第54話:飢える隣領へ
空が白み始める前に、三台の荷馬車が領門を出た。
荷馬車三台。護衛八名。そして商人一人と元騎士一人。
これが、ミチカ領が初めて送り出す「領外遠征部隊」の全戦力だった。
「……少ないですね」
レオンは呟いた。自分で編成しておいて、こう言うのも間抜けだとわかっている。
「少ないよ。でもさ、これ以上抜いたら領内の巡回が回らない。ミチカが寝てる今、治安隊の頭数を削るのは自殺行為だ」
リオは荷台の固定紐を確認しながら軽く笑った。
笑ってはいるが、目は笑っていない。こいつは本気のときほど口元が緩む。何度も見てきたから知っている。
「カイ」
レオンが振り返ると、番小屋の影から音もなくカイが姿を現した。出発前の最終報告――それだけのために、こいつはここにいる。
「密使の現在位置を」
「……昨夜、東街道の宿場を発った。馬二頭。荷は軽い。到着予測、今日の日没前」
「自分たちは間に合いますか」
「荷馬車の速度なら、半日遅れる」
半日。たった半日だが、外交の場では致命的だ。先に着いた方が、フリードリヒの耳を支配する。
「わかりました。――カイ、領内は頼みます。ユリウス殿とノアに、予定通り治安と医療の指揮を」
カイが一度だけ頷いた。
「……任された」
それだけ言って、闇の中に溶けるように消えた。あいつは領内に残る。情報の要だ。ここで抜くわけにはいかない。
「半日の遅れ、取り戻せますか」
レオンがリオに問うた。
リオが御者台に飛び乗った。
「街道を使わない。北の間道を抜ける。距離は長いけど、途中に宿場がないぶん停車しなくていい。荷馬車の馬は昨日から休ませてある。密使の馬は宿場で替えてるだろうけど、夜通し走った疲労は残る」
「間道は隣領の徴税関を通りますが」
「通るよ。そこは俺に任せて」
レオンは一瞬だけ目を閉じた。
領内から護衛を八人も引き抜く。ユリウスとノアに治安と医療を任せ、カイには情報を託した。ミチカは意識がない。領の均衡は、今この瞬間も綱渡りだ。
だが――ここで動かなければ、物流網が断たれる。
物流が断たれれば、ミチカが命を削って積み上げた制度が全部止まる。
「出発します」
短く告げ、レオンは馬に跨がった。
荷馬車が動き出す。車輪が石畳を叩く音だけが、まだ眠っている領都に響いた。
―――
間道は想像以上に悪路だった。
轍が深く、荷馬車が何度も傾く。護衛の兵士たちが車輪に肩を入れて押す場面が三度あった。
だが止まらなかった。
最悪の箇所には、あらかじめ板が敷いてあったのだ。
「いつ準備を?」
「三日前。ミチカが倒れる前の晩にね。隣領への交易路は前々から調べてたんだ、商人の習性でさ。間道の状態も把握してたから、板だけ先に運ばせておいた」
「……先読みが過ぎますね」
「商人ってのはそういう生き物なんだよ、レオン。リスクを数えて、保険をかけて、それでも足りない分を笑顔で埋める。まあ今回は笑顔じゃ足りないかもしれないけど」
リオの声は軽い。だが手綱を握る手が白くなっているのを、レオンは見逃さなかった。
―――
隣領との境。
フリードリヒ領の徴税関だ。
木の柵と番小屋。番兵は六人。
だが、レオンの目には即座に見えた。
痩せている。
全員が、明らかに痩せている。
鎧が体に合っていない。元は合っていたはずの鎧が、今は肩から滑り落ちそうになっている。
「止まれ! 通行許可証を見せろ!」
先頭の兵士が槍を構えた。声は威圧的だが、槍の穂先が微かに震えている。
空腹だ。レオンにはわかった。
リオが御者台からひらりと降りた。
「やあ、お疲れ様。ミチカ領の商人リオだ。正直に言うと、通行許可証は持ってない。――ただ、通行税の物品納付は受け付けてるかな? フリードリヒ領の徴税規則だと、許可証なしでも正規税額の倍額納付で通行が認められるはずだけど」
先頭の兵士が眉をひそめた。
「……それは、確かに規則にはあるが」
「じゃあ正規の手続きを踏ませてほしい。通行税の倍額分――穀物四袋を納める。受領書を出してくれるかな」
レオンは馬上から見ていた。四袋。リオは当初二袋と言っていたはずだ。だが目の前の兵士たちの状態を見て、即座に倍額規定を持ち出した。規則に沿った形にすることで、兵士が受け取る正当な理由を作っている。
リオが荷台の覆いをめくった。
麦の匂いが、朝の冷気に溶けた。
兵士たちの目が変わった。怒りでも警戒でもない。もっと根源的な――飢えた人間の目だ。
先頭の兵士が、唾を飲み込んだ。
「……受領書は、出せる」
「ありがとう」
リオが穀物袋を四つ降ろした。兵士たちが受け取る手が震えていた。先頭の兵士が受領書を書く間、リオはさりげなく周囲を見回しながら声を落とした。
「このあたりの街道、随分静かだね。交易の荷が減ってる?」
世間話の口調だった。兵士を問い詰めるのではなく、同じ道を歩く旅人が天気の話をするような――そういう距離感だった。
先頭の兵士は答えなかった。だが受領書を手渡す際、その表情が一瞬だけ歪んだ。
答える必要がなかった。その顔が全てを語っていた。
――飢えている。隣領は、既に飢えている。
柵が開いた。荷馬車が通過していく。
レオンは物流が外交になる瞬間を、初めて目の当たりにしていた。
通過後、リオが馬を寄せてきた。
「レオン、一つ気になることがある」
「何ですか」
「番兵の一人が、荷を降ろしてるとき独り言みたいに言ってたんだ。『城にも王都風の客が来てるのに、こっちには何も回ってこない』って」
レオンの背筋が冷えた。
「王都風の客――密使ですか」
「いや、密使はまだ東街道のはずだ。カイの情報が正しければ」
「では、密使より先に別の誰かが着いている」
リオが頷いた。その顔から、いつもの軽さが消えていた。
―――
フリードリヒの居城は、丘の上にあった。
立派な石壁だが、よく見ると補修の跡が目立つ。門番の鎧も古い。城下の市場は半分以上の店が閉まっていた。
この領は、本当にまずい状態だ。レオンの胸に重いものが落ちた。
リオは笑顔を作った。
「ミチカ領商人リオ。フリードリヒ卿に救援物資の提案がある。取り次ぎを願いたい」
門番は困惑した顔をしたが、「救援物資」という言葉に反応した。中に走っていく。
待つこと四半刻。
通された。ただし条件がついた。武装解除のうえ、護衛は二名まで。
レオンは剣帯を外し、護衛から二名だけを選んだ。残りは城門前で待機だ。
丸腰で敵地に入る。背筋に冷たいものが走ったが、顔には出さなかった。
―――
謁見の間は、暗かった。
窓が少ない。蝋燭の数も節約されている。
玉座にフリードリヒが座っていた。四十がらみの男。痩せてはいないが、目の下に深い隈がある。眠れていないのだろう。
そして――その隣に、男が立っていた。
軍装。短く刈り込んだ髪。背筋が定規で引いたように真っ直ぐ。
レオンは一目で見抜いた。あの立ち方は、近衛の訓練を受けた者の姿勢だ。
だが――近衛章がない。鎧の意匠も王都正規軍のものではない。私兵の装備だ。
そして、フリードリヒの表情にも気づいた。疲労の下に、焦りがある。レオンたちが通される直前まで、この男と何か話していた――その気配が、まだ部屋に残っていた。
「……リオとやら。何用だ」
フリードリヒの声は疲れていた。
「救援物資の提案と申したが、見ての通り、我が領は今――」
「飢えておいでです。存じています」
リオが率直に言った。
フリードリヒの顔が強張った。
「……何を根拠に」
「国境の徴税兵が痩せてました。城下の市場は半分閉まってる。蝋燭の数まで減らしておいでだ。隠す必要はないですよ、フリードリヒ卿。俺たちは敵じゃない」
「フリードリヒ卿」
軍装の男が口を開いた。低く、硬い声。苛立ちを隠しきれていない。
レオンは見ていた。この男は、自分たちの来訪を想定していなかった。密談を中断させられた苛立ちが、判断を鈍らせている。
「この者たちの話を聞く必要はありません。先ほどの件――」
「待て」
フリードリヒが片手を上げて制した。だが男は止まらなかった。
「――物流の遮断に同意いただければ、グレゴール閣下が上納金を――」
「やめろと言っている!」
フリードリヒが声を荒らげた。だが遅かった。
リオの目が変わっていた。
「今、なんて言いました?」
軽い声だったが、その目は完全に商人の目――数字で人を射抜く目になっていた。
「物流遮断で上納金免除。……なるほど、そういう話をされてたんですね」
軍装の男がリオを睨んだ。
「部外者が口を挟むな」
「部外者じゃないですよ。俺はフリードリヒ卿に物流提案をしに来た当事者です。――で、あなたは? 名前と所属を聞いてもいいですか」
男は答えなかった。
フリードリヒの顔が蒼白になっていた。密談の内容が漏れた。その事実が、この領主をさらに追い詰めている。レオンにはそれが見えた。
リオは気にせず、懐から帳簿を取り出した。
革表紙の、使い込まれた帳簿。リオが自分で数字を入れ、ミチカが検算し、ユリウスが法的裏付けを添えた――ミチカ領の物流実績帳簿だ。
「フリードリヒ卿。一つだけ、数字を見てください」
リオが帳簿を広げた。
「ミチカ領の物流網を遮断するとどうなるか。
まず、あなたの領を通過する交易品の三割が消えます。
通過税収入が消える。
次に、ミチカ領から東方へ流している穀物――これ、出荷記録によればあなたの領の東部三村の商人が主な買い手なんですが――これも止まる」
数字を指で追いながら、リオは続けた。
「上納金三期分の免除額は、ざっと銀貨四百枚相当でしょう。でも、物流遮断で失う通過税収入は――うちの出荷量と一般的な通過税率から試算すると、年間で銀貨五百枚から六百枚規模になります。しかも食料が止まれば――」
リオが顔を上げた。
「あなたの民が、先に飢えます」
謁見の間が静まり返った。
フリードリヒは帳簿の数字を見つめていた。
その顔に浮かんでいるのは怒りではなかった。恐怖だ。
レオンは見ていた。この男は数字が嘘をつかないことを知っている。自分の領が飢えていることを、誰よりも知っている。だが王都に報告できない。報告すれば無能の烙印を押される。上納金の滞納が三期――もう一期遅れれば領地召し上げだ。
八方塞がりの男が、グレゴールの甘言に縋ろうとしていた。その構図が見えた。
「フリードリヒ卿――」
「黙れ」
軍装の男が一歩前に出た。
その手が、剣の柄にかかった。
「商人風情が領主の御前で数字を並べ立てるか。この場は交渉の席ではない。退け」
空気が変わった。
男の背後で護衛三人が動く気配。リオの後ろに控えていた護衛二人が緊張する。
だが――それより先に。
レオンが一歩前に出た。
音もなく。ただ一歩。
剣は預けてある。丸腰だ。
腕を組んだまま、軍装の男の正面に立った。
「退けと言っているのが聞こえなかったか」
男が低く唸った。
レオンは答えなかった。ただ、真っ直ぐに男を見た。
近衛の訓練を受けた者同士にしかわからない、無言の査定。
間合い。重心。呼吸。
――この男、強い。だが、正規の近衛ではない。
レオンの中で確信が固まった。脱走兵だ。近衛の技術を持ちながら、近衛章を外した男。グレゴールの私兵。
王都の第二宰相派は、正規軍ではなく、こういう手駒を使い始めている。
フリードリヒが玉座から腰を浮かせた。
「やめろ! 謁見の間で血を流すことは許さん!」
軍装の男の動きが止まった。だが、手は柄から離れていない。
沈黙。
レオンは動かなかった。丸腰のまま、壁のように立っていた。
リオが帳簿を閉じなかった。数字は、まだそこにある。
「フリードリヒ卿」
リオの声は、変わらず穏やかだった。
「遮断か、連携か。どちらがあなたの民を生かすか。答えは数字が出してます。――でも今日は、これだけ聞いてもらえれば十分です」
にこり、と笑った。
「明日、もう一つだけ提案させてください。あなたの上納金の話です」
フリードリヒの目が見開かれた。
軍装の男の手が、再び柄を握り直す。
レオンは動かなかった。一歩前に出たまま、壁であり続けた。
――リオの懐に、もう一冊の帳簿があるのをレオンは知っていた。
フリードリヒの上納金滞納三期分の債務整理案。ユリウスが徹夜で書き上げ、ミチカが意識を失う直前に承認印を押した、最後の切り札。
だが、リオはそれを出さなかった。
今日は数字を見せた。明日、未来を見せる。――あいつはそういう計算をしているはずだ。レオンにはわかった。
謁見の間を出た後、レオンはリオに小声で言った。
「あの軍装の男――近衛の訓練を受けた者です。ですが近衛章がない。おそらく脱走兵をグレゴールが拾って私兵にしている」
リオの目が細くなった。
「脱走兵、ね。……レオン、東街道の密使がまだ気になる。あの密使が何を持ってきてるか――カイの情報だけじゃ足りない」
「自分もそれを考えていました」
密使の鞄の中身。フリードリヒ宛ての書状だけなのか。それとも――もっと厄介なものが入っているのか。
レオンは丘の上の城を振り返った。
暗い窓の向こうで、追い詰められた領主が眠れぬ夜を過ごしている。
明日、リオが切り札を出す。
だがその前に、密使が着く。
――間に合うのか。
レオンは拳を握った。答えは、まだ見えなかった。




