第60話:三十七の証拠
指が、動いた。
ミナの掌に包まれた細い指が、微かに――しかし確かに、握り返した。
「……ミチカ、様?」
ミナの声が震える。
寝台の上で、ミチカの睫毛がゆっくりと持ち上がった。
焦点の合わない瞳。乾いた唇。けれど、その目には光があった。
覚醒術じゃない。
誰の手も借りていない。
本人の意志だけで、この子は戻ってきた。
「……ノア」
レオンが低く呼んだ。
窓際で仮眠を取っていたノアが即座に立ち上がり、寝台に歩み寄る。手首に指を当て、脈を測り、ステータスを確認した。
「体力値二。変わっていない」
その声は平坦だったけれど、次の一言には明確な警告が込められていた。
「意識があるのは奇跡に近い。だが、このまま動けば――確実に一以下になる。覚醒術を使わずとも、だ」
一以下。
それが何を意味するか、この部屋にいる全員が知っている。
―――
窓の外が白み始めていた。
夜明けだ。
四人の議論は結局、堂々巡りのまま朝を迎えた。証拠をインベントリに入れるにはミチカの意識が必要。でも意識を保つだけで命が削れる。盟主の命か、証拠か。誰も答えを出せなかった。
――で、その当の本人が、自力で目を覚ましたわけだ。
ミチカの視線がゆっくりと部屋を巡る。レオン。ユリウス。ノア。リオ。そしてミナ。
全員の顔を確認して、掠れた声が漏れた。
「……状況」
一言。
ああ、この子はもう、盟主の顔をしている。
ユリウスが一歩前に出た。簡潔に、過不足なく報告する。
「先遣隊が二手に分かれて南下中。山間部の別動隊は倉庫地区を目指している。目的は裏帳簿と証文の証拠隠滅。物理的な防衛は人手が足りず、写しを取る時間もない。移送先もない」
「……インベントリ以外の手段は」
「ない」
ユリウスの返答は一切の感情を排していた。
だからこそ、残酷だった。
ミチカが薄く息を吸った。
その呼吸だけで、寝台の横にいるミナの目に涙が滲む。
「……証拠をインベントリに入れます」
掠れた声だった。
でも、迷いは一切なかった。
「命令です」
―――
「駄目です!」
最初に叫んだのはミナだった。
ミチカの手を握ったまま、ミナは首を横に振る。何度も、何度も。
「ノアさんが言ったじゃないですか……体力値が一になったら、もう……っ」
「ミナ」
「嫌です。嫌です、ミチカ様。証拠なんて、また集めればいいじゃないですか。裏帳簿がなくても、ベッカーさんの証言があるし、封蝋の分析だって……」
「ミナ」
二度目の呼びかけで、ミナの言葉が止まった。
ミチカの目が、真っ直ぐにミナを見ていた。
「帳簿が焼かれたら、ベッカーさんの証言を裏付ける物証がなくなる。口頭証言だけでは第二宰相派の法廷では潰される。……わたしの前世知識じゃなくて、ユリウスが一番よく知ってるはず」
視線がユリウスに移る。
ユリウスは黙って頷いた。
「盟主の言う通りだ。口頭証言のみでは王都の法廷で覆される。物証の原本が必要だ」
「でも……!」
「レオン」
ミチカが次に呼んだのは、扉の前に立つ騎士だった。
レオンの拳が白くなるほど握り締められている。
守りたい。その気持ちが全身から滲み出ていた。でも。
「……盟主。俺は」
言葉を飲み込んだ。
レオンらしい、と思った。感情を任務に変換する。そういう人だ。
「俺は、あなたの命令に従います。ですが――」
「レオンの気持ちはわかってる」
ミチカが小さく、でも確かに微笑んだ。
「だから命令にした。お願いじゃなくて。……命令なら、従うしかないでしょう?」
ずるい、と思った。
この子は自分の弱さを知っている。体力値二の、いつ消えてもおかしくない体で、それでも命令という形式を使う。みんなの感情を制度で受け止めるために。
沈黙が落ちた。
それを破ったのは、ユリウスだった。
「……盟主が制度を守るために命を賭けるなら」
皮肉屋の法務官が、このとき初めて、皮肉を一切含まない声で言った。
「我々は制度で盟主を守る義務がある」
全員の視線がユリウスに集まる。
「代行体制を即時発動する。盟主がインベントリを使用した後、意識を失っても――いや、最悪の事態になっても、この領と連盟が止まらない体制を、今この場で確定させる」
ユリウスが代行委任状を広げた。ミチカが事前に署名していた、あの文書だ。
「レオン、防衛指揮。リオ、補給と外交。ノア、盟主の延命処置と救護。俺は法務と布告。ミナ――」
ユリウスがミナを見た。
「盟主の傍にいろ。それがお前の役割だ」
ミナが目を見開く。
涙を拭って、頷いた。
―――
リオが最初に動いた。
「倉庫まで走る。帳簿と証文、全部ここに運ぶよ」
軽い口調だったけれど、目は笑っていなかった。
「リオ」
ミチカが呼び止める。
「……ありがとう」
「お礼は生きてから聞くよ、盟主殿」
リオが駆け出した。
軽快な足音が廊下に響き、やがて遠ざかる。
その間にノアが動いていた。寝台の横に薬瓶を並べ、布を水に浸し、ミチカの額に当てる。
「延命処置を施す。心拍を安定させ、体力値の消耗速度を可能な限り遅らせる。だが――」
「保証はない。わかってる」
ミチカが静かに言った。
ノアの手が一瞬止まった。
それから、いつもの淡々とした声で続けた。
「……インベントリの発動は、リオが戻ってからだ。それまで絶対に動くな。瞬きの回数すら減らせ」
「了解」
「あと」
ノアがミチカの手首から指を離した。
「体力値が一になった状態でインベントリに格納した物品は、格納者の生命と紐づく可能性がある」
部屋の空気が凍った。
「……どういうこと?」
ミナが聞いた。
「インベントリは格納者の生体情報と連動している。通常の体力値であれば問題ないが、限界値での格納は――格納者が死亡した場合、中身ごと消失するリスクがある。前例がないから断言はできない。だが、理論上は」
つまり。
証拠をインベントリに入れた瞬間から、ミチカが死ねば証拠も消える。
証拠保全が、ミチカの生存と直結する。
「……最高の保険じゃない」
ミチカが笑った。乾いた、でも本気の笑みだった。
「わたしが生きてる限り証拠は消えない。敵はわたしを殺せない。殺したら証拠が消えて、逆に証拠隠滅の事実だけが残る。……ユリウス、証拠隠滅対象宣言の記録、まだ生きてるよね?」
「当然だ。公的記録として三箇所に分散保管してある」
「なら完璧。わたしが死んでも、証拠が消えた事実自体が有罪の証拠になる」
完璧じゃない、とミナは思ったはずだ。
だってミチカが死ぬ前提の話をしている。
でもミナは何も言わなかった。
ただ、ミチカの手を強く握った。
―――
リオが戻ってきたのは、夜明けの光が部屋に差し込み始めた頃だった。
両腕に帳簿の束。背中に証文の入った革袋。息を切らしながら、寝台の横に全てを並べた。
「三十七点。裏帳簿二十三冊、証文八通、封書四通、指示書二通。全部だ」
「……ご苦労様」
ミチカが目を開けた。
ノアの延命処置のおかげか、先ほどより少しだけ顔色がましに見えた。
でもそれは気のせいだと、全員がわかっていた。
「始める」
ミチカが右手を持ち上げた。
たったそれだけの動作で、額に汗が浮かぶ。
ミナが帳簿の一冊目をミチカの視界に入るよう持ち上げた。
インベントリの発動条件――目視した無生物を格納できる。ただし動作が必要。
ミチカの指が小さく動いた。
一冊目が、光の粒子になって消えた。
「……一」
ミチカが数えた。
二冊目。三冊目。
ミナが次々と帳簿を掲げ、ミチカが格納する。
五冊目で、ミチカの呼吸が荒くなった。
十冊目で、指の動きが鈍くなった。
「体力値の低下が始まった」
ノアが告げる。
「続けて」
ミチカの声は震えていなかった。
十五。二十。二十三。
帳簿が全て消えた。
次は証文。ミナが震える手で一通ずつ掲げる。
二十四。二十五。二十六。
ミチカの目から光が薄れていく。
三十。三十一。
「体力値、低下が加速している」
ノアの声が初めて揺れた。
三十四。三十五。
ミチカの右手が落ちかけた。ミナが支えた。
三十六。
最後の一通。指示書。
ミチカの瞳が、もうほとんど焦点を結んでいなかった。
「……さん、じゅう、なな」
光が散った。
三十七点、全て格納完了。
同時に。
ミチカの手がミナの掌から滑り落ちた。
目が閉じる。呼吸が止まったように見えた。
「ミチカ――」
ミナが叫んだ。
敬称なんてなかった。
『様』も『盟主』もなかった。
ただ名前だけが、夜明けの部屋に響いた。
「ミチカ!!!」
―――
ノアが寝台に手を伸ばした。
首筋に指を当てる。
一秒。二秒。三秒。
永遠のような沈黙。
レオンが一歩踏み出しかけた。ユリウスがその肩を掴んで止めた。リオが唇を噛んでいた。
ノアの指が、微かに動いた。
「……脈がある」
部屋中の空気が揺れた。
「体力値一。まだ、生きている」
ノアの声は平坦だった。でもその指先が、僅かに震えていた。
ミナがミチカの手を取り直した。冷たい。でも、微かに温かい。
「生きてる……生きてる、ミチカ様……」
今度は『様』が戻っていた。
でもさっきの一瞬――敬称を忘れて名前だけを叫んだ瞬間が、この部屋にいた全員の胸に刻まれた。
―――
証拠は封じられた。
三十七点の裏帳簿、証文、封書、指示書。全てがミチカのインベントリの中にある。盟主の体内同然の空間に格納された証拠は、物理的な手段では奪えない。焼けない。盗めない。隠滅できない。
そしてミチカが死ねば、証拠も消える。
だが証拠隠滅対象宣言の記録が三箇所に残っている。消失した事実そのものが、敵の有罪を証明する。
完璧な保険。
その代償が、体力値一の命。
ユリウスが代行委任状を掲げた。
「盟主は意識を失った。だが命令は下された。我々は制度に従い、盟主の命と領を守る。――異論は」
誰も何も言わなかった。
「では各自、持ち場に就け」
レオンが頷き、剣を握り直して部屋を出ようとした。
そのとき。
廊下を走る足音。
治安隊の伝令が扉を叩いた。
「急報! 山間部の別動隊が予定より早く移動を開始、倉庫地区まであと半日! さらに街道側――先遣隊本隊が進軍を開始しました!」
レオンの目が鋭くなった。
「数は」
「別動隊およそ四十。本隊は推定六十以上です!」
百名が二手に。予測通り――いや、予測より早い。
ユリウスが窓の外を見た。朝日が街道の向こうを照らしている。その先に、まだ見えない敵がいる。
「……盟主不在の防衛戦か」
皮肉交じりの口調が、少しだけ戻っていた。
「やるしかないだろう。盟主が命を賭けて守った証拠だ。我々が命を賭けて守らなくてどうする」
レオンが振り返った。寝台の上で眠るミチカを一瞬だけ見て、すぐに前を向いた。
「――全員、配置につけ」
ミナだけが残った。
冷たくなっていくミチカの手を握り、祈るように目を閉じる。
窓の外で、朝日が昇る。
戦いが、始まろうとしていた。




