第51話:地下金庫の炎
錠前が、ない。
正確に言えば、あった。地面に転がっている。切断面は鋭利で、刃物の仕事だ。
カイは旧御用商会の地下倉庫の入口で足を止め、闇の先に耳を澄ませた。
先回りされた。
ベッカーが証言台で裏帳簿の所在地を口にするより前に、この場所を知っている人間がいた。当然だ。ここは元々、御用商会の施設なのだから。
暗殺者護衛――シュヴァルツの連れていたあの男。足音の消し方、体重移動の癖。追跡中に読み取った情報を頭の中で反芻する。
速い。だが雑だ。
急いでいる証拠。つまり、まだ終わっていない。
カイは音を殺して階段を降りた。
―――
一方、監査会場。
ミチカが意識を失ってから、もう三十分が経過していた。
……と、ここで現在の状況を整理しよう。
領主ミチカ――つまり私――は体力値三で完全にダウン中。意識ゼロ。別室のベッドでノアの監視下に置かれている。
つまりここから先は、私が後から聞いた話を再構成してお届けすることになる。
ごめんね、主人公なのに寝てて。
「――代行権限に基づき、本審理の続行を宣言します」
ユリウスの声が会場に響いた。
冷たくて、硬くて、一切の感情を排した声。皮肉屋のあいつが、今この瞬間だけは完璧な法務官の顔をしている。
後で聞いたら、ミナが「ユリウスさん、あの時ものすごく怖かったです」って言ってた。
うん、わかる。あの人、本気出すと怖いんだよね。
「待て。領主が不在の監査など前例がない」
シュヴァルツ監査団長が立ち上がる。声に余裕がある。
まだ余裕があるふりをしている、が正確か。
「前例がないことと、違法であることは別です」
ユリウスが書類を一枚持ち上げた。
「代行委任状。領主署名済み、第一宰相派勅使アルブレヒト殿の副署付き。さらに医療証明により尋問延期条項が適用されています。ご確認を」
「……ふん。紙切れ一枚で領主の代わりが務まるとでも?」
「制度とはそういうものです。紙切れ一枚で人を殺せる世界で、紙切れ一枚で人を守れない道理がありますか」
シュヴァルツの目が細くなった。
ユリウス、かっこいいこと言うじゃん。後で本人に伝えたら「実務です」って返された。いやそれ私の台詞。
「――では、証人ベッカーの証言を正式記録に組み込みます」
ユリウスは淡々と手続きを進めた。ベッカーの証言内容――御用商会の横流し、裏帳簿の存在、脅迫による偽証の経緯。すべてが書記官の手で記録されていく。
「異議がおありでしたら、どうぞ」
「……私の護衛が一名、席を外しているようだが、それと本件は無関係だ」
シュヴァルツが言った。
護衛消失について、自分から触れた。
これ、後で考えると明らかに失策だった。誰もまだ護衛の話をしていないのに、自分から言及したのだ。
動揺している。
「無関係とのこと、記録に残しますね」
ユリウスの声には、氷点下の笑みが混じっていた。
そしてこのタイミングで、レオンが動いた。
「治安隊、会場封鎖を完了」
短く、鋭く。
会場の四方の出入口に治安隊員が立ち、扉を閉じた。誰も出られない。誰も入れない。
退路を断つ。
レオンの判断は正しかった。シュヴァルツの護衛が消えた以上、追加の工作員が会場に紛れ込む可能性がある。そして何より――逃がさない、という意思表示だ。
「……これは監禁ではないのかね」
「安全確保です。監査団長殿の護衛が行方不明である以上、団長殿の身の安全を守る義務が我々にはあります」
レオン、それ完璧な建前だね。本音は絶対「逃がすか」だよね。
シュヴァルツの顔に、初めてはっきりとした焦りが浮かんだ。
―――
会場の片隅で、リオが動いていた。
ベッカーの証言から得た裏帳簿の所在地情報。旧御用商会の地下倉庫、第三区画、木箱の二段目。
この情報を、カイに届けなければならない。
リオは会場封鎖の直前に書きつけた紙片を、治安隊の伝令係に渡していた。レオンの部下で、最も足の速い隊員。
「カイって人に届けて。場所は旧御用商会の裏手。走って」
「了解」
伝令が駆け出す。
リオの判断は正確だった。カイは追跡で地下倉庫にたどり着いているはずだが、倉庫内のどこに帳簿があるかまでは知らない。この情報があるとないとでは、三分は違う。
そして今、三分が勝敗を分ける。
―――
別室。
ミチカの額に、ノアが冷たい布を当てていた。
体力値三。意識なし。呼吸は浅いが安定している。
「……ミチカ様」
ミナが傍らで手を握っていた。小さな手を、さらに小さな手が握る。
ノアは脈を確認し、瞳孔を確認し、呼吸数を数えた。
「急変の兆候はない。だが、回復も見込めない。体が限界を超えている」
「起きますよね……? ミチカ様、起きますよね……?」
ミナの声が震えていた。
ノアは答えなかった。答えられなかった。医療の知識がある分だけ、安易な希望を口にできない。
代わりに、事実だけを言った。
「今は、我々がやるべきことをやる。それが彼女の望みだ」
ミナが泣きそうな顔で頷いた。
でも泣かなかった。
この子は、泣かないのだ。ミチカの前では。ミチカのために動く時は。
―――
地下倉庫。
カイは第三区画にたどり着いた。
リオからの伝令はまだ届いていない。だが、カイには別の手がかりがあった。
足跡。
暗殺者護衛の足跡が、第三区画に集中している。そこに目的がある。
薄暗い通路の奥に、微かな光が見えた。
――火だ。
走った。
音を消す余裕はなかった。三分の猶予もない。燃えてしまえば終わりだ。
第三区画の奥、木箱が積まれた一角。その足元で、帳簿の束に火がつけられていた。油を染み込ませた布が巻かれ、すでに半分が黒く焦げている。
そしてその傍らに、男が立っていた。
暗殺者護衛。
短剣を抜いている。
「……遅かったな」
男が言った。
カイは答えなかった。
言葉の代わりに、動いた。
暗殺者護衛の短剣が弧を描く。カイは半歩だけ横にずれ、刃をかわした。反撃はしない。目的が違う。
火だ。火を消す。
カイは護衛の横をすり抜け、燃えている帳簿の束に飛びついた。上着を脱ぎ、火に被せる。叩く。押さえる。
背中ががら空きになる。
短剣が来る。わかっている。
だが、帳簿が先だ。
――刃の風を背中に感じた瞬間、地下倉庫の入口から怒声が響いた。
「治安隊だ! 動くな!」
レオンの部下たち。リオの伝令を受けて駆けつけた隊員が、暗殺者護衛の背後から突入した。
護衛は舌打ちし、短剣を引いた。
逃げる気だ。
カイは追おうとした。だが、足元の帳簿がまだ燻っている。ここを離れれば、再燃する。
二秒の判断。
帳簿を選んだ。
暗殺者護衛は地下倉庫の排水溝から身を滑らせ、闇に消えた。治安隊員が追ったが、追いつけなかった。
逃がした。
だが。
カイは焦げた上着の下から帳簿の束を引き出した。約半分が焼け、残り半分が無事だった。
半分。
足りない。でも、ゼロじゃない。
「……搬出する」
カイは残存した帳簿を一冊ずつ治安隊員に目視で確認させた。インベントリに格納するにはミチカの能力が必要だが、ミチカは意識がない。だから正規の手続きで、証拠としての連続性を保つ。
目視確認。署名記録。搬出。
カイがこの手順を知っていたのは、ユリウスが事前に全員に叩き込んでいたからだ。
「証拠は手続きで守れ。手続きを踏まない証拠は紙屑だ」
あの皮肉屋の言葉が、今この瞬間に生きている。
帳簿の束を抱え、カイは地下倉庫を出た。
そのとき、私のステータスオープンが――意識のない私の能力が――自動で一つの数値を更新した。
カイ。忠誠値。
未定義域から微量の正数だったそれが、初めて明確な正数域に到達していた。
後で目覚めてステータスを確認したとき、私は少しだけ泣いた。実務です。実務で泣いただけです。
―――
監査会場。
扉が開いた。
治安隊員に護衛されたカイが、焦げ跡のついた帳簿の束を持って入ってきた。
会場が静まり返る。
シュヴァルツの顔から、完全に血の気が引いた。
「――監査団長殿」
ユリウスが帳簿を受け取り、一冊目を開いた。
数字が並んでいる。
横流し穀物の品目、数量、日付。そして行き先。
隣領への転売記録。
そして最後の列に、一つの名前が繰り返し記されていた。
上納先――本家当主。
金額が並ぶ。一期あたりの上納額。年間の総額。累積の横流し総量。
領の年間収穫の二割。
民が飢えた理由が、数字になって目の前にある。
「……これは、偽造だ」
シュヴァルツの声が震えていた。
「偽造かどうかは、ベッカーの証言と照合すれば明らかになります。なにせ筆跡の主は、あなたの監査団が連れてきた証人ですから」
ユリウスの声は、もう氷ですらなかった。刃だった。
シュヴァルツが後ずさる。
その瞬間だった。
会場入口の扉が、ゆっくりと開いた。
ミナに支えられて、一人の少女が立っていた。
顔色は紙のように白い。足元はふらついている。体力値三から意識を取り戻したばかりの、壊れかけの体。
でも、目だけは生きていた。
ミチカ。
私だ。
……正直に言うと、この時の記憶はほとんどない。体が勝手に動いた、としか言いようがない。ノアは止めたらしい。でもミナが「行きましょう」と言ったらしい。ミナ、君ときどき大胆だよね。
会場の全員の視線が、入口に集まった。
シュヴァルツが凍りついた。
ユリウスが眉をわずかに上げた。
レオンが一歩前に出かけて、止まった。
カイが、黙って道を空けた。
私はミナの肩に体重を預けながら、帳簿が開かれた卓の前まで歩いた。
三十歩。たぶん人生で一番長い三十歩だった。
そして、口を開いた。
声は掠れていた。でも、聞こえた。会場の隅まで届いた。
「――命令。全件読み上げなさい」
ユリウスが、初めて笑った。
本当に嬉しそうに。
「承知しました。領主命令により、裏帳簿の全件読み上げを開始します」
帳簿の頁がめくられる音が、静まり返った会場に響いた。
一行目の数字が読み上げられた瞬間、シュヴァルツの体が目に見えて震えた。
これで終わりだ。
……と、思った。
シュヴァルツの震えが止まった。その目が、不意に据わる。
追い詰められた獣の目だった。最後の切り札は、まだ切られていない。




