第59話:レオンの防衛線
静寂が、重い。
ミチカの手から力が抜けた瞬間を、レオンは一生忘れないだろう。
防衛配置の前倒しを命じた直後、盟主の体がぐらりと傾いた。受け止めたのはミナだった。小さな体で盟主を抱え、「ミチカ様!」と叫ぶ声が執務室に響き渡った。
その声を聞いて、レオンの胸の奥で何かが軋んだ。
守れなかった。
いや――違う。
動揺を飲み込め。今この瞬間、俺がすべきことは何だ。
「ノア、診てくれ――頼む」
短く、鋭く。それでも平時の丁寧さが残った。習い性だった。レオンの声が部屋を切った。
ノアは既にミチカの傍に膝をついていた。手首に指を当て、瞼を開いて瞳孔を確認する。懐から術式書の小冊子がこぼれかけたのを押し戻し、一連の動作に迷いなく移る。
「……意識喪失。体力値二。脈拍は弱いが安定している。今すぐ寝台へ」
「自分が運びます」
レオンがミチカを抱え上げる。羽のように軽い。この体で――この体力で、あれだけの決断を下し続けていたのか。
喉の奥が熱くなる。
感情を殺せ。今は指揮官だ。
―――
寝台にミチカを横たえると、ミナが即座にその手を握った。
「私がお傍にいます。ずっと……ずっと」
小さな声だった。震えていた。けれど、手を離す気配はない。
レオンはミナの肩にだけ視線を向け、一つ頷いた。
「頼む」
それだけ言って、踵を返す。
廊下に出ると、リオ、ユリウス、ノアの三人が待っていた。カイは防衛配置の前倒し命令と同時に、王都への急使として発っている。その半刻後に盟主が倒れた。王位継承者への情勢報告と援軍要請――今頃は街道を馬で駆けているはずだ。
残ったのは四人。ミナを加えて五人。
だが実働は四人。
先遣隊百名が国境を越えた。本隊三百の到着まで推定五日。
五日間。盟主なき五日間。
「……合議室に集まってくれ。全員だ」
レオンの声に、三人が無言で従った。
―――
合議室の長机に四人が着く。
ユリウスが懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の中央に広げた。
代行委任状。
ミチカの署名と、連盟の公印が押されたそれは、体力値がまだ十五あった頃に作成された公文書だ。五人の合議による代行統治を法的に認める――前例のない制度の、前例のない発動。
「代行委任状に基づき、合議を開始する」
ユリウスの声は平坦だった。いつもの皮肉は消えている。
「盟主は意識不明。体力値二。回復の見通しは不明。この状況下で、先遣隊百名への対処を決定する必要がある。――異議は」
誰も口を開かない。
沈黙が承認だった。
「では始めよう」
―――
最初の報告はレオンからだった。
「北方物見台からの続報です。先遣隊は二手に分かれ、街道沿いと山間部の二方向から南下中。速度から見て、明後日には領の北端に到達します」
「戦力構成は」
「軽装歩兵が主体。攻城兵器なし。騎馬は偵察用の十騎程度。――正面からの殴り合いなら、治安隊で対処できます」
レオンは淡々と言った。が、すぐに付け加える。
「ただし、山間部に回った一隊の意図が読めません。迂回して背後を突くなら配置を変える必要がある」
「補給は?」
リオが手元の帳簿を繰りながら訊いた。
「前線に配置するなら、三日分の糧食と水を先行輸送しないと持たない。今の備蓄で足りるけど、輸送の人手がきつい。あと野戦救護所の設営もいるよね」
「前線に一箇所、中継地点に一箇所」
ノアが静かに応じた。
「最低限の薬品と包帯は確保済みだ。だが担架要員が足りない。補給の輸送隊と兼任させるなら、中継地点を同じ場所に置いた方がいい」
「なるほど、補給中継と救護所を一本化するわけだ。それなら人手も節約できる」
リオが帳簿に素早く書き込んだ。
四人の視線が交差する。
人が足りない。時間が足りない。盟主がいない。
だが――やるしかない。
「役割を分ける」
ユリウスがペンを取った。
「レオン、治安隊の前線配置と迎撃方針の策定。リオ、補給線の緊急再編と輸送人員の確保。ノア、野戦救護所の設営と医療資材の配分――補給中継地点との統合はリオと詰めてくれ。俺は反乱認定の布告を起草して各所に配布する。これでいいか」
「ミナは」
レオンが訊いた。
「盟主の傍に。ストレス値を下げられるのはミナだけだ。それは立派な役割だよ」
ユリウスの声に、珍しく皮肉がなかった。
―――
四人が散った。
レオンは治安隊の詰所に向かいながら、奥歯を噛みしめていた。
ミチカ個人を守ることは、今の自分にはできない。寝室にはミナがいる。医療の判断はノアに委ねた。
なら、自分が守るべきものは別にある。
盟主が作った制度だ。治安隊がある。詰所がある。交代制がある。巡回ルートがある。盟主一人が倒れても揺るがないように――そう設計された仕組みそのものを、今度は自分が支える番だ。
「全隊集合。北方防衛線に展開する。配置は第一から第三班が街道封鎖、第四班が山間部の監視。移動開始は一刻後。――質問は」
治安隊員たちの目に、不安はあった。盟主が倒れたという噂は既に広まっている。
だがレオンが立っている。それだけで、隊員たちの背筋が伸びた。
「盟主の命令は既に下されている。我々はそれを実行するだけだ。――動け」
―――
リオは走っていた。
文字通り、走っていた。倉庫と輸送拠点と馬車溜まりを往復しながら、頭の中で数字を組み替え続ける。
「糧食三日分、前線まで半日の距離――馬車二台じゃ足りない。荷駄を三台追加……いや、馬が足りないか。じゃあ人力で中継リレー。村の男手を借りて――」
帳簿を片手に走り、すれ違う商人に声をかけ、値段を叩き、契約を結ぶ。
「おっちゃん、悪いけど荷馬車一台貸して。三日で返す。お礼は連盟規格の塩二袋でどう?」
「塩二袋!? ……まあ、あんたが言うなら」
「ありがとー! 恩に着る!」
笑顔で手を振り、角を曲がった瞬間――リオの表情から一切の色が消えた。
歯を食いしばる。足を止めない。
ミチカがいれば、インベントリで一瞬だ。目視して格納、目的地で取り出し。それだけで補給線が完成する。
でも今、その手段はない。
なら、人の手と足と知恵でやるしかない。
ミチカが作った物流制度は、ミチカがいなくても動くように設計されている。
――そのはずだ。そうじゃなきゃ、制度じゃない。
ノアとの中継地点の打ち合わせは、走りながら伝令を飛ばして済ませた。救護資材の一部を補給馬車に相乗りさせることで、輸送を一本にまとめる。効率の話じゃない。人手がないのだ。
―――
ユリウスは一人、合議室で筆を走らせていた。
『布告。
グレゴール・フォン・ヴァイスの私兵による武力侵攻は、王命なき私的軍事行動であり、王国法第十七条――私的武力行使の禁止及び処罰に関する条項に基づき反乱と認定する。
自由都市連盟は連盟規約に基づき、全加盟領の安全を確保するため防衛行動を発動する――』
法律文書は正確でなければならない。一語の曖昧さが、後の法廷で致命傷になる。
ユリウスは盟主と二人で精査した条文を思い出しながら、感情を排して書く。あのとき――ミチカが法典の頁を指で叩き、「この条文、使えますね」と言った声が、まだ耳に残っている。
書き終えて、署名欄に目を落とした。
盟主の名はない。代行委任状に基づく合議決定として発布する。署名は五人の連名。個人の権威ではなく、手続きの正当性だけが、この紙切れの効力を支えている。
「……まったく、寝てる間に俺たちに試験を受けさせるとは。あの盟主は」
皮肉を呟いて、ユリウスは筆を止めなかった。
―――
日が傾き始めた頃。
リオが合議室に飛び込んできた。
「緊急情報!」
息が荒い。走ってきたのだ。
「隣領国境の徴税兵から伝書鳩が来た。覚えてるだろ、去年の飢饉のとき、あっちの領民が餓死しかけてたのをミチカが食料支援した――あのとき窓口になった徴税兵だ。あれ以来、非公式に国境の動きをやり取りしてた相手だよ」
リオは一息に言った。
「今回は暗号なしの私信だ。自分の立場を賭けて送ってきてる。それだけ切迫してるってことだ」
「内容は」
ユリウスが眉を上げた。
「先遣隊の動き、おかしいんだ」
リオは机に地図を広げ、指で示した。
「街道沿いの一隊は確かに南下してる。でも山間部に回った一隊――こいつらの進路が、領の中心部じゃなくて、旧御用商会の倉庫群と物流拠点に向かってる」
沈黙。
「……占領が目的じゃない」
ノアが低く言った。
「そう。証拠隠滅だ」
リオの声が硬くなった。
「裏帳簿の残存分。あれが保管されてる倉庫と、連盟の物流拠点。先遣隊の本当の目的は、それを焼くことだ。占領なんか最初から狙ってない」
ユリウスが椅子から立ち上がった。
「戦力分散の罠か。街道側で俺たちの治安隊を引きつけておいて、その間に山間部の別動隊が証拠を灰にする。本隊三百が到着する頃には――」
「――証拠が消えてる。第二宰相派を追い詰める根拠が、全部なくなる」
レオンが拳を机に叩きつけた。
「防衛方針の変更を提案します。倉庫群と物流拠点の防衛を最優先に」
「待て」
ユリウスが制した。
「街道側を手薄にすれば、住民が危険に晒される。両方守るには――」
「人が足りない。わかっています」
四人が黙った。
リオが最初に口を開いた。
「裏帳簿の写しを取るのは? 書記を集めて片っ端から筆写すれば――」
「帳簿は十二冊、付随する証文が三十通以上だ。全て筆写するには丸二日かかる。明後日には別動隊が到着する。間に合わない」
ユリウスが即座に否定した。
「なら倉庫自体を守る。治安隊の一班を倉庫に張りつかせて――」
レオンが言いかけたが、自分で首を振った。
「……駄目です。街道防衛に三班、山間部監視に一班。倉庫防衛に人を割けば、どこかが破綻する。別動隊が三十名規模なら、一班では守りきれません」
「荷馬車で別の場所に運ぶのは」
リオが食い下がった。
「倉庫から安全な場所まで、帳簿と証文を全部移せば――」
「どこへ?」
ノアが静かに訊いた。
「別動隊の進路上にない場所となると、南の港町か、この本拠地しかない。港町までは馬車で一日半。本拠地に集めれば、本隊三百が来たときに全てが一箇所に集中する。どちらもリスクが高い」
沈黙が落ちた。
写しは間に合わない。物理防衛は人手が足りない。移送は安全な行き先がない。
そして、四人が同時に同じ結論に辿り着いた。
「インベントリに格納すれば、物理的な場所に依存しない。焼かれようがない」
ユリウスの声が、静かに響いた。
「だがインベントリを使えるのは――」
「ミチカだけだ」
ノアが言った。
全員の視線が、寝室の方向に向いた。
「意識を戻すことは……可能だ」
ノアは淡々と続けた。だが、その声にはわずかな震えがあった。
「盟主の体力値が二十を切った頃から、万が一に備えて神殿に通っていた。合議でも報告したが――神官に神事系の覚醒術を学んだ。意識を強制的に浮上させる祈祷だ」
ノアは懐から小冊子を取り出し、机に置いた。術式の手順が細かい字でびっしりと書き写されている。
「ただし――」
言葉が、途切れた。
「術自体が体力値を一つ消費する。今の盟主に施せば、体力値は一になる」
部屋の空気が凍った。
体力値一。それは心臓が止まりうる領域。
「覚醒した状態でインベントリを使えば、さらに体力値を消費する可能性がある。
格納回数と体力値の相関は正確に測定したことがない。
盟主が健康だった頃は、消費があったとしても誤差の範囲で気づけなかった。
体力値一の状態では――その誤差が、致命的になりうる」
ノアの声は、もう震えていなかった。医療者として、事実だけを述べている。
「起こせば証拠は守れるかもしれない。起こさなければ裏帳簿が灰になり、第二宰相派追及の根拠が消える」
ユリウスが、ゆっくりと全員の顔を見回した。
「盟主の命か、証拠か。――選べ」
―――
誰も答えなかった。
レオンは拳を握りしめたまま動かない。リオは地図の上に視線を落としている。ノアは腕を組み、目を閉じた。ユリウスだけが、全員を見ている。
窓の外で、日が沈んでいく。
寝室では、ミナがミチカの手を握り続けていた。
窓の外はとうに暗い。遠く、合議室の灯りがまだ揺れているのが見える。あの灯りの下で、四人がまだ話し合っている。
冷たい指に、力を込める。
「ミチカ様……」
小さな声。誰にも聞こえない声。
「起きてください、なんて……言えません。でも――」
ミナの目から、一筋の涙がこぼれた。
「――でも、みんな頑張ってます。ミチカ様が作ってくれたもの、みんなで守ろうとしてます。だから……だから――」
言葉にならなかった。祈るように、額をミチカの手の甲に押し当てる。
「――お願い、です。どうか……」
合議室では、四人の議論が紛糾したまま、夜が明けようとしていた。




