第66話:ミナの戦場
ミチカ様の指が動いた。
それに気づいたのは、深夜だった。私――ミナは、枕元の椅子でうとうとしていた。手の甲に何か触れた気がして目を覚ますと、掛布の下でミチカ様の右手の指先が、かすかに震えていた。
「……ミチカ様?」
小声で呼びかける。返事はない。呼吸は浅く、規則的で、眠りの深さは変わっていないように見える。
でも、指が動いている。昨日までは完全に弛緩していたのに。
体力値一。ノアさんが朝夕に確認している数値。健常者なら四十前後が通常だという。それが、一。もう何日も。
私はその指先にそっと自分の手を重ねた。冷たい。でも、微かに――本当に微かに、力がある。
ミチカ様に初めて名前を呼ばれた日のことを思い出す。
「ミナ」と。
様もつけず、敬称もなく、ただ名前だけ。
あのとき私は嬉しくて、同時に怖くなった。
この方は誰にでもそうなのだ。
身分も立場も飛び越えて、まっすぐに人の名前を呼ぶ。
だからこそ人がついていく。
だからこそ――こんなに簡単に、倒れる。
体力値が二あった頃、震える手で委任状に署名していた姿を思い出す。帰還命令書にも。カイさんに渡すための、あの書面にも。
「待っていますから」
額の汗を拭い、水を含ませた布で唇を湿らせる。
私にできることは少ない。薬草の調合はノアさんの仕事で、戦術はレオンさんとユリウスさんの領分で、補給計画はリオさんが担っている。私にはそのどれもできない。
でも、ここにいることはできる。
ずっとここにいて、この手が動いた瞬間を見逃さないこと。それだけが、私の仕事だった。
―――
翌朝、レオンさんが執務室で教えてくれた。
昨夜――私がミチカ様の枕元にいた、ちょうどその頃。カイさんが発ったのだと。
「夜闘の中でした。書面を受け取り、頷き、そのまま――」
レオンさんはそこで言葉を切った。感情が出そうになったのだと思う。一度目を閉じ、それから硬い声で続けた。
「……あの書面は、ミチカ殿が署名された帰還命令書です。任務完了ではなく、生きて帰れという命令。あの方らしい」
帰還命令書。どこまでも制度で人を守ろうとする、ミチカ様らしい書面。
ノアさんが静かに補足した。
「出発前にカイが残していったものがあります。投降兵への聴取内容をもとに、彼が作成した王都の略図です」
机の上には、その略図と、投降兵から押収した編成表の写しが広げられていた。
―――
ユリウスさんが編成表の分析を始めたのは、その直後だった。
私は執務室の隅に椅子を寄せて座っていた。議論の中身は半分も理解できない。でも、ミチカ様の代わりに聞いておかなければならないと思った。この方が目を覚ましたとき、何が起きていたかを伝えられるのは、たぶん私だけだ。
「復元できました。グレゴールが私兵三百を率いて王都を出た時点での、第二宰相派の防衛配置です」
眼鏡の奥の目が、略図の一点に据えられている。
「投降兵の中に元小隊長がいましてね。記憶力のいい男で助かりました。――さて、問題はここです」
指が王都中心部のある一画を叩いた。
「第二宰相邸。通常の警備は二十名程度のはずですが、この編成表から逆算すると――出発時点で邸周辺に六十名以上が配置されていた」
レオンさんが身を乗り出した。
「六十名……邸宅の警備にしては異常です」
「ええ。そして逆に――」
指が東寄りに滑った。
「王城東塔。殿下が最初に幽閉されていた場所には、たった十二名です」
リオさんが低く口笛を吹いた。
「つまり何、最初から東塔は仮の場所で、本命は第二宰相邸だったってこと?」
「そう考えるのが自然ですね。殿下を移送するなら、移送先の警備を先に固めておく。グレゴールは辺境に出る前にその準備を済ませていたわけです」
ユリウスさんの声から、一瞬だけ皮肉が消えた。純粋な分析者の顔だった。
「移送先の候補は三箇所。第二宰相邸、旧近衛詰所跡、王都南門の徴税倉庫。いずれも兵力配置が不自然に厚い」
レオンさんが腕を組んだ。
「三箇所のうち、どれが本物かは――」
「ここからでは判断できません」
ユリウスさんが端的に引き取った。
沈黙が落ちた。私は手元の紙に三つの場所の名前を書き留めた。字が震えている。こういうとき、ミチカ様ならきっと一瞬で優先順位をつけてしまうのだろう。私にはそれができない。できないことが、もどかしかった。
レオンさんが奥歯を噛むような間を置いて、低く言った。
「……カイの報告を待つしかありませんか」
「そういうことです」
―――
待つ間にも、やることは山積みだった。
リオさんが別の机で広げていたのは、連盟物流網の全体図。
「ユリウス、補給路の話、詰めたい」
「……何です」
「王都への補給路。本隊を送るにしても、兵站がなきゃ話にならないでしょ。で、連盟の物流網をそのまま転用できないか考えてたんだけど」
リオさんの指が地図上をなぞる。フリードリヒ領を経由し、中継拠点を三箇所設置し、王都南門に至るルート。
「フリードリヒ領までは既存の物流契約でカバーできる。問題はそこから先。王都近郊は第二宰相派の影響下にあるから、正規の街道は使えない」
「迂回路は?」
ユリウスさんが訊いた。
「ある。旧街道――今はほとんど使われてないけど、農村部を抜ける間道がある。ただし荷馬車は通れない。人力と馬の背だけ」
レオンさんが眉を寄せた。
「輸送量が大幅に制限されます」
「うん。だから少数精鋭なんだよ。大軍を送る補給力はない。でも逆に言えば、少数なら何とかなる」
リオさんがにっと笑った。商人の顔だ。
「連盟物流網の転用計画書、今日中に仕上げるよ。中継拠点の食料備蓄量、馬の手配数、所要日数――全部計算してある。あとは承認だけ」
承認。
その言葉が、空気を変えた。本来ならミチカ様がする仕事だ。
五人の視線が、一瞬だけ奥の部屋――ミチカ様が眠る寝室の方向に向かった。私の胸が締めつけられた。あの冷たい指先を思い出す。微かに震えた、あの力を。
レオンさんが静かに、しかし力強く言った。
「ミチカ殿が我々に託された代行委任状があります。……使いましょう」
誰も異を唱えなかった。
―――
その日の夕刻。
それは唐突にやってきた。
連盟の中継点から伝書鳩で届いた、一通の暗号文。カイさんからの第一報。中継点は連盟物流網の要所に設けられた通信拠点で、鳩のリレーによって辺境と王都の間を最短半日で結ぶ。カイさんが発って二日――王都に着き、すぐに送ったのだろう。
ユリウスさんが解読に三十分を要した。
符丁と数字置換を組み合わせた二重暗号だという。
暗号の鍵は、カイさんとミチカ様だけが共有していた符丁。
あの日――カイさんが投降してきた日に、ミチカ様が何かを伝えたことは私も知っている。
ただ、その中身は二人の間だけのものだった。
三十分の間、私はただ待つことしかできなかった。ユリウスさんが紙の上で記号を書き換えていく手元を見ていた。あの記号の一つひとつが意味を持っていて、その意味がミチカ様の運命に繋がっている。それなのに、私には読めない。
解読された文面を、ユリウスさんが読み上げた。
「『三候補のうち、旧近衛詰所跡と南門徴税倉庫は囮。両所に兵はいるが、内部に幽閉設備なし。継承者は第二宰相邸地下。地下通路は邸の東翼から。護衛は推定三十名以上。元近衛脱走兵を含む。正面突破は不可能。以上』」
沈黙が落ちた。
リオさんが最初に口を開いた。
「囮を二箇所も用意してたのか……敵さん、情報戦の手際がいいね」
「グレゴールが直接指揮していた名残でしょう」
ユリウスさんの声に、珍しく感嘆に近い響きがあった。
「あの男は辺境では粗暴に見えましたが、王都での根回しは一流だった。……認めたくはないですがね」
レオンさんが腕を組み直した。
「正面突破は不可能。護衛三十名以上、しかも元近衛を含む――練度が違います」
「それに、邸内で戦闘になれば殿下の安全が保証できません。幽閉されている方を救出するのに、邸ごと壊すわけにはいかない」
ノアさんが淡々と付け加えた。
正論だった。
私は三箇所の名前を書き留めた紙に、「第二宰相邸――本物」と書き足した。手が震えた。囮が二つ。本物が一つ。ミチカ様ならこの情報をどう使うのだろう。私には分からない。分からないけれど、記録だけはしておく。
リオさんが暗号文の紙をもう一度覗き込んだ。
「ねえ、この文面。最後の『以上』の後に、まだ何か書いてない?」
ユリウスさんが目を細めた。
「……ああ、追伸がありますね。符丁のみの単純暗号だ、すぐ読めます」
読み上げられた追伸は、短かった。
「『協力者の身元を開示する。元近衛副長ヴェルナー。殿下の側近だった男。信用に足る』」
五人の間に、緊張が走った。
カイさんの王都協力者。その存在は以前から示唆されていたが、正体は明かされていなかった。
元近衛副長。
レオンさんの表情が変わった。
「近衛副長ヴェルナー……名前は存じています。王位継承者殿下の護衛を長く務めていた方です」
「つまり殿下への直接接触ルートを持っている」
ユリウスさんが即座に意味を読み取った。
「しかも元近衛なら、現在邸内にいる護衛――元近衛脱走兵の内情にも通じている可能性がある」
リオさんが指を鳴らした。
「なるほどね。だからカイは正面突破は不可能だと言いつつ、絶望的とは言わなかったわけだ。内側に手がある」
ノアさんが小さく頷いた。
「ただし、元副長が邸内に入れるかどうかは別の問題です。脱走兵たちが彼を味方と認識するか、裏切り者と見なすか」
「……そこが鍵ですね」
レオンさんが低く言った。
情報は揃いつつある。第二宰相邸の地下。護衛の構成。内部協力者の正体。
だが――それを実行に移すための時間がない。
―――
夜。
ノアさんがミチカ様の体力値を確認した。
「……二です」
その一言に、部屋の空気が変わった。
私は顔を上げた。
「二……? 昨日まで一だったのに」
「微増です。指先の微動と一致しています。回復の兆候と見ていいでしょう」
ノアさんの声は冷静だったが、その目にわずかな光があった。
「ただし――」
彼は全員の顔を順に見た。
「五を超えなければ意識の回復は望めません。現在の回復速度――一日あたり一ポイント前後――から逆算して、覚醒までには最短で三日を要します」
三日。
リオさんが天井を仰いだ。
「……三日か。王都への出発予定は二日後なんだよね。補給路の日程から逆算して、これ以上遅らせると中継拠点の食料備蓄が持たない」
「つまり一日足りない、と」
ユリウスさんが端的にまとめた。
二日後に出発すれば、ミチカ様は眠ったまま。盟主なき救出作戦。
三日待てば、ミチカ様が目を覚ますかもしれない。だが補給が崩壊する。
レオンさんが最初に口を開いた。
「盟主の指揮なしで王都に乗り込むのは、法的にも実務的にも危うい。ミチカ殿の覚醒を待つべきです」
「待てば補給路が死ぬよ」
リオさんが即座に返した。声は軽いが、目は笑っていなかった。
「補給なき作戦は作戦じゃない。出るべきだ」
「代行委任状で法的根拠はカバーできます」
ユリウスさんが眼鏡の位置を直しながら言った。
「問題は現場判断ですよ。救出作戦の指揮を誰が執るのか。ミチカ殿の判断力なしで、あの邸に突入する決断ができますか? ――妥協案として、先遣隊だけを二日後に出し、本隊はミチカ殿の覚醒を待つ二段構えはどうです」
「兵力が分散する。少数精鋭をさらに割るのは悪手だ」
リオさんが首を振った。
レオンさんがノアさんに目を向けた。
「ノア。医療的に、三日で確実に覚醒すると言えますか」
ノアさんは一拍置いて答えた。
「確実とは言えません。三日は最短の見積もりです。回復速度が鈍れば四日かかる可能性もあります」
四日。それでは論外だった。
議論が堂々巡りを始めた。補給の現実と、盟主の不在と、兵力の限界と。誰の言い分にも理がある。だから誰も譲れない。
私はずっと黙って聞いていた。口を挟める議論ではなかった。戦術も補給も医療も、私の領分ではない。自分がここにいていいのかさえ分からなかった。椅子の端を握る手に力がこもる。でも――ミチカ様のことなら、知っている。
誰よりも近くで見てきた。
「……ミチカ様なら」
声が出ていた。自分でも驚いた。全員の視線が集まる。
レオンさんが一瞬、怪訝な表情を浮かべた。ユリウスさんの眉が微かに上がった。場違いだと思われたのかもしれない。それでも――言葉は止まらなかった。
「ミチカ様なら、待たないと思います」
声が震えた。でも続けた。
「あの方はいつも、自分の体より制度を優先してきました。体力値が一桁でも監査に出ようとした。倒れる寸前まで委任状を書いていた。あの指が――昨日まで動かなかった指が、今日動いたのは、きっと、まだやることがあるからで――」
言葉が詰まった。
枕元でずっと握っていた、あの冷たい指を思い出す。微かに震えた、あの力を。
「だから、私は待ちたい。ミチカ様が目を開けるのを、隣で見ていたい。でも――ミチカ様の判断は、きっと、出発です」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
レオンさんが目を伏せた。何かを飲み込むように顎を引いてから、低く言った。
「……ミチカ殿なら、そう仰るでしょうね」
ユリウスさんは眼鏡を外し、レンズを布で拭いていた。何も言わなかった。ただ、その手が止まっていた。
誰も結論を出せないまま、議論は深夜に及んだ。
やがて、窓の外が白み始めた。
夜が明ける。
出発期限まで、あと二日。ミチカ様の覚醒まで、最短で三日。
たった一日のずれが、すべてを変えようとしていた。
―――
同じ朝の、靄が薄れ始めた頃だった。
中継点からの伝書鳩が、もう一羽届いた。
カイさんからの第二報。今度は符丁のみの単純暗号で、ユリウスさんの解読は十分とかからなかった。
暗号文本文は、一行だけだった。
「『殿下の体力値低下を確認。現推定三。衰弱の速度から逆算し、猶予は五日以内』」
――五日。
ただし、別紙として同封された護衛配置図は精密だった。邸内の各部屋、地下通路の構造、護衛の交代時刻まで記された図面。レオンさんが一目で「ヴェルナーの協力がなければ描けない」と断じた。
だが、五人の顔を凍りつかせたのは配置図ではなかった。
五日。
ミチカ様の覚醒を待てば、残りは二日。
二日で王都に辿り着き、第二宰相邸の地下に突入し、殿下を救出する。
不可能ではない。だが、一切の余裕がない。
リオさんが、初めて笑みを消した。
「……補給の話じゃなくなったね」
レオンさんの拳が、机の上で白くなっていた。
ユリウスさんが暗号文を机に置いた。その手が、わずかに震えていた。
「出発を早めれば盟主不在で突入することになる。覚醒を待てば殿下の命が危うくなる。――どちらを選んでも、何かを犠牲にする」
その言葉が、朝の光の中に落ちた。
誰も、何も言えなかった。
――そのとき。
窓の外で、鳩の羽音がした。
三羽目。
ユリウスさんが脚筒を外し、中の紙片を広げた。暗号ですらなかった。カイさんの筆跡で、走り書きの一行。
「『一人、犠牲が要る』」
朝の光が、その六文字を白く照らしていた。




