。
「……え?」
ミナが顔を上げると、ミチカの目が開いていた。
薄暗い部屋の中で、その瞳だけが異様に澄んでいた。体力値三。死の淵から這い上がった少女の目ではない。何かを決めた人間の目だ。
「ミチカ様……!」
「ミナ」
声は掠れていた。だが――明瞭だった。
「ステータスオープン」
空中に、半透明の画面が浮かぶ。ミナには見えない。だがミチカの目が、その画面の上を走るのがわかった。
「……体力値五。いつの間に上がったんだろ。まあいい」
五。前回確認時は三だった。自然回復が加速している。だが五という数字は――普通の人間なら寝たきりのレベルだ。
ミチカはそれを、まるで在庫確認でもするように淡々と処理した。
「インベントリ、開く」
右手を持ち上げる。震えている。だが動く。
ミナの目の前で、何もない空間から――書類の束が現れた。
帳簿の写し。封蝋付きの密書。偽造文書の鑑定記録。封蝋成分の分析報告。ベッカーの証言記録書。
これまでミチカがインベントリに格納してきた、全ての証拠だ。
「ミチカ様、お体が――」
「聞いて、ミナ」
ミチカの声が変わった。掠れたまま、だが――命令の声だ。
「これは全部、公文書として独立させる。私のインベントリに入れたままだと、私が死んだら消える。だから――」
体力値が限界域にある今、証拠はミチカの生死に縛られている。インベントリの中身は、所有者が死ねば消える。
「――物理的に、私の手から離す」
ミチカは震える手で、書類の束をミナの膝の上に置いた。
「連盟の公文書保管規格に従って封緘して。封緘者はミナ、あなたの名前。立会人署名は――今はいないから、後でユリウスに追記させて」
「で、でも、ミチカ様がお持ちになっていた方が――」
「私が持っていたら、私が死んだ時に全部消える」
ミナの手が止まった。
「……死ぬ、なんて」
「可能性の話。だから制度で回避する。それが――私たちのやり方でしょ」
ミチカは、力なく笑った。
そして。
「命令。これを王都へ」
ミナの目から、涙が零れた。
だがその手は――書類の束を、しっかりと抱きしめていた。
「……はい。必ず」
ミチカの目が、ゆっくりと閉じる。体力値が五から四に下がったのが、本人にはわかった。インベントリの起動と取り出し動作。たったそれだけで、体力を一つ消費した。
――でも、これで証拠は私の命から切り離された。制度として、独立した。
証拠の物理分離。インベントリと生命の連動という制約を、制度で迂回した最初の実績。
ミチカは眠りに落ちながら、ぼんやりと思った。
統一憲章の証拠管理制度。その原型が、今――ミナの膝の上にある。
―――
王都。夜明け。
レオンからの伝書鳩が、連盟本陣に届いた。
『継承者救出。帳簿回収。全員生還』
リオがその紙片を読み上げた瞬間、本陣に歓声が上がった。だがリオは笑わなかった。笑っている場合ではない。
「よし。配給、始めるぞ」
連盟旗を掲げた荷馬車が、王都の東門から市街へ入る。
パン。干し肉。塩。清水。
内戦で流通が止まった王都の市民にとって、それは――命そのものだった。
最初は怯えていた市民が、連盟旗の百合と歯車の紋章を見て、一人、また一人と集まってくる。
「連盟の……あの、辺境の」
「ただの配給だよ。名前と人数を書いてくれれば、誰でも受け取れる。連盟規格の配給書式だ。難しいことは何もない」
リオの声は、いつもの軽快さの中に、確かな熱があった。
列ができた。長い列だ。連盟旗の下に、王都の民が並んでいる。
王都配給の準備が、現実になった瞬間だった。
―――
だが。
救出された継承者は、レオンの肩に支えられながら、地上の朝日を見て――泣いていた。
嬉し涙ではなかった。
「レオン殿」
「はい」
「私は……あの地下で、ずっと考えていた」
継承者の声は、震えていた。幽閉の恐怖ではない。もっと深い、自分自身への問いかけだ。
「私には……王座に就く資格があるのか」
レオンは答えなかった。答えられなかった。
「幽閉されて――抵抗もできず、誰かに救われるのを待つだけだった。そんな人間が、この国を治められるのか。私は――ただの旗なのではないか」
朝日が、王都の屋根を金色に染めていく。
連盟旗の下で配給を受ける市民の声が、遠くから聞こえる。
そしてレオンの腕の中で、この国の錦の御旗が――折れかけていた。




