第61話:囮倉庫の炎
脈がある。
ノアがそう告げた瞬間から、もう何分が経っただろう。
ミナはミチカの手を握り続けていた。冷たい。いつもは忙しなく動き回っている小さな手が、今は布のように力がない。
「……ミチカ、様」
声が震えた。さっきは敬称も忘れて名前だけを叫んでしまった。あの瞬間、ミナの中で何かが壊れかけた。でも脈はある。ノアがそう言った。だから大丈夫。大丈夫なはず。
「ミナ」
静かな声が降ってきた。
振り向くと、ノアが立っていた。いつもと変わらない無表情。でも目だけが、ほんの少しだけ違う色をしていた。
その手には止血帯の束と、煎じたばかりの薬湯の椀があった。薬草の青い匂いが病室に漂っている。ノアは椀をミナの傍らに置き、低い声で言った。
「ここから動くな」
短い。けれど、ミナがノアからこんな強い口調を聞いたのは初めてだった。
「ミチカのステータスオープンが枕元に表示されたままになっている。体力値の数字が見えるだろう。一だ。容態が急変する可能性がある。そのとき傍にいる人間が必要だ」
ミナは光る半透明の文字盤に目をやった。ミチカ固有の能力が映し出す数値。体力の欄に浮かぶ「1」の文字が、ひどく心もとない。
「……はい」
「俺は外に出る。戦場で怪我人が出れば処置に回る。この薬湯は解熱用だ。額に汗が浮いたら少しずつ飲ませろ。……お前の仕事は、ミチカの手を離さないことだ」
命令だった。
ノアが命令口調を使うなんて、本当に初めてのことで。ミナは泣きそうになるのを堪えて、強く頷いた。
ノアは一度だけミチカの額に手を当て、体温を確認した。それから部屋の隅に積んでおいた担架用の布と添え木を確認し、部屋を出た。
―――
病室の外。
廊下には既にユリウスとレオン、リオが揃っていた。
ノアが出てきた瞬間、三人の目が一斉に向く。
「状態は」
レオンが短く問う。声は硬い敬語から外れていたが、それだけ切迫しているということだった。
「ステータスオープンの表示で確認した。体力値一。脈拍は弱いが安定。意識回復の見込みは……現時点では不明だ」
「……そうですか」
レオンが唇を噛んだ。拳が白くなるほど握られている。でも次の瞬間、その手は開かれていた。感情を任務に変換する。それがレオンの戦い方だ。
「さて」
ユリウスが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
代行委任状。
ミチカの署名が入った、正式な公文書。先刻、意識を失う直前に、震える手で書かれたものだ。
「盟主ミチカの署名による代行委任状。
統治権・指揮権・外交権の一切を、ユリウス、レオン、リオ、ノア、カイの五名に委任する。
有効期限は盟主の意識回復まで。
――ただし、カイは現在王都潜入中で不在のため、帰還後に追認する形で権限を行使する。
実質の運用は四名の合議だ」
ユリウスがそれを高く掲げた。
廊下に控えていた治安隊の副長と伝令兵が、息を呑む。
「先例はある。監査団対応時、ミチカ不在で五人分担統治が機能した実績だ。今回は一人欠けた四人だが、制度は同じ。……まあ、あの子が倒れてから半刻で委任状を用意してあるあたり、準備のいい盟主だよ。皮肉な話だがね」
沈黙。
「結構。では指揮権の所在を宣言する。本日より盟主の意識回復まで、連盟の全軍事・行政・外交権限は本委任状に基づき四名の合議で行使する。異議がなければ、これを連盟全拠点に通達しろ」
伝令兵が敬礼し、駆け出していく。
リオが口笛を吹いた。
「いやぁ、ユリウスくんの演説はいつ聞いても背筋が伸びるねぇ。で、時間がないんだろ?」
「ない。致命的にな。だから無駄口も致命的だぞ、リオ」
ユリウスが委任状を丁寧に折り畳みながら、状況を整理した。
「敵は二手。別動隊四十名の目標は物流拠点と帳簿保管庫の破壊。先遣隊本隊六十名は……正面から押してくる。目的は同じだ。証拠隠滅。帳簿の残存分を灰にすること」
「本物はミチカのインベントリの中だけどな」
リオが肩をすくめる。
「だが敵はそれを知らない。保管庫に帳簿があると信じて突っ込んでくる。つまり――」
「守る理由がある、ということです」
レオンが言い切った。
ユリウスが頷く。
「その通り。保管庫を守れば敵は目的を達成できない。達成できなければ時間を浪費する。時間を浪費すれば本隊三百の到着前に態勢を整えられる。……逆に言えば、ここで崩れたら全部終わる」
四人の間に、重い沈黙が落ちた。
「レオン」
「承知しております」
名前を呼ばれただけで、レオンは動き出していた。
「治安隊を二分します。第一隊三十名を物流拠点の防衛に配置。第二隊二十名を帳簿保管庫の死守に充てます。別動隊四十名が先に来るなら、物流拠点で食い止めて時間を稼ぎます」
「人数は足りるのか」
ノアの問いに、レオンは一瞬だけ黙った。
「……足りません。ですが、地の利があります。物流拠点は三方を倉庫に囲まれた袋小路です。入口を塞げば少数でも守れます」
「OK。じゃあ俺の出番だね」
リオが地図を広げた。連盟物流網の全体図。街道、脇道、獣道、河川沿いの小径まで細かく書き込まれた、リオの商人としての財産だ。
「別動隊四十名は北西の間道から物流拠点を狙ってくる。ここと、ここ」
指が二箇所を叩く。
「この二箇所に偽の補給点を置く。空の樽と荷車。あと目印の旗。敵の斥候が見れば『ここに物資がある』と判断する。で、本来の進軍経路から逸れてこっちに来る」
「誘導か」
「そ。で、こっちの迂回路には本物の補給点がない。水場もない。四十人が荷物担いで半日歩けば、喉がカラカラになる頃にはレオンの防衛線の前に出る。疲労した状態でね」
兵站の罠。
補給線を制する者が戦場を制する。ミチカが何度も言ってきたことだ。
「先遣隊本隊六十名にも同じ手を使う。こっちは南街道からの正面進軍だから、補給路の組み替えが必要だ。連盟物流網の中継拠点三箇所を一時閉鎖して、偽の中継拠点を二箇所新設する。敵が現地調達しようとしても、空の倉庫しか見つからない」
「準備にどれくらいかかる」
「もうやってある」
リオがにやりと笑った。
「……は?」
「昨夜のうちに指示は出してあるよ。ミチカが倒れた時点で、こうなることは読めてた。商人はね、在庫管理と先読みが命なの」
ユリウスが珍しく言葉を失った。それから眼鏡の位置を直し、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……お前、たまに怖いな。有能な商人というのは、味方にいても胃が痛い」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
―――
配置が決まった。
レオンは治安隊を率いて物流拠点へ。
リオは補給路の最終確認に。
ノアは野戦用の医療拠点を保管庫側の後方に設営する。
止血帯、添え木、煎じ薬、清潔な布――ノアの手が淡々と、しかし正確に物資を仕分けていく。
担架要員として荷運び人夫を二名確保し、重傷者の搬送経路まで指示を出した。
そしてユリウスが全体の指揮と判断を担う。
四人がそれぞれの持ち場へ散っていく。
盟主はいない。
でも制度はある。委任状がある。役割分担がある。
一人の天才に依存しない統治。ミチカがずっと目指してきたものが、今この瞬間、最も残酷な形で試されている。
―――
別動隊四十名は、予定通り北西の間道から現れた。
リオの読みは正確だった。偽の補給点に引き寄せられた別動隊は、本来の進軍経路から大きく逸れ、迂回路に入り込んだ。水場のない道を荷物を担いで歩かされ、物流拠点に到達した頃には隊列が間延びしていた。
レオンの第一隊が、倉庫に囲まれた袋小路の入口で待ち構えていた。
「止まれ! 自由都市連盟治安隊です! 武装した集団の領内通行は連盟規約により禁止されています!」
先頭の兵士が足を止めた。疲労の色が濃い。だが、すぐに隊列が組み直される。指揮官の怒号が飛び、別動隊は入口に殺到した。
レオンは盾壁の最前列に立っていた。
本来なら隊長は後方で指揮を執るべきだ。わかっている。だが二十対四十の数的不利を、地形だけで覆せるほど甘くはない。最前列に立つ隊長の背中が、隊員の足を踏み止まらせる。
「盾を合わせろ! 隙間を作るな!」
狭い入口に押し寄せる敵兵。槍が突き出され、盾が軋む。レオンの腕に衝撃が走った。押される。一歩、二歩。歯を食いしばった。
――突っ込みたい。
盾を捨てて、剣を抜いて、正面から叩き斬りたい。身体がそう叫んでいる。レオンの本能は常にそう囁く。
だが。
『レオン。あなたの仕事は、全員を連れて帰ることです。命令』
ミチカの声が脳裏に響いた。
「……押し返せ! 一歩も退くな、一歩も出るな!」
踏み止まった。
盾壁を維持したまま、槍で突き返す。入口の幅はせいぜい三人分。どれだけ兵を抱えていても、一度にぶつけられるのは三人が限界だ。疲弊した敵兵が前列に送り込まれるたび、レオンの隊が槍で押し戻す。
三十分。
長い三十分だった。レオンの盾腕は痺れ、額から汗が滴り落ちていた。だが隊列は崩れなかった。一人も欠けなかった。
別動隊が後退を始めた。疲労と渇きに蝕まれた兵が、これ以上の消耗を嫌ったのだ。
物流拠点、防衛成功。
レオンが額の汗を拭った瞬間、伝令が駆け込んできた。
「副隊長より急報! 先遣隊本隊、南街道から進路を変更! 東の河川沿いを迂回し、帳簿保管庫へ直接向かっています!」
レオンの顔色が変わった。
「東の河川沿い……ですと?」
リオの補給路組み替えは南街道を前提としていた。東の河川沿いは想定外だ。
ユリウスのもとに報告が届いたのは、それからわずか数分後。
「……まずいな」
地図を睨むユリウスの額に、初めて冷や汗が浮かんだ。
「河川沿いの間道は地元民しか知らない道だ。本家の先遣隊に土地勘のある案内人がついている可能性がある。……厄介だな、金で買える裏切りが一番読みにくい」
帳簿保管庫を守る第二隊は二十名。先遣隊本隊は六十名以上。正面からぶつかれば数で押し潰される。
しかもカイがいない。王都に潜入中のカイからの情報がないせいで、敵の第二経路を事前に察知できなかった。情報の空白。これがカイ不在の代償だ。
「ユリウス」
ノアが静かに問う。
「撤退か、死守か」
二択。
保管庫を死守すれば、二十名の治安隊員が六十名以上の私兵と正面衝突する。犠牲が出る。確実に。
撤退すれば、帳簿の残存分が焼かれる。証拠が一つ減る。
ユリウスの脳裏に、ミチカの声が蘇った。
『命令。全員生きて帰ること』
あの子はいつもそう言っていた。証拠より、制度より、何より人の命を優先した。それが合理的かどうかなんて関係なく。
「……撤退だ」
ユリウスが呟いた。
「保管庫の帳簿残存分を放棄する。第二隊は即時後退。人命優先だ。――どうせ証拠なら他にも手はある。焼かれた帳簿の分まで、法廷で取り返してやるさ」
ノアが頷き、伝令を走らせた。
レオンへの伝令も同時に出す。物流拠点の防衛隊から十名を保管庫方面の撤退支援に回せ、と。
―――
撤退命令が保管庫に届いてから十分後。
保管庫の方角から、赤黒い光が夜空を染めた。
最初に聞こえたのは、木材が爆ぜる音だった。乾いた破裂音が連続し、やがて低い轟きに変わる。炎が屋根を突き破ったのだろう、火の粉が夜風に乗って高く舞い上がった。焦げた紙の匂いが、離れた指揮所まで届いてくる。帳簿の紙が燃える、甘く苦い匂い。
黒い煙が星空を塗り潰していく。
ユリウスは黙ってそれを見つめた。唇が引き結ばれている。炎の照り返しが、その横顔を赤く染めていた。
「……やられたか」
「ユリウス」
リオの声だった。息を切らして駆け戻ってきたリオが、燃える保管庫を一瞥し、それから妙に落ち着いた顔で言った。
「焼かれたのは囮だよ」
「……何だと?」
「帳簿の残存分。本物は昨夜のうちに移してある。保管庫に残してたのは囮の写しだ」
ユリウスが目を見開いた。
「お前が仕込んだのか」
「半分はな。実はミチカに言われてたんだよ、ノアが」
リオが親指で背後を示した。ノアが静かに歩み寄ってくる。
「ミチカが倒れる前……委任状を書く直前に、俺に口頭で指示を出した」
ノアが淡々と言った。
「『帳簿の原本を保管庫から移せ。囮を置け。場所はリオと相談しろ』と。あの状態で、そこまで頭が回っていた」
「俺は囮の写しを作って保管庫に並べた。本物は連盟物流網の秘匿拠点に分散保管してある。ミチカのインベントリの中身と合わせれば、証拠は完全に揃う」
リオがウインクした。
「コストゼロの保険だよ。紙と墨代だけ」
ユリウスは数秒間、二人の顔を交互に見つめた。
それから、ふっと笑った。
「……倒れる直前まで指示を出していたのか、あの子は。参ったな。盟主が寝込んでも、仕込みだけは生きている」
安堵が広がった。
治安隊の撤退も完了し、負傷者は軽傷が数名のみ。ノアが手早く止血と添え木の処置を施し、担架要員に搬送を指示する。死者なし。保管庫は焼かれたが、中身は囮。実質的な損害はゼロに近い。
盟主不在の四人統治。初めての実戦。
機能した。
ユリウスは委任状を懐から取り出し、もう一度だけ見つめた。ミチカの震える字で書かれた署名。あの子が命を削って残した、制度という名の信頼。
「……まだ終わってないぞ」
ノアの声が、安堵の空気を切り裂いた。
全員が振り向く。
ノアの手には小さな紙片があった。伝書鳩に括りつけられていた、カイからの報告。
ノアがそれを読み上げた。
「『私兵本隊三百。予定より一日早い。明朝到達』」
沈黙が落ちた。
明朝。
あと半日もない。
先遣隊百名ですら四人がかりでギリギリだった。その三倍の兵力が、夜が明ける前に来る。
リオの笑みが消えた。レオンの拳が再び白くなった。ノアは紙片を折り畳み、懐にしまった。ユリウスだけが、静かに地図を見つめていた。
四人の視線が交差する。
誰も、何も言えなかった。
病室では、ミナがミチカの手を握り続けている。
冷たい手。弱い脈。枕元に浮かぶステータスの光。体力値、一。
盟主は目を覚まさない。
そして三百の兵が、夜明けとともにやって来る。




