第68話:留守番と潜入
朝が来ても、誰も起こしに来なかった。
当たり前だ。起こしに来る人たちは、もう街道の向こうにいる。
ミナは領主館の寝室で目を覚ました。椅子に座ったまま眠っていたらしい。首が痛い。背中も痛い。でも、そんなことはどうでもよかった。
ベッドの上のミチカは、昨夜と同じ姿勢で眠っている。
呼吸は浅く、規則正しい。ステータス画面は薄く光を放ち、体力値の「2」が変わらず表示されている。
「……おはようございます、ミチカ様」
返事はない。
ミナは立ち上がり、窓を開けた。冷たい朝の空気が頬を打つ。中庭には誰もいない。レオンが毎朝行っていた巡回の足音も、リオが商人と交わす軽口も、ユリウスが書類を捲る紙擦れの音も、ノアが薬草を煎じる匂いも――何もない。
静かすぎる。
「大丈夫です。大丈夫」
自分に言い聞かせて、ミナは執務机に向かった。
五人統治の定時報告書が、伝書筒で三通届いていた。レオンたちが出発する前に整えた連絡体制だ。領内の各拠点から、代行権限を持つ五人宛に――今はミナ宛に――毎朝届く。
一通目。治安隊からの巡回報告。異常なし。夜間の不審者情報なし。
二通目。物流ギルド南方拠点からの在庫報告。穀物備蓄は十四日分。連盟規格の配給量で計算済み。
三通目。上水管理班からの水質検査結果。煮沸・砂濾過済み。基準値内。
ミナはそれぞれの報告書に受領印を押し、確認済みの返信を書いた。ユリウスが起草した監査応対書式の書式番号を添え、日付と時刻を記入する。
制度は動いている。
人がいなくても、仕組みが回っている。
ミチカが作った仕組みが。
「ミチカ様、報告書が届きました。読み上げますね」
ミナはベッドの脇に椅子を戻し、座り、ミチカの手を取った。冷たくはない。温かくもない。ただ、そこにある。
「治安隊、異常なしです。巡回は通常通り。物流ギルドの備蓄は十四日分。水質も問題ありません」
ミチカの瞼は動かない。
「……全部、ミチカ様が作った制度です。ちゃんと動いてます」
声が震えそうになって、ミナは唇を噛んだ。
泣かない。泣いている暇はない。
報告書の処理を終え、ミナは次の仕事に取りかかった。レオンから出発前に託された連絡手順書。王都派遣部隊との定時連絡は、カイの情報網を経由して一日二回。朝と夜。
朝の連絡はまだ届いていない。
待つしかない。
ミナはミチカの額に手を当てた。熱はない。ノアが出発前に処方した薬湯の残りを温め直し、少しずつ口元に含ませる。嚥下反射はある。生きている。
「待っていてください。みんな、きっと――」
―――
王都街道。早朝。
レオンは馬上で息を整えた。
出発から一昼夜。急行軍で街道の三分の二を消化した。馬の疲労を考えれば限界に近い速度だ。だが、止まれない。
「カイの第五報、来た」
ユリウスが馬を寄せ、封書を差し出した。街道沿いの連絡所に預けられていたものだ。カイの情報網は、こういう場所にまで根を張っている。
レオンは封を切った。
中身は短い。カイらしい。
『ヴェルナー、陽動。明朝。第一宰相派旧屋敷前。名乗り。警備、分散する。第五報、以上』
「明朝か」
レオンは馬の首を撫でた。あと半日で王都近郊に入る。ぎりぎり間に合う。
「ユリウス。投降兵の編成表」
「もう広げてある」
ユリウスは馬上で器用に羊皮紙を片手で保持していた。グレゴールの私兵を辺境で破った際に投降した兵から得た、王都出発時の編成表だ。
「第二宰相邸の常駐警備は二十四名。三交代制で一度に八名。ただし、内戦開始後に増員されている可能性が高い。カイの第三報では三十名前後と推定」
「ヴェルナーの陽動で何名抜ける」
「第一宰相派の旧屋敷は第二宰相邸から北西に四区画。元近衛副長が名乗りを上げれば、少なくとも十名は急行する。残り二十名」
「二十名か」
「地下から行くなら、正面の警備は関係ない。問題は地下通路の入口周辺の哨戒だ。カイがそこを押さえられるかどうか」
レオンは頷いた。
「第五報には地下通路の状況がない。最終報を待つ」
「待てるのか? 時間は――」
「待つ。カイを信じる。これは制度だ」
ユリウスは一瞬だけ口を閉じ、それから皮肉な笑みを浮かべた。
「……制度、ね。便利な言葉だ」
「便利だから使う。盟主がそう言っていた」
隊列の後方から、リオが馬を走らせてきた。
「レオン、補給物資の配分、詰めたぜ」
「聞く」
リオは馬上で帳面を広げた。商人の血が騒ぐのか、こういう時だけ目が輝く。
「王都市民への配給準備。連盟規格の配給量で三日分。穀物、干し肉、塩。それと――ここ重要なんだけど――配給所の設置は第二宰相邸の周囲四箇所。占領軍の拠点じゃなくて、市民が普段使う広場に置く」
「理由は」
「占領じゃなくて救援だから。俺たちが来たら飯が食えるって思ってもらう。第二宰相派が物流止めてるせいで王都の市場は半壊してるはずだ。飢饉の正体は流通詰まり――ミチカが最初に言った言葉だろ」
レオンは黙って頷いた。
リオは帳面を閉じ、少しだけ声のトーンを落とした。
「……配給袋には連盟の印を押す。ミチカの名前じゃなくて、制度の名前で配る。盟主がいなくても回る仕組みってのは、こういうことだろ」
「ああ」
ユリウスが横から口を挟んだ。
「地下突入の手順を詰めるぞ。リオ、配給の話は終わりか」
「終わり。あとは現地で調整する」
「よし。投降兵の編成表から第二宰相邸地下の構造を推定する。地下一階は酒蔵。地下二階は――」
「ベッカーの証言では帳簿保管庫と牢獄」
「そうだ。継承者の幽閉場所と帳簿の写し、両方が同じ階にある。一度の突入で両方を確保する。分隊は二つに分けるべきだが――」
「人数が足りない」
「だから一隊で行く。先に継承者を確保し、帰路で帳簿を回収する。順番を間違えるな。人命が先だ」
レオンは剣の柄に手を置いた。
「了解した」
―――
深夜。領主館。
ミナは執務机に突っ伏して眠っていた。
夕刻の定時連絡で、レオンたちが王都近郊に到達したことだけは確認できた。明朝、ヴェルナーが動く。カイの最終報はまだ届いていない。
できることは全てやった。報告書の処理。連絡の中継。ミチカの看護。薬湯。水。額の汗を拭くこと。
それでも――
ミナはうたた寝の中で夢を見ていた。ミチカが立ち上がって「視察です」と言う夢。いつもの夢だ。何度も見た。
ふと、目が覚めた。
理由はわからない。音がしたわけでもない。ただ、何かが変わった気がした。
ミナは顔を上げた。
暗い寝室の中で、ミチカのステータス画面が――明滅していた。
淡い光が、ゆっくりと点いて、消えて、また点く。
心臓が跳ねた。
ミナは椅子を蹴って立ち上がり、ベッドに駆け寄った。
ステータス画面の体力値。
「2」が――
「3」に変わっていた。
たった一。たった一だけ。
でも、昨日まで微動だにしなかった数字が、上がっている。
「ミチカ、様……?」
ミナはミチカの手を握った。
冷たくない。昨日より、少しだけ温かい。
そのとき。
「……視察、です」
ミチカの唇が動いた。
寝言ではない。昨夜の「命令」とは違う。明瞭な、聞き慣れた声。小さいけれど、はっきりと。
ミナの手を、ミチカの指が――握り返した。
力は弱い。ほとんど感じないほどの圧力。でも、確かに。
「ミチカ様……!」
涙がこぼれそうになった。こらえた。こらえきれなかった。一粒だけ、ミチカの手の甲に落ちた。
「ミチカ様、聞こえますか。ミチカ様――」
返事はなかった。
ミチカの指から力が抜け、呼吸が再び浅く規則正しいものに戻る。ステータス画面の明滅が止まり、体力値「3」が静かに光を保っている。
沈黙。
ミナは涙を拭い、ミチカの手を両手で包んだ。
「……待っています。ずっと、ここで」
―――
王都。夜明け前。
第一宰相派の旧屋敷前に、一人の男が立った。
ヴェルナー。元近衛副長。今は名も身分も捨てた男。
だが――連盟の付帯条項が、この男の帰る場所を保障している。
「我が名はヴェルナー・フォン・ブレンナー! 元王都近衛副長にして、王位継承者殿下の忠臣である!」
声が夜明けの空気を裂いた。
旧屋敷の周囲で、第二宰相派の哨戒兵が動き出す。十名、十二名――ユリウスの推定を超える数が、ヴェルナーに向かって走った。
陽動、開始。
―――
同刻。王都南東区画。
カイの最終報が、街道沿いの連絡所に届いた。
封書の中身は一行だけ。
『地下通路、開いた』
レオンは封書を握りつぶした。
部隊は王都の南門外に展開している。連盟の旗を掲げ、配給物資を積んだ荷車を従えて。占領軍ではない。救援部隊として。
「全員、聞け」
レオンの声は低く、硬い。
「突入する。目標は第二宰相邸地下。継承者殿下の救出と帳簿の回収。配給班は南門通過後、指定の四箇所に展開。突入班は俺とユリウスが率いる。リオは配給と市民対応を指揮」
「了解」
「了解だ」
「任せろ」
ユリウスが一歩前に出た。
「レオン。一つだけ聞く」
「何だ」
「盟主の覚醒を待たないのか」
沈黙が落ちた。
兵たちが息を詰める。ユリウスの目は冷静だった。問い詰めているのではない。記録に残すために聞いている。この判断が、後に制度として検証されることを知っているから。
レオンは一瞬だけ目を閉じた。
ミチカの手の温度を思い出した。出発前、あの冷たくも温かくもない手。
目を開けた。
「待たない。これが制度だ」
ユリウスは頷いた。
「記録した。代行権限第七条に基づく現場指揮官の判断。署名は後で貰う」
「ああ」
レオンは剣を抜いた。
「――突入」
遠い領主館で、ミチカの体力値が「3」を刻み続けていた。
ミナがその手を握り続けていた。
王都では、夜が明けようとしていた。




