第53話:ミナの視点
広場が、悲鳴で満ちた。
ミチカの小さな体が崩れ落ちる瞬間を、私は――ミナは、見ていた。
見ていたのに、動けなかった。
一秒。二秒。三秒。
「ミチカ様ッ!!!」
気づいたときには膝をついていた。石畳の冷たさなんて感じない。両腕でミチカ様の頭を抱き上げる。軽い。こんなに軽かったっけ。いつもあんなに大きな声で命令していた人が、こんなにも――
「どいて」
ノアの声。短い。冷たいんじゃない。余計なものを全部削ぎ落とした、仕事の声だ。
私はミチカ様の頭を膝に乗せたまま、少しだけ体をずらした。ノアがミチカ様の手首に指を当てる。もう片方の手で、あの青い板――ステータス画面を確認している。
「体力値、二。ストレス値、九十八」
……にっ?
「二って……」
「最低限の生命維持に必要な値が三。現在の体力値二は、意識の回復に数週間を要する水準」
ノアの声に、感情はない。でも、指先がわずかに震えているのを私は見逃さなかった。
「長期療養が必要です。最低でも二週間。安静にできなければ、もっとかかる」
広場がざわめく。
領民たちの声が、波のように広がっていく。
「ミチカ様が……」
「倒れた?」
「嘘だろ、さっきまであんなに――」
「領主様がいなくなったら、俺たちどうなるんだ」
その瞬間、私の視界の端に数字が浮かんだ。
ミチカ様がいつも見ているあの画面。ステータスオープンの残滓なのか、それとも私の錯覚なのか――いや、違う。広場の掲示板に設置された信用値表示盤。ミチカ様が「見える化が大事」と言って作らせた、あの板だ。
数字が動いている。
領民信用値:六十八→六十五→六十二→……
下がってる。リアルタイムで、目に見えて。
「まずいな」
ユリウスが眼鏡の奥で目を細めた。
「信用値の急落だ。閾値を超えたばかりだというのに……領主が倒れたという事実だけで、ここまで落ちるか」
―――
ミチカ様を執務室の寝台に運び込んだのは、レオンだった。
両腕で抱えて、一度も揺らさなかった。寝台に横たえるとき、レオンの手が一瞬止まったのを――多分、本人は気づいていない。
「ノア。他に必要なものは」
「清潔な水。薄い粥を用意できるなら。あとは――静かな環境」
「了解した」
レオンが踵を返す。その背中に、リオが声をかけた。
「おいおい、レオン。お前が全部やろうとするなよ」
「……何が言いたい」
「緊急会議だ。五人揃わないと始まらない」
リオの声は、いつもより少しだけトーンが低かった。軽さの中に、芯がある。
私はミチカ様の手を握ったまま、立ち上がれなかった。
「ミナ」
ノアが私を見た。
「ミチカ様の傍にいてくれ。ストレス値の変動を見る。……君がいると、下がる傾向がある」
そうだ。ミチカ様のストレス値を下げられる唯一の要因が、私だって――ミチカ様は言ってくれたことがある。「実務上の理由でミナには傍にいてもらう」って。あの人は絶対に「好きだから」とは言わないけど。
「……はい。ここにいます」
―――
隣室で、五人の緊急会議が始まった。
扉一枚隔てた向こうから、声が聞こえる。
「状況を整理する」
ユリウスの声。いつもの皮肉は消えている。
「ミチカ様は体力値二で長期療養確定。代行委任状は公文書として成立済み。法的には、我々五人に統治権限の代行が委任されている。問題は――」
「問題は三つだ」
カイの声。短い。必要最低限。
「一、領民の動揺。二、第二宰相派の報復。三、隣領」
「……相変わらず端的だな、カイ。助かる」
ユリウスが代行委任状を広げる音がした。
「改めて確認する。レオン――治安・警備。リオ――物流・外交。ノア――衛生・医療・領民健康管理。カイ――情報収集・諜報。そして俺が法務・行政・対外交渉の書面対応。この五分割で、ミチカ様が作った制度を回す」
「回せるのか?」
レオンの問い。疑問ではない。確認だ。
「回す。回せなければ、あの監査で証明したことが全部嘘になる。『制度は人に依存しない』――ミチカ様がずっと言ってきたことだろう」
沈黙。
それを破ったのは、カイだった。
「急報。続き」
全員の気配が変わる。
「王都の情報源から。第二宰相派、監査失敗の報を受け、方針を転換。法的手段から軍事的圧力を含む本格報復へ移行。既にグレゴールが動いている」
「軍事的圧力って……まさか、直接攻めてくるのか?」
リオの声に、珍しく緊張が混じっていた。
「直接ではない。だが――隣領フリードリヒへの工作が加速している。密使が王都を発った。目的は、フリードリヒの完全な取り込み」
「フリードリヒを……」
リオの声が固くなった。
私はミチカ様の手を握りながら、息を止めた。リオが以前フリードリヒと結んだ密約――代替物流網の優先加盟権と引き換えのあの合意が、頭をよぎる。
「フリードリヒが第二宰相派に取り込まれれば、隣領ルートは遮断される。代替物流網の要を失うということだ」
ユリウスの声は冷静だった。でも、その冷静さの裏にある焦りを、私は聞き取れた。
「ユリウス。証拠の王璽局送付は」
レオンが問う。
「急ぐ。シュヴァルツの指示書、ベッカーの証言記録、偽造文書の鑑定結果――全てを正式な書式で王璽局に送る。第二宰相派が軍事的手段に出る前に、法的な包囲網を完成させる必要がある。……だが、正直に言えば時間との勝負だ」
「物流網の防衛は俺がやる」
リオが立ち上がった気配。
「領内の備蓄拠点を分散配置し直す。隣領ルートが遮断された場合の迂回路を三本確保する。あと――各拠点に護衛を。レオン、人を出せるか」
「出す。治安隊から精鋭を十二名、物流護衛に振り分ける」
「助かる」
「カイ。王都の情報源への連絡頻度を上げろ。密使の動向を逐次報告」
「了解」
会議が動いている。
五人が、それぞれの役割で、歯車のように噛み合っている。
でも――広場の信用値表示盤は、まだ下がり続けているはずだ。制度が動いても、領民の心が追いついていない。
―――
扉が開いた。
レオンが出てきた。
私と目が合う。レオンは一瞬だけミチカ様を見て――それから、視線を窓の外に向けた。
広場にはまだ領民が残っていた。不安そうに、執務室の建物を見上げている。
「……レオン様」
「ああ」
「信用値が、まだ――」
「知っている」
レオンは窓辺に立った。そして――窓を開けた。
広場の領民たちの視線が、一斉にこちらを向く。
「聞いてくれ」
レオンの声は、広場に響いた。硬い。真っ直ぐだ。
「ミチカ様は倒れた。体力の限界だった。あの方は――自分の体が壊れるまで、この領のために戦い続けた」
広場が静まる。
「だが、ミチカ様が作ったものは壊れていない」
レオンの声に、力がこもった。
「治安隊は動いている。物流は止まっていない。水は綺麗だ。帳簿は正確で、監査にも勝った。――それは、ミチカ様一人の力じゃない。この領の全員で作った仕組みだ」
領民たちが、息を呑む。
「ミチカ様がいなくても、制度は動く。俺たちが――証明する」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして――信用値表示盤の数字が、止まった。
五十七。閾値の六十には届いていない。でも、下落が、止まった。
誰かが拍手した。一人。二人。広場の端から、ゆっくりと。
「頼んだぞ、レオンの兄ちゃん!」
「ミチカ様の分まで、しっかりやれよ!」
声が上がる。信用値が――わずかに、上がった。
五十七→五十八。
たった一。でも、反転だ。
レオンが窓を閉めた。振り返ったその顔は、いつも通り無表情で――でも、拳が震えていた。
―――
私はミチカ様の手を握り直した。
小さな手。冷たい手。でも、脈は打っている。
ステータス画面が、うっすらと見える。ノアが表示したまま残しているのだろう。
体力値:二。
ストレス値:九十八。
「ミチカ様」
声が震えた。構わない。誰も見ていないから。
「待っていてください。みんな、ちゃんとやってます。レオン様が領民に話しかけて、ユリウス様が書類を整えて、リオ様が物流を守って、カイ様が情報を集めて、ノア様がミチカ様を診てくれています」
返事はない。当たり前だ。体力値二で意識があるわけがない。
「だから――ゆっくり休んでください。ミチカ様がいつも言ってたじゃないですか。『制度が動けば、人は休める』って」
ミチカ様の指が、ほんの微かに動いた気がした。
ステータス画面の数字が変わる。
ストレス値:九十八→九十七。
たった一。でも――下がった。
私がここにいる意味は、ちゃんとある。実務上の理由で。ミチカ様ならきっとそう言う。
涙を拭いた。泣いている場合じゃない。
―――
夜。
五人が再び集まった。ミチカ様の寝台の隣室で、蝋燭の灯りの下。
カイが、追加情報を持ってきた。
「密使。フリードリヒの元に向かっている。到着予想、三日後」
「三日――」ユリウスが指で机を叩いた。「密使が何を持っていく?」
「上納金滞納の帳消し。代わりに、我が領との物流協定の破棄。そして――通行権の第二宰相派への譲渡」
リオが椅子の背にもたれた。その目が、天井を見ている。
「フリードリヒが完全に向こうに取り込まれたら、隣領ルートは死ぬ。迂回路はあるが、コストが三倍になる。実質的な物流遮断だ」
「リオの密約は?」レオンが聞いた。
「ベッカーの件で既に一度出し抜かれている。フリードリヒの二枚舌は折り込み済みだ。だが――あの男は弱い方につかない。強い方につく」
リオが天井から視線を下ろした。
その目に、計算がある。打算がある。でも――それだけじゃない。
「フリードリヒの領民は、上納金滞納のせいで王都からの物資支援が止まっている。冬が来れば飢える。第二宰相派の密使が持っていくのは帳消しの約束だけだ。実際の食料は、一粒も持っていかない」
「つまり?」ユリウスが眼鏡を押し上げた。
「俺たちが先に行く。食料を持って。物流網を持って。制度を持って」
リオの声が、変わった。
軽さが消えている。商人の計算だけじゃない。ミチカ様がいつも言っていた――「飢饉の正体は流通詰まり」。その言葉を、リオは自分のものにしている。
「先に、救いに行くしかない」
沈黙が落ちた。
全員が、その言葉の重さを量っている。
領主不在。体力値二。五人だけの代行体制。それで――領外に出る?
「……前例がないな」ユリウスが呟いた。「代行委任状の権限範囲に領外作戦は明記されていない」
「なら書き足せ。お前の仕事だろ、法務担当」
リオが笑った。いつもの軽さが、少しだけ戻っている。
レオンが立ち上がった。
「護衛は俺が出す。物流護衛に回した十二名に加え、遠征用の部隊を編成する」
「情報。フリードリヒ領内の協力者候補、三名。明日までに接触経路を確保する」
カイの報告。短い。でも、的確だ。
ノアがミチカ様の寝室を振り返った。
「ミチカ様の容態は安定している。回復には最低二週間。その間――我々で持たせる」
五人の視線が交差した。
不安はある。迷いもある。でも――止まっている暇はない。
ミチカ様が作った制度は、動いている。
五つの柱が、一つの意志で立っている。
領主がいなくても、仕組みは生きている。
それを証明する戦いが――今、始まる。
―――
私はミチカ様の手を握ったまま、隣室の声を聞いていた。
五人が動き出す音。書類をめくる音。椅子を引く音。扉が開閉する音。
ミチカ様。
あなたが作った仕組みが、あなたを守っています。
だから――
「待っていてください。必ず、良い報告を持ってきます」
ストレス値が、また一つ下がった。
九十七→九十六。
小さな変化。でも、確かな変化。
――このとき、私たちはまだ知らなかった。
フリードリヒの元に向かう密使が、単なる外交官ではなく、第二宰相派の軍事顧問を伴っていることを。
そして、隣領が完全に敵側に落ちたとき、遮断されるのは物流だけではないことを。




