第55話:自由都市連盟
叩き起こされた。
比喩じゃない。文字通り、宿舎の扉を蹴破る勢いでカイが入ってきた。
「密使。東街道。夜明け前」
九文字。
いや情報量としては十分なんだけど、もうちょっとこう、あるでしょ。主語とか述語とか。
隣の寝台でリオが跳ね起きた。商人の勘なのか、眠りが浅かったらしい。蝋燭に火を点ける手つきだけは妙に落ち着いている。
「到着予測は?」
「二刻」
カイの報告を翻訳すると、密使が東街道を騎馬で急行中、城門到着まで約二刻――つまり夜明けと同時。
……え、早くない?
昨日の時点で「まだ一日の猶予がある」って見積もりだったのに。街道の中継地で馬を替えたか、あるいは最初から複数の密使が走っていたか。
どっちにしろ、猶予が消えた。
「リオ」
「わかってる。朝一で仕掛ける。――債務整理案、最終確認やるよ」
蝋燭一本の薄明かりの中、リオが革鞄から書類の束を取り出した。
ミチカが意識を失う前に承認印を押してくれた、上納金三期分の肩代わり契約書。それに加えて、代替物流網の優先加盟権を定めた付帯条項。リオが商人として積み上げてきたギルド規約の雛形を、隣領用にカスタマイズしたものだ。
「条件の確認。こっちが出すのは三つ」
リオが指を折る。
「一、上納金三期分の肩代わり。二、代替物流網への優先加盟権。三、飢饉対策としての緊急食糧援助」
「こっちが求めるのは?」
「一、ベッカーの身柄引渡し。二、第二宰相派による物流遮断要請の拒否。三、自由都市連盟への正式加盟」
レオンが腕を組んだ。
「三つ目は昨日の提案になかった」
「温存してたんだよ。フリードリヒが揺れてるうちに、最後の一押しで出す。密使が来る前にね」
リオの目が蝋燭の炎を映して光った。商人の顔だ。
◆
俺――レオンは、正直に言えば交渉の細部はわからない。だが一つだけわかることがある。こいつが本気のときは、笑顔の裏に鉄が入る。
「問題は軍事顧問だ」
俺は昨日の謁見を思い出した。あの軍装の男。近衛の型崩れした剣帯の結び方、左肩の古傷の位置。間違いない、元近衛だ。しかも脱走兵。
「あいつがいる限り、フリードリヒは自由に判断できない。私兵に守られているように見えて、実質は――」
「人質、だな」
カイが短く言った。
そう。フリードリヒは第二宰相派の軍事顧問に「守られて」いるのではない。監視されている。
「暴露する。公の場で」
俺の言葉に、リオが一瞬だけ目を細めた。
「タイミングは?」
「フリードリヒが揺れた瞬間。軍事顧問が武力を示唆したら、そこで叩く」
「……いいね。経済で揺らして、軍事で蓋を取る。ミチカちゃんがいたら『連携です』って言いそうだ」
その名前を出されると、胸の奥が軋む。
ミチカは今、自領で意識を失ったまま横たわっている。体力値二。五人の仲間が代行体制で領を回している。
俺たちがここで失敗すれば、物流網は遮断され、領の命綱が断たれる。
失敗は許されない。
「行くぞ」
―――
夜明けの光が城の石壁を白く染め始めた頃、俺たちはフリードリヒの謁見の間に立っていた。
昨日より早い。城の者たちも寝起きの顔だ。だがフリードリヒは――意外にも、身支度を整えて待っていた。
眠れなかったのだろう。目の下の隈が深い。
「……早朝から何事か」
フリードリヒの声には、昨日の威圧はなかった。疲弊した領主の、素の声だ。
「フリードリヒ閣下。密使が東街道を急行中です。到着は夜明けと同時――つまり、もう間もなく」
リオが単刀直入に切り出した。
フリードリヒの顔が強張る。
「密使の件を……なぜ貴殿が知っている」
「商人は街道の動きに敏感でしてね。それより閣下、密使が届ける内容はおおよそ察しがつきます。第二宰相派からの指示――物流遮断の実行命令と、我々の排除でしょう」
沈黙。
図星だ。
「閣下。密使が届く前に、もう一つの選択肢をお見せしたい」
リオが革鞄から契約書を取り出し、テーブルに広げた。
「上納金三期分――金貨にして四百八十枚相当。これを自由都市連盟が肩代わりします」
フリードリヒの目が見開かれた。
四百八十枚。隣領の年間税収の三割に匹敵する額だ。これが帳消しになるという提案に、領主が動揺しないわけがない。
「加えて、代替物流網への優先加盟権。御領の産物を連盟の流通網に優先的に乗せる権利です。これまで王都御用商会に中抜きされていた利益が、直接閣下の手元に残る」
リオの説明は淀みない。数字を並べ、比較し、損得を可視化する。商人の武器は剣ではなく帳簿だ。
「そして三つ目――飢饉対策の緊急食糧援助。閣下、御領の民が飢えていることは存じております」
フリードリヒが唇を噛んだ。
飢饉隠蔽。王都に報告すれば統治能力を疑われ、領地召し上げの口実を与える。だから黙っていた。しかしその沈黙が、民をさらに追い詰めている。
「条件は三つ。ベッカーなる人物の身柄引渡し。第二宰相派からの物流遮断要請の拒否。そして――自由都市連盟への正式加盟」
フリードリヒの手が、契約書の上で震えた。
揺れている。
だがそのとき――
「閣下、お待ちください」
謁見の間の奥から、軍事顧問が進み出た。昨日と同じ軍装。腰の剣に手をかけている。
「このような条件を呑めば、王都との関係は完全に断絶します。第二宰相閣下の庇護を失えば、この領は――」
「庇護?」
俺は一歩前に出た。
「あんたが言う庇護とは、私兵による監視のことか」
場が凍った。
軍事顧問の目が鋭くなる。
「何を――」
「剣帯の結び目。左肩の古傷。近衛第三中隊の特徴だ。だが現役なら紋章入りの留め具を使う。あんたのは無地だ――除隊か、あるいは脱走か」
俺は近衛の訓練を受けた人間だ。同じ型で鍛えられた者の癖は、見ればわかる。
「三年前、近衛第三中隊から脱走した兵が四名。うち二名は捕縛、一名は死亡。残る一名は――行方不明のまま」
軍事顧問の顔から血の気が引いた。
「王都に帰れば処刑対象だ。あんたはフリードリヒ閣下を守っているんじゃない。自分の居場所を確保するために、閣下を第二宰相派に繋ぎ止めている。閣下が離反すれば、あんたの隠れ家がなくなるからだ」
フリードリヒが、ゆっくりと軍事顧問を見た。
その目には、怒りではなく――悟りがあった。
「……そういうことか」
低い声だった。
「私は守られていたのではない。囲われていたのか」
軍事顧問が一歩退いた。剣の柄を握る手が白くなっている。
そのとき、謁見の間の扉が勢いよく開いた。
「閣下! 東門に密使が到着しました! 王都からの急使、二名!」
城門番の報告。
密使が――来た。
場の空気が一変する。軍事顧問の顔に安堵が浮かんだ。間に合った、と。
だがリオは動じなかった。
革鞄からもう一枚の書類を取り出し、高く掲げた。
「フリードリヒ閣下。こちらをご覧ください」
それは契約書の写しだった。ただし――すでにリオの署名と、自由都市連盟の盟主代行印が押されている。
「連盟側の署名は済んでいます。閣下が署名された瞬間、この契約は成立する。密使が何を持ってこようと――」
リオが、にっこりと笑った。
商人の笑顔。鉄の笑顔。
「もう遅いですよ」
―――
フリードリヒは、長い沈黙の後に羽根ペンを取った。
軍事顧問が叫んだ。「閣下、おやめください!」
だがフリードリヒは振り向かなかった。
「私の領で、私の民が飢えている。それを救う手段がここにある。――これ以上、何を迷う必要がある」
署名。
契約書に、フリードリヒの名が刻まれた。
自由都市連盟、加盟第一号。
参加型統一が、領外で初めて成立した瞬間だった。
「――っ!」
軍事顧問が剣を抜こうとした。だが俺はすでに間合いを詰めていた。丸腰だが、近衛の型を知っている。抜刀の軌道を読み、手首を掴む――
掴めなかった。
奴は剣を抜かず、身を翻して窓に飛びついた。
逃走。
石壁の出窓から中庭へ。訓練された身のこなしだ。元近衛は伊達じゃない。
「カイ!」
振り向くまでもなかった。カイはすでに窓枠に足をかけていた。
「追う」
一言だけ残して、影のように消えた。
―――
城の中庭を抜け、城下町へ出た。
カイの追跡に任せ、俺とリオはフリードリヒとともに城門へ向かった。密使への対応が必要だ。
だが城門の前で、俺たちは足を止めた。
荷馬車が三台。俺たちが持ち込んだ救援物資だ。
その周りを、人が取り囲んでいた。
痩せこけた女。泣く子供。杖にすがる老人。目だけがぎらぎらと光る男たち。
フリードリヒ領の民だ。
飢えている。
隠しきれないほどに。
荷馬車の幌に手を伸ばす者。地面に膝をつく者。声もなく、ただ食糧の匂いに引き寄せられた人々が、朝靄の中に何十人と集まっていた。
「……これが」
リオが呟いた。いつもの軽快さが消えている。
俺は黙って立ち尽くした。
飢饉の正体は流通詰まり――ミチカがそう教えてくれた。倉庫に穀物があっても、届かなければ民は飢える。ここでも同じことが起きていた。第二宰相派の物流支配が、この領の命を絞め上げていた。
契約は成立した。連盟の加盟第一号も得た。
だが目の前の現実は、羽根ペンの一振りでは変わらない。
「これが本当の戦場だ」
リオの声は、商人のものではなかった。
民を見つめる目は、かつてミチカが自領の飢えた人々を前にしたときと――同じだった。
―――
カイが城下から戻ったのは、それから半刻後だった。
「逃がした。馬を確保して北街道へ。――王都に向かう」
軍事顧問は逃走した。元近衛の脚で、北街道を王都へ。
つまり第二宰相派に、隣領喪失の報が届く。
「まずいな」
リオが額を押さえた。
「グレゴールが知れば、軍事的報復に出る可能性がある。フリードリヒ領への懲罰か、うちの物流網への直接攻撃か」
俺は城門の前に広がる光景を見つめた。
飢えた民。泣く子供。救援物資に縋りつく手。
ミチカならここで何を言うだろう。
――『命令。物資の配分計画を立てなさい。実務です』
そう言って、すぐに動き出すはずだ。
だがミチカは今、意識がない。体力値二。自領の寝台で、ミナやノアやユリウスに見守られている。
五人の統治体制で、この広域の飢民救済を指揮できるのか。
フリードリヒの署名通りにベッカーの身柄引渡しは実行されるのか。
逃げた軍事顧問が王都にもたらす報は、何を引き起こすのか。
答えの出ない問いが、朝の光の中で積み重なっていく。
俺にできるのは、剣を――いや、今は持っていない。
できるのは、ここに立つことだ。
民の前に、壁として。
「レオン」
リオが声をかけてきた。いつもの軽さが、少しだけ戻っている。
「帰ったらミチカちゃんに報告しないとね。『連盟加盟第一号、獲得しました』って」
「……ああ」
報告できる日が来ることを、祈るしかない。




