第64話:無血の決戦
夜明け前の空気が、鉄の匂いを含んでいた。
防壁の上から見下ろすと、松明の列が三方から迫ってくるのが見える。グレゴールの総攻撃。予想通り、二日目の朝を待たずに仕掛けてきた。
「右翼八十、中央百二十、左翼八十。本隊百二十は後方に温存。……昨日と配置が違う」
レオンが短く報告する。昨夜放った斥候二名の報告と、松明の間隔から割り出した概数だ。息が白い。まだ陽は昇っていない。
「中央に厚くしてきたか。正面突破のつもりだな」
ユリウスが防壁の縁に手をかけ、暗闇の中で目を細めた。
「……いや、違うね」
リオの声だった。防壁の裏手、補給物資の山の上に立っている。昨日わざと敵から見える位置に積み上げた――あの山だ。
「右翼の足並み、見てみなよ。バラバラだ」
言われて目を凝らす。確かに、右翼の松明の列が乱れている。前進と停滞を繰り返し、隊列として機能していない。
リオがにやりと笑った。
「昨日の補給誇示、効いてるよ。あっち側は二日目の朝飯すら満足に出てない。こっちは温かいスープの匂いが風下に流れてるのに、自分たちの腹は空っぽ。そりゃ足も止まるさ」
ステータスオープン。
――と、私がここにいれば確認できたんだけど。
今の私は、防壁から少し離れた天幕の中で、体力値一のまま意識不明で寝ている。
ミナが傍についてくれているらしい。
だから、これは後から五人に聞いた話と、ノアの戦闘記録を突き合わせて再構成している。
時刻や秒数の精度はノアの記録に依存しているし、表情や声の調子は聞いた人間の主観が入っている。
正確さは保証しない。
でも、嘘はないと思う。
数値は想像がつく。
昨日の時点で敵兵の忠誠値は四十七まで落ちていた。一晩の空腹と、こちらの余裕を見せつけられて――おそらく三十台前半。
戦う理由を数字が否定し始めている。
―――
「来るぞ! 中央、接触まで二百歩!」
レオンの声が防壁に響いた。
百四十の兵が配置につく。昨日と同じ防壁。同じ陣形。だが、兵の目が違う。一度勝っている。死者なしで退けた経験が、肩の力を抜かせている。
中央から敵の怒号が聞こえた。百二十の兵が防壁に殺到する。
矢が飛ぶ。丸太が転がる。ただし、いずれも殺傷ではなく足止めと威嚇が目的だ。防壁の手前で密集させず、接近を遅らせるための牽制。殺す必要はない――投降させるために。防壁の構造が敵の密集を許さない。昨日と同じだ。
違うのは、右翼だった。
「右翼、停止。……いや、後退してる」
ノアが淡々と報告した。防壁の端から敵の動きを観察している。
右翼八十のうち、前列の二十が足を止め、後列が崩れた。命令が通っていない。指揮官の怒鳴り声が聞こえるが、兵が動かない。
「忠誠値三十を切ると、命令への反応速度が極端に落ちる」
ノアの言葉は、私がかつて五人に共有した統治メモの引用だった。
ステータスで見えた数値の法則。忠誠値が三十を下回ると、兵は死を覚悟する命令に従わなくなる。四十なら渋々動く。三十で止まる。二十で逃げる。
補給を断つとは、そういうことだ。
剣で斬るのではない。腹を空かせて、数字を削る。
天幕では、ミナが濡らした布でミチカの額を拭いていた。戦闘の音が布越しに響く中、祈るように手を動かしている。ミチカの体力値は一のまま、変わらない。
―――
中央の攻勢が三度目の波を迎えた頃、ユリウスが動いた。
防壁の最上段に立ち、朝焼けに照らされた姿で、巻紙を広げる。
「グレゴール家私兵諸君に告ぐ」
声が通った。法廷で鍛えた声量だ。戦場の喧騒の中でも、言葉が届く。
「本日をもって、グレゴール家の武力行使は王国法第十七条に基づき反乱と認定された。
これは昨日付の連盟布告である。
自由都市連盟法務官――すなわち俺の権限で起草し、連盟評議会の緊急承認を経て発効したものだ。
王都の第一宰相府にも写しが送達済みである」
敵の中央が、一瞬だけ動きを止めた。
「投降する者には以下の恩赦条件を公示する。第一、投降者の生命を保証する。第二、武装解除の後、連盟領内での労役編入を認める。第三、労役期間は最長二年とし、期間満了後は自由民としての居住権を付与する」
ユリウスの声に、皮肉はなかった。淡々と、制度の言葉で語っている。
「なお、異議ある者は投降後に正式な審理を請求する権利を有する」
巻紙を閉じた。
「……まあ、死にたい奴は好きにすればいい」
最後だけ、いつものユリウスだった。
―――
布告の効果は、即座に現れた。
右翼が崩れた。
最初の一人が武器を捨てたのは、布告から数えて百二十秒後だったとノアの記録にある。一人が投降すると、隣の兵が迷い、その隣が武器を下ろし、連鎖が始まった。
右翼八十のうち、三十七名が午前中に投降した。
中央も動揺が走る。百二十のうち、後列の兵が振り返り始めた。振り返る先には――退路がない。
フリードリヒの援軍だった。
カイからの伝令兵が天幕横の通信所から駆けてきた。カイ自身は天幕付近で王都の協力者との暗号通信に張りついたまま、街道封鎖の現場報告だけを伝令に託したのだ。
「街道封鎖、完了。退路なし」
紙片に書かれたカイの字。短い。いつも通りだ。
フリードリヒが連盟加盟契約の相互防衛条項を根拠に派遣した六十の兵が、敵の背後の街道を塞いでいた。連盟の相互防衛が初めて実戦で発動した瞬間だった。
前は防壁。後ろは封鎖。横は崩壊した右翼の残骸。
グレゴールの私兵は、袋の中にいた。
投降者が続出した。中央から十五。左翼から二十二。午前だけで七十四名。指揮系統が溶けていく。命令を出す小隊長自身が武器を捨てるケースも出始めた。
―――
正午を過ぎた頃、グレゴールが動いた。
本隊百二十を率いて自ら前線に出てきた。
白髪交じりの壮年の男。
第二宰相の右腕と呼ばれた政治家――だが、この男には宮廷でも知られた別の顔がある。
交渉の席で卓を叩き割った逸話が三度。
議場で反対派の書記官を殴打して謹慎処分を受けたことも一度。
政治的手腕の裏に、制御できない激情を飼っている男だった。
馬上で叫んでいる。
「帳簿を焼け! 全て焼却しろ! 証拠は消えた、我々は潔白だ!」
後方の陣で煙が上がった。グレゴールが持参していた帳簿の束に火が放たれたのだろう。
「証拠隠滅、成功宣言だとさ」
リオが防壁の上で肩をすくめた。声が妙に軽い。
三日前のことだ。
リオは連盟側の行商人に紛れてグレゴールの後方陣に入り、補給物資の検品を装って帳簿の所在を確認した。
同夜、カイの協力者が陣内の不満兵を手引きし、本物の帳簿を連盟の秘匿拠点に移送。
リオが一晩かけて筆跡を模写した偽物をすり替えた。
――この作戦の詳細は、後で別に書く。
今は結果だけ。
「ユリウス、言っていい?」
「どうぞ」
リオが声を張り上げた。防壁の上から、グレゴールに向かって。
「グレゴール閣下ァ! 残念なお知らせがあるんだけど!」
戦場が一瞬、静まった。
「あんたが今燃やしたの、囮だよ!」
リオの声が朝の――いや、もう昼過ぎの空気に響く。
「本物の帳簿は三日前に連盟の秘匿拠点に移送済み。あんたの陣にあったのは、俺が丁寧に写した偽物。筆跡まで似せたから気づかなかったでしょ? 商人の字は綺麗なんだよ、残念ながら」
グレゴールの顔が、防壁の上からでもわかるほど赤く染まった。
三百の兵が崩壊した。証拠隠滅も失敗した。そして今、残った部下たちの前で、自分が敵の掌の上で踊らされていたことを暴露された。政治家としての面目は完全に潰れた。
グレゴールの中で、何かが折れる音がした――ように、後で投降兵の一人が語っている。
「貴様ァッ……!」
激昂。
グレゴールは馬の腹を蹴り、単騎で防壁に向かって突進してきた。本隊百二十の制止を振り切って。副官が手綱を掴もうとしたが、鞭で払われた。もはや政治家の判断ではない。面目を潰された男の、剥き出しの暴力だった。
レオンが防壁を飛び降りた。
「――止まれ」
短い一言。剣を抜いてすらいない。盾を構え、馬の前に立った。
グレゴールの馬が嘶き、前脚を上げた。レオンは動かない。馬が止まる。騎手の技量ではない。馬自身が、この壁を越えられないと判断したのだ。
グレゴールが馬上から剣を振り下ろした。
レオンの盾が受ける。金属音。一撃。二撃。三撃目で、グレゴールの剣が弾かれた。
レオンが馬の手綱を掴み、引き倒す。グレゴールが地面に転がった。
「拘束する」
レオンの声には感情がなかった。任務だ。ただの任務として、王国第二宰相の右腕を地面に押さえつけた。
周囲の私兵が見ている。指揮官が倒された。最後の求心力が消えた。
武器が落ちる音が、あちこちから聞こえた。
―――
辺境防衛戦、終結。
戦闘時間は夜明け前から正午過ぎまで、約八時間。
敵兵四百のうち、戦死者はゼロ。こちらの死者もゼロ。投降者二百四十七名。残りは武装解除の上で拘束。グレゴール本人を含む指揮官級十二名は別途収監。
武力ではなく、補給と制度で軍を瓦解させた。
……と、格好よく書きたいところだけど。
正直に言えば、これは私が設計した戦略を五人が実行してくれた結果だ。私自身は天幕で寝ていただけ。体力値一。何もできなかった。
でも、制度は動いた。
私がいなくても。
それが、たぶん――一番大事なことだった。
―――
投降兵の処理が始まった。二百四十七名。こちらの兵は百四十、フリードリヒの六十を合わせても二百。捕虜の方が多い。
「兵站的には最悪だな」ユリウスが眉間を揉んだ。「二百で二百四十七名の武装解除と身元確認。食わせる飯も倍いる」
「恩赦条件を信じて投降した連中だ。ここで扱いを間違えると制度の信用が死ぬ」
リオが珍しく真顔で言った。
ユリウスが頷き、投降兵を二十名ずつの班に分け、班ごとに武装解除と身元確認を順番に行う手順を指示した。ユリウスが起草した書式に従い、一人ずつ名前と出身地が記録されていく。時間はかかる。だが、手順を省くわけにはいかない。
その処理が粛々と進んでいた矢先のことだった。
「暗号通信。王都。カイの協力者から」
ノアが天幕に駆け込んできた。手に小さな紙片を握っている。
ユリウスが受け取り、暗号を解読した。
顔色が変わった。
「……王位継承者の幽閉が公表された。第一宰相派が武力蜂起。王都は内戦状態に入った」
天幕の中が凍りついた。
リオが最初に口を開いた。
「救援密約。アルブレヒトとの契約。『王都のある方が助けを求めた際に制度として応じる』――発動条件、満たされたな」
「法的には確定だ」ユリウスが紙片を置いた。「王位継承者の幽閉が公表された時点で、救援要請と同等の効力を持つ。密約の条項に明記されている」
レオンが拳を握った。
「……ミチカ様がいない」
全員が、天幕の奥を見た。
簡易寝台の上で、ミチカが眠っている。体力値一。深度昏睡。いつ目覚めるかわからない。
盟主不在のまま、王都介入を決断するのか。
五人の視線が交錯した。
「議論しよう」ユリウスが言った。「時間はない。だが、手順を省くわけにはいかない。制度で動く。それが俺たちのやり方だ」
リオが頷いた。ノアが記録用の紙を広げた。レオンが天幕の入口に立ち、護衛を兼ねた。
カイは――天幕の隅で、まだ暗号器に向かっている。王都の協力者との通信が途切れていない。指が止まらない。
議論が始まろうとした、その時だった。
「……あ」
ミナの声だった。
簡易寝台の脇で、ずっとミチカの手を握っていたミナが、小さく息を呑んだ。
「ミチカ様の……唇が……」
全員の目がミチカに向く。
動いた――ように見えた。微かに。唇が。何かを言おうとするように。
それとも、ただの痙攣か。
覚醒の兆候か。
それとも――。
ミナだけが気づいた、その微かな動き。
次の瞬間には止まっていた。
「……ミチカ様」
ミナの声が震えた。祈るように。呼びかけるように。
返事はない。
天幕の外では、投降兵の班分け処理がまだ続いている。二百四十七名の記録は半分も終わっていない。
辺境の戦いは終わった。
だが、王都の戦いはこれからだ。
そして盟主は、まだ目を覚まさない。




