第63話:四百対百七十三
霧だ。
夜明け前の空気は冷たく湿って、吐く息が白い。レオンは封鎖線の最前線――街道を横切る形で築いた土嚢と荷車の即席防壁の上に立ち、南の闇を睨んでいた。
視界は百歩もない。
だが、音は聞こえる。
ざ、ざ、ざ――。
靴底が乾いた土を踏む音。一つではない。十でもない。百でもまだ足りない。
やがて、霧の奥に橙色の光が滲み始めた。
松明だ。
一本、二本――いや、数えるのをやめた。霧の幕の向こうに、火の帯が横一列に広がっている。
「……来たか」
レオンの隣で、フリードリヒ領から合流した民兵の小隊長が息を呑んだ。
「あれ、全部……敵さんですかい」
「……ああ」
余計な言葉は要らなかった。霧の中では声が通る。動揺を一音たりとも漏らすわけにはいかない。
松明の帯が近づくにつれ、霧の中に軍旗が浮かび上がる。黒地に銀の鷲――グレゴール家の紋章。
四百。
事前の情報より多い。本家の予備兵力まで引き出してきたか。
こちらは治安隊四十とフリードリヒ民兵百。合わせて百四十。
ざっと三対一。
数字は残酷だ。だが、数字で戦うと決めたのは――他でもない、あの小さな盟主だ。
レオンは防壁の内側に控える部下たちを振り返った。
「持ち場を離れるな。挑発に乗るな。防壁から一歩も出るな」
短く、鋭く。
「……俺たちの仕事は、ここに立っていることだ」
―――
最初に動いたのはグレゴール側だった。
霧が薄まり始めた頃、白旗を掲げた騎馬が一騎、防壁の前まで進み出た。手には封蝋付きの書簡。
降伏勧告。
レオンは受け取りを拒まなかった。拒めば交渉の余地を自ら潰すことになる。ユリウスにそう叩き込まれている。
書簡は即座に後方の仮設指揮所へ送られた。
―――
指揮所の机に広げられた書簡を、ユリウスが一読して鼻で笑った。
「『帳簿と盟主を引き渡せば撤兵する。領民への危害は加えない』――ご丁寧に慈悲深い文面だな」
「要するに全面降伏じゃないか」
リオが横から覗き込み、肩をすくめた。
「帳簿って、あの囮のことかな? それとも本物?」
「どちらでもいい。重要なのは、グレゴールが帳簿を欲しがっているという事実が書面に残ったことだ」
ユリウスは既に返書の起草に取りかかっていた。羽ペンの走る音だけが、狭い天幕に響く。
「……王国基本法において、王命なき私兵の武力動員は明確に制限されている。加えて自由都市連盟規約第七条に基づき、連盟は加盟領の防衛義務を行使中だ。反乱と認定されるのはそちらであり――撤兵を勧告するのはこちらの方だ」
リオが口笛を吹いた。
「うわ、喧嘩売ってるね」
「喧嘩ではない。法的事実の通告だ」
ユリウスの目は笑っていなかった。
「この返書が意味するのは二つ。一つ、グレゴールの行動を王国法と連盟規約の双方に照らして私兵反乱として公式に記録すること。二つ、連盟の防衛行動が正当であることを文書で確定させること」
ペンが止まる。
「――王都での裁定の場で必要になる。審問の第四段階、弾劾証拠の提出だ。この一枚が効く」
リオは一瞬だけ真顔になり、それからいつもの軽い笑みに戻った。
「了解。じゃあ俺は俺の仕事をするよ」
―――
リオの仕事は、派手だった。
封鎖線の物流拠点――街道の東側に設けた補給集積所は、グレゴール軍の陣地から丘一つ隔てた位置にある。丘といっても人の背丈の三倍ほどの低い起伏で、丘の上に立てば敵陣からも集積所からも互いがよく見える。
そこにリオは、連盟旗を掲げた補給荷駄を並べた。
荷車十二台。幌には自由都市連盟の紋章が大きく縫い付けてある。荷台には穀物袋、水樽、干し肉の箱が山と積まれ、民兵たちが忙しく荷を下ろしている。
「もうちょっと派手にやって。そう、旗をもう一本。あと荷車の幌は全部開けて中身が見えるようにね」
リオの指示は明快だった。
敵に見せるためだ。
こちらには物資がある。水がある。食糧がある。三日でも五日でも、ここに立ち続けることができる。
――そして、お前たちにはない。
心理戦。
四百の兵を養うには、一日あたり穀物二十袋と水樽四十以上が必要だ。グレゴール軍が携行できた糧食は、急行軍の代償として精々二日分。そして四方の補給路は、連盟の物流網が既に塞いでいる。
リオは丘の上から敵陣を眺め、満足げに頷いた。
「ねえレオン、あっちの兵隊さんたち、今頃朝飯の量を見て青くなってると思うよ」
伝令が丘を駆け下り、防壁のレオンに言葉を届けた。戻ってきた伝令が息を切らして復唱する。
「――レオン殿より。『余計な挑発はするなとユリウスに言われている』と」
リオは肩をすくめて、伝令に向き直った。
「挑発じゃないよ。事実の展示だよ――そう伝えておいて」
にっこり笑って、荷車の幌をさらに大きく開いた。
―――
午前――グレゴールが動いた。
降伏勧告の返書を受け取った直後、私兵本隊は封鎖線の西端に兵力を集中させた。
ただし、街道はこの地点で両側を林に挟まれ、道幅は荷車二台がすれ違える程度まで狭まる。四百の兵力を一度に展開できる地形ではない。
押し寄せたのは約八十。先鋒のみの突撃だった。
防壁の強度を測る偵察――本命ではない。だが、それでも八十の兵が一点に殺到する圧力は軽くない。
街道を塞ぐ土嚢と荷車の防壁は、三日前からレオンが設計し、民兵と治安隊が昼夜交代で構築したものだ。幅は狭いが、正面からの突撃を受け止めるには十分な厚みがある。
そして何より――守る側は、戦う必要がなかった。
「後退するな! 盾を構えて壁になれ!」
レオンの怒号が響く。
治安隊は盾を並べ、防壁の隙間を塞いだ。民兵は後方から石と丸太を投げ込む。
攻める側は、登れない壁に取りついて消耗するだけだ。
二刻で、グレゴール軍の先鋒は後退した。防壁を越えられないと判断したのだろう――撤退は整然としていた。だが、丘の向こうに戻った本隊が陣形を組み直す気配がある。次は偵察ではない。
死者はなし。負傷者は双方合わせて十数名。
――戦闘とは呼べない。だが、消耗戦の幕は確かに上がった。
―――
午後。
指揮所に戻ったレオンは、泥のついた手甲を外しながらユリウスに報告した。
「先鋒のみの突撃でした。防壁の構造を確かめに来たものと思われます」
ユリウスが淡々と応じた。
「グレゴールは焦っている。偵察とはいえ強行突破を初日に仕掛けたということは、補給の不安を自覚しているということだ」
「……三日、持つでしょうか」
「持つ。こちらの物資は五日分ある。問題は――」
ユリウスは天幕の北側、領都の方角に目を向けた。
「――あちらだ」
一拍の間を置いて、ユリウスは机上の地図を指で叩いた。
「前線は安定している。だが、この戦いの決着は封鎖線の外で着く。王都の情勢次第で、全てが変わる」
―――
領都の一角。
薄暗い病室に、ノアは静かに座っていた。
ミチカの枕元。
体力値――一。
三日前の帳簿奪還戦。ステータスオープンを限界まで酷使し、魔力が枯渇した。体力値は一まで落ち、そのまま意識が戻らない。
ステータスの数字は昨日から変わらない。呼吸は浅く、顔色は紙のように白い。
ノアは手元の紙片に目を落とした。封鎖線からの定時報告と、もう一つ――ステータスオープンで確認した敵兵の数値だ。
以前からの取り決めどおり、防壁に接近した敵兵のステータスは治安隊員が確認し、記録して指揮所へ送ってくる。ノアはその写しを受け取っていた。
声に出して読み上げた。
報告だ。盟主への報告。意識がなくても、ミチカが目覚めたとき空白であってはならない。この戦いの全ての経過を、盟主の耳に届けておく――それがノアの決めた義務だった。
「――私兵末端の忠誠値。朝の時点で平均六十二。午後の突撃後、四十七に下落」
声は低く、落ち着いている。聞いているのは意識のない少女だけだ。
「水の配給が半量に制限されたという報告が入った。明日にはさらに下がる」
武力ではなく、兵站で軍を崩す。
ミチカが設計した戦略の、数字による証明だった。
「……盟主。あなたの作戦は機能している」
ノアはそこで言葉を切った。
ミチカの右手。
指が、動いた。
微かに。ほんの数ミリ。だが確かに、薬指が布団の上で震えた。
ノアの目が見開かれる。
ステータスを確認する。体力値――一。変わらない。意識レベル――深度昏睡。変わらない。
だが、指は動いた。
「……聞こえて、いるのか」
返事はない。
ノアは静かに立ち上がり、ミナを呼びに行こうとした。
その時――。
―――
伝令が飛び込んできた。
王都に潜入しているカイからの第三報。暗号文。
ノアは病室を出て、領都の外れから早足で指揮所へ向かった。日が傾き始めた街路を駆け抜け、天幕に着いた時にはユリウスが既に暗号の解読を終えていた。
集まった三人――レオン、リオ、ノア――の前で、ユリウスは紙片を読み上げた。
「王位継承者、本日未明に第二宰相派により離宮に幽閉。側近は全員拘束。幽閉の名目は『病気療養』――事実上の軟禁だ」
沈黙が落ちた。
リオが最初に口を開いた。
「……救援密約の発動条件、成立だね」
ユリウスが頷く。
救援密約――第一宰相派勅使アルブレヒトとの間で締結した契約。
王都の「ある方」が助けを求めた際に、制度として応じる。
そして密約の第三項には、本人の意思表示が強制的に封じられた場合――すなわち幽閉や拘束により救援要請そのものが不可能となった場合にも、発動要件を満たすと明記されている。
王位継承者が幽閉された。「助けを求める」以前の、強制的な排除。密約の発動条件を満たすどころか、超えている。
「つまり――」
レオンが低い声で言った。
「――この戦いは、辺境だけの問題ではなくなったということですか」
「最初から辺境だけの問題じゃなかった」
ユリウスは返書の束を机に置いた。グレゴールへの反乱認定通告。連盟の防衛宣言。そして今、王位継承者の幽閉という確定情報。
三枚の紙が、一つの線で繋がった。
「グレゴールがここに来ているのは、王都の政変と表裏一体だ。私兵を南に向けたのは辺境を潰すためだけじゃない。王位継承者の幽閉を実行する間、こちらの注意を引きつける陽動でもあった」
「でも」リオが言った。「裏を返せば、グレゴールがここに釘付けになっている間、王都のグレゴール派は指揮官不在ってことだよね」
ユリウスの目が光った。
「……そうだ」
三日の砂時計。
補給が尽きるまでの三日間で、グレゴールを封じ込める。その間に王都では、幽閉の事実が第一宰相派に伝わり、救援密約が法的に発動可能となる。
だが――。
「三日どころか、一日で盤面が変わった」
ユリウスは呟いた。
幽閉は予想より早かった。グレゴールの強行突破も予想より早かった。私兵の忠誠崩壊も、予想より早い。
全てが加速している。
「カイの報告にもう一つ」ユリウスが紙片の末尾を読んだ。「『元近衛副長、動く用意あり。合図を待つ』」
リオが眉を上げた。
「……王都で味方が動ける、ってこと?」
「アルブレヒトが王都に残した駒だ。第一宰相派の中でも武力を持つ数少ない人間だと聞いている」
ユリウスは四人の顔を順に見た。
「動けるかどうかは、こちらがグレゴールを封じ込められるかどうかにかかっている。明日が山だ。グレゴールは補給の限界を悟れば、手段を選ばなくなる。二日目に何を仕掛けてくるか――」
天幕の外で、風が鳴った。
霧はもう晴れていた。南の丘の向こうに、四百の松明はもうない。代わりに、夕暮れの空の下で焚き火の煙が幾筋も立ち上っている。
水を節約するために、火を焚いて暖を取っているのだ。
初日が終わる。
―――
病室。
指揮所での会議を終え、ノアは再びミチカの枕元に戻っていた。
ミナがそっと椅子を寄せ、ミチカの手を握っている。
「ミチカ様……」
小さな声。祈るような声。
ノアはステータスを確認した。
体力値――一。
変わらない。
だが、さっき確かに見た。指が動いた。
覚醒するのか。しないのか。いつなのか。
わからない。
わからないが――希望は、ゼロではない。
ノアは窓の外を見た。星が出始めている。
明日、グレゴールは何を仕掛けるか。
明日、王都で何が起きるか。
明日、ミチカは目を覚ますか。
三つの砂時計が、同時に落ちている。
――そして彼らはまだ知らなかった。二日目の夜明けに届く知らせが、この戦いの全てを根底から覆すことになるとは。




