第65話:唇が動いた
唇が、動いた。
確かに動いた。
ミナは天幕の薄暗がりの中で、ミチカの顔を食い入るように見つめていた。手のひらに包んだ小さな手は氷のように冷たくて、でも確かに脈は打っている。体力値一。ステータス画面に浮かぶその数字を見るたびに胃が縮む。
十日前、グレゴールの私兵三百を補給断絶で崩した戦い――その最終局面で、ミチカはインベントリの連続使用で体力を使い果たした。崩れ落ちた瞬間の体力値は零。ノアの応急処置でかろうじて一まで戻したが、それきり目を開けていない。
もう一度。
唇が、震えた。
「……め……」
音にならない声。でも形は読める。ミナはこの十日、誰よりもこの唇を見つめてきた。
――あの日。昏睡に落ちる直前、ミチカはミナの手を掴んで、途切れ途切れに言葉を残していた。
*委任状……十七条……外交も……含めて、です……五人に……伝えて*
意識が混濁する中での言葉だった。ミナはそれを一字一句、手帳に書き留めている。ただ、それが何を意味するのか――ミナには判断がつかなかった。五人が必要とする瞬間が来るまで、大切に抱えておこうと思っていた。
「ミチカ様が……何か仰ってます……!」
天幕の入口に立つレオンが振り返った。その背後では、五人の統治代行者たちが戦後処理の書類を広げたまま固まっている。
「何と?」
「わかりません。でも唇が動いて――」
「静かに」
ノアが短く制した。天幕の中に沈黙が落ちる。
全員の目がミチカに集まった。
だが唇の動きは止まり、再び深い昏睡に沈む。
「……戻ったか」
レオンが低く息を吐いた。その声に、安堵と落胆が半分ずつ混じっている。
「ミナ、引き続き見ていてくれ。少しでも変化があれば即座に――」
「はい。絶対に、離れません」
ミナの声は震えていたが、目は揺らがなかった。
―――
天幕の外、篝火の明かりが揺れる仮設の指揮卓。
五人が向き合った。
卓上にはカイが持ち込んだ暗号通信の解読結果が広げられている。薄い紙片に、ノアが丁寧に書き起こした平文が並ぶ。
「整理する」
ユリウスが羽ペンの先で紙片を順に指した。
「カイの王都協力者――元近衛副長からの報告。
一、王位継承者殿下は第二宰相派により王城東塔に幽閉された。
二、第一宰相派が武力蜂起し王都は内戦状態。
三、近衛隊は分裂、正門と東門を第二宰相派の私兵が封鎖。
四、殿下の身柄を盾に第二宰相派が摂政宣言を準備中」
淡々と読み上げた後、ユリウスは顔を上げた。
「……で、アルブレヒトとの救援密約の発動条件は『王都のある方が助けを求めた際に制度として応じる』だったわけだが」
「条件は満たされた」
カイが端的に言った。
「殿下の側近から、救援要請の書状。暗号で確認済み」
「つまり、動ける」
レオンが身を乗り出した。
「待って」
リオが片手を上げた。軽い口調だが、目は笑っていない。
「動ける、と、動くべき、は違う話だよ。レオン」
「民が――王都の民が死んでいる」
「知ってる。でもね、うちの兵站はどうなってる? さっき三百の私兵を補給断絶で崩したばかりだよ? 備蓄は底をついてる。投降兵二百四十七人の食い扶持だけで一日あたり穀物三十袋。王都まで何日かかる? 往復の補給線は? 護送中のグレゴールは?」
リオが指を折りながら数え上げるたびに、レオンの眉間の皺が深くなる。
「だからと言って――」
「リオの指摘は正しい」
ノアが静かに割って入った。
「現時点の備蓄量と輸送能力では、王都への全軍進軍は不可能。最低でも七日の補給再編が必要になる」
「七日あったら王都は落ちる!」
レオンの声が跳ねた。
「落ち着け、騎士殿」
ユリウスが眼鏡を押し上げた。皮肉の色は薄く、珍しく真剣な目をしている。
「そもそも法的な問題がある。救援密約はミチカが盟主として締結した。発動には盟主の命令が必要だ。……盟主は今、体力値一で昏睡中。署名もできなければ、命令も出せない」
沈黙が落ちた。
篝火が爆ぜる音だけが響く。
「代行委任状は?」
リオが言った。
「あるにはある」
ユリウスが書類の束から一枚を引き抜いた。ミチカの署名と自治領の公印が押された代行委任状。監査団対応のために作られた、あの文書。
「だが、これは領内の行政権限を五人に委任するものだ。連盟盟主としての外交・軍事権限まで含むかどうか――」
ユリウスは一瞬言葉を切り、委任状の条文を指で辿った。
「……条項十七に包括的な文言がある。『本委任状に基づく代行権限は、署名者が盟主として締結した一切の契約・協定の履行に関する判断を含む』。ミチカが署名直前に追記した一文だ。起草時の原案にはなかった」
「じゃあ動けるのか?」
レオンが食いついた。
「待て。俺はこの条項を認識していた」
ユリウスが苦い顔で眼鏡を押し上げた。
「だが正直に言えば、これは行政上の協定――物流契約や関税協定の履行を想定した文言だと解釈していた。軍事密約の発動権限にまで及ぶとは読んでいなかった。……ミチカは最初から、この事態を想定していたのか」
「つまり、法的にはグレーか」
「限りなく白に近いグレー、と言っておこう。文言の射程は広い。だが連盟規約の精神――『合意に基づく統治』を考えれば、盟主の意思確認なしに軍を動かすのは危うい」
「だったら――」
レオンが言いかけた、その時。
「……ミチカ様!」
天幕の中からミナの声が響いた。
全員が弾かれたように立ち上がる。
―――
天幕に飛び込んだ五人が見たのは、薄く目を開けたミチカだった。
焦点の合わない目。乾いた唇。体力値の数字は――一のまま。それでも。
「……命令、です」
掠れた声が、空気を震わせた。
「代行……委任状……」
「ミチカ様、喋らないでください……!」
ミナが悲鳴に近い声を上げた。だが同時に、手帳を握る手に力を込めた。
「あの、皆さん――」
ミナは震える声で、けれど一語も落とすまいとするように言った。
「ミチカ様が昏睡に落ちる前に、私に言葉を残されていました。『委任状、十七条、外交も含めて、です。五人に伝えて』と」
五人の目がミナに集中した。
「……手帳に書き留めて、あります。でも、私にはそれが何を意味するのかわからなくて、皆さんが必要とされる時まで待とうと……」
ミチカの唇が、かすかに動いた。
「……十七条……発動、して……」
それだけだった。目が閉じる。再び深い昏睡に落ちていく。
だがその数秒の言葉と、ミナが抱えていた伝言が――欠けていた最後の一片を埋めた。
ユリウスが委任状を掴み直した。条項十七の文言を、今度は声に出して読む。
「『本委任状に基づく代行権限は、署名者が盟主として締結した一切の契約・協定の履行に関する判断を含む』――盟主自身が、この条項を軍事密約の発動根拠として指定した。事前の伝言と、覚醒時の発言。二重の意思確認だ」
ユリウスの声が低く震えた。
「……もうグレーじゃない。盟主の明示的な意思がある以上、法的障壁はない」
ミナがミチカの手を握り直した。指先が、わずかに温かくなっている気がした。
「……聞いたな」
レオンが低く言った。
「盟主の言葉だ。代行委任状は生きている」
「ああ」
ユリウスが委任状を卓上に置いた。
「法的には、動ける」
リオが腕を組んだ。
「法的には、ね。でも補給の問題は消えてない」
「それについて一つ」
カイが口を開いた。全員の視線が集まる。普段は二語で済ませるやつが、続けて話そうとしている。
「投降兵の中に、グレゴールの編成表を持つ者。王都残存の守備兵力と配置が推定できる」
「……それは使える」
リオの目が光った。
「全軍で行く必要はないかもしれない。第二宰相派の王都残存兵力が薄いなら、少数精鋭で――」
「少数でも補給はいる」
ノアが静かに指摘した。
「もちろん」
リオが指を一本立てた。商人の顔になっている。
「だからフリードリヒだよ。
あの人の領地は王都への街道上にある。
賛同を取り付けるだけじゃない――補給拠点の提供を条件に含める。
フリードリヒ領の備蓄から糧食と馬匹を借り受ければ、少数精鋭なら往復の補給線を維持できる。
代わりに、戦後の王都物流利権の優先交渉権を渡す。
あの人が断れない条件だ」
「打算で動く同盟者は、より大きな利益で裏切る」
ノアが静かに言った。
「だからこそ制度で縛る。契約書に書いてあることだけが信用できる――ミチカの口癖だろう?」
リオが肩をすくめた。
「補給提供の条件も書面に落とす。ユリウス、決議文と一緒に契約書を起草できるか?」
「……やれやれ、商人は注文が多い」
ユリウスが羽ペンを取った。口は皮肉だが、手はもう動いている。
「連盟評議会の承認もいる。代行委任状で法的には動けるが、連盟として動くなら加盟領の合意が必要だ。フリードリヒの賛同は最低限取り付けろ」
「……よし」
レオンが息を吸った。
「緊急評議会を招集する。フリードリヒへの使者は――」
「俺が行く。馬で二刻あれば着く。補給交渉も同時にやる」
リオが立ち上がった。
残りの四人が、それぞれ口を開いた。
「投降兵の聞き取りと編成表の精査は俺がやる」
ノアが言った。
「王都協力者への連絡と出発準備」
カイが短く続けた。
「決議文と補給契約書の起草。……寝られそうにないな」
ユリウスが肩を回した。
「防衛態勢の維持と、グレゴールの護送準備は俺が引き受ける」
レオンが締めくくった。
五人の視線が一瞬交差した。
盟主はいない。命令を出す者はいない。だが制度がある。委任状がある。そして――この天幕の中で、昏睡に落ちる前に伝言を託し、体力値一で目を覚まして法的根拠を示し、再び眠りに落ちた少女が作った仕組みがある。
「動くぞ」
誰が言ったのか、もう区別がつかなかった。
―――
三刻後。
リオがフリードリヒの賛同書と補給契約書を携えて戻った。
予想通り、交渉は早かった。
「グレゴール拘束の報を聞いた瞬間に賛同書へ署名した。
補給条件も――王都物流利権の優先交渉権を見せたら、穀物と馬匹の提供を即決した」とリオは笑った。
「街道沿いの三箇所に補給集積所を設ける。
少数精鋭二十名分なら、往復十日の行程を支えられる」
連盟緊急評議会――と言っても、篝火の前に五人と使者が並んだだけの簡素なものだった。だがユリウスが起草した決議文には、連盟の公印と代行者五名の署名、そしてフリードリヒの賛同署名が揃っている。
「自由都市連盟は、救援密約に基づき、王都における王位継承者殿下の救出および秩序回復のため、連盟軍を派遣することを決議する」
ユリウスが読み上げた。
決議文の墨が乾く前に、カイはすでに荷をまとめていた。
「先行する。協力者と合流、殿下の幽閉場所を特定」
「カイ」
レオンが呼び止めた。
ミチカが出した帰還命令――グレゴールとの戦闘前、全員に課された『必ず生きて戻れ』という盟主命令。カイが単独任務に出るたびに、レオンはそれを口にする。
「帰還命令は生きている。忘れるな」
「……了解」
カイが天幕を出ようとした、その瞬間。
伝書が届いた。
カイの協力者――元近衛副長からの第二報。暗号を解読したノアの顔が、初めて明確に強張った。
「……殿下が、王城から移送された」
「何?」
「城外の不明拠点へ。移送先不明。護送兵の規模も不明。東塔はもぬけの殻」
沈黙が、篝火の音すら飲み込んだ。
王城東塔への突入を前提にしていた救出計画が、根本から崩れた。幽閉場所がわからなければ、軍を送っても意味がない。
「……情報戦だ」
ユリウスが唸った。
「まず場所を特定しなければ、何もできない」
カイが振り返った。その目に、かつて路地裏で生きていた頃の冷徹さが一瞬だけ宿る。
「単身で潜入する。殿下の移送先を特定」
「カイ――」
「元近衛副長。王城内部の人脈あり。移送に関わった兵を特定すれば、追跡は可能」
レオンが口を開きかけ、閉じた。感情を飲み込む、いつもの癖。
「……帰還命令は」
「生きている」
カイが短く答えた。
天幕の布が風に揺れた。その向こうで、ミナがミチカの手を握ったまま、こちらを見ていた。
唇が、また動いていないかと――ミナは目を凝らした。
動いていなかった。
でもミチカの指先は、ほんのわずかに、ミナの手を握り返しているように見えた。
体力値は、一のまま。
だが仕組みは動いている。盟主が作った制度が、盟主の不在を超えて、王都へ向かおうとしている。
夜風が篝火を揺らした。その明かりの向こう――王都へ続く街道の闇を、まだ誰も見通すことはできなかった。




