第44話:筆跡の追跡
体力値、十八。
目を開けた瞬間、視界の端に浮かぶ数字を見て、私は思わず二度見した。
……十八?
昨日、回復薬で三十二まで戻したはずだ。それが一晩で十八。半分近く削れている。
「ミチカ様、起きてはなりません」
ノアの声が頭上から降ってきた。冷たい布が額に乗せられる感触。いつから看ていたのだろう、この人は。
「……状況は」
「脈拍が安定したのは明け方です。回復薬による回復自体は定着しています。ただ、過労状態では体力の消耗速度が自然回復を大幅に上回る。昨日の出席で身体に蓄積した負荷が、睡眠中も体力を削り続けました」
つまり、回復薬が無駄だったのではない。回復薬がなければ、今頃もっと酷いことになっていた。
「起き上がれますか、と聞かれれば答えはいいえです。今日一日、絶対安静。これは医療判断であり、交渉の余地はありません」
ノアがここまで強い口調で言うのは珍しい。
いや、珍しくなくなってきた。最近の私の体力値の推移を思えば当然か。
告発状が受理されたのは昨日。猶予は受理翌日から七日間。つまり今日が一日目。
「……七日間の猶予のうち、一日目を寝て過ごせと?」
「寝て過ごすのはあなただけです」
ノアが淡々と続ける。
「捜索指揮はカイとレオンに。法務整理はユリウスに。物流と外部連絡はリオに。それぞれ昨夜のうちに指示系統を確認済みです」
……え、いつの間に。
「あなたが倒れた直後です。ミナが全員を集めました。私はあなたの容態から離れられなかったので、ミナが各員への伝達と役割の確認を取り仕切りました」
ミナが?
「ミチカ様が倒れたら誰が動くか、決めておかないと間に合いません、って」
扉の隙間からミナの声が聞こえた。小さいけれど、はっきりした声。
「……ミナ」
「おはようございます、ミチカ様。お粥、作ってあります」
泣きそうな声なのに、やることはちゃんとやっている。
……ああ、もう。
代行体制。
私がいなくても回る仕組み。それを作ったのは私自身だ。なら、ここで信じなくてどうする。
「命令」
私は天井を見たまま言った。
「本日の捜索指揮権をカイとレオンに委任します。全権代行、第一優先は告発状作成者の確保。私への報告は書面で。口頭報告のための入室は禁止」
ノアが小さく頷いた気配がした。
「……寝ます」
「賢明です」
ノア、それ褒めてる? 褒めてないよね?
―――
カイが動き出したのは、夜明け前だった。
ノアがミチカの容態に張り付いている間に、ミナが各員に伝達を済ませていた。カイへの指示もミナ経由で昨夜のうちに届いている。ミチカが目を覚ます前に、すでに動ける状態だった。
旧御用商会の連絡経路。それは表向きには存在しない、闇の伝書網だ。
商会が解体された後も、残党たちは古い連絡手段を使い続けていた。特定の酒場の壁に刻まれた印。荷馬車の荷札に紛れ込ませた符丁。市場の特定の露店に預けられる小包。
カイはかつて、その網の外側から監視する立場にいた。
だから知っている。
網の「穴」がどこにあるかを。
そしてもう一つ――監視時代に築いた細い繋がりが、王都にもいくつか残っていた。
郵便の中継所で働く元情報屋。
酒場の裏で符丁を読む古い知人。
いずれも商会監視のために接触し、商会崩壊後も縁が切れなかった人間たちだ。
大層な諜報網ではない。
公式の郵便経路を通過する書簡の、ごく一部を確認できる程度の、限られた目と耳。
だが今は、その限られた目と耳が要る。
「三箇所」
カイはレオンの前に、領内の略図を広げた。
指が三つの点を示す。
「東区の廃倉庫。商会時代の一時保管所」
指が移る。
「南門外の水車小屋跡。三つ目、北の旧街道沿い。炭焼き小屋」
「根拠は」
レオンが聞く。カイと二人きりのとき、こいつは敬語を使わない。戦場で背中を預けた相手に、今さら畏まっても噛み合わない――そういう間柄だった。
「入領記録。十日前。連絡経路の活性化時期と一致する地点」
カイは指で三点を順に叩いた。
「潜伏者が外部と繋がるには、既存の経路が要る。条件を満たすのはここだけだ」
レオンは略図を睨み、すぐに決断した。
「東区から行く。治安隊第二班と第三班で包囲、俺が突入する」
「待て」
カイが珍しく制止した。
「……全班に流すな。第二班と、あんたの直属だけ」
「理由は」
「勘」
レオンの眉が動いた。だが、カイの「勘」がこれまで外れたことがないことも知っている。
「……了解。第二班と直属のみ。南門と北街道は?」
「俺が先行する。確認が取れ次第、合図を送る」
二人は頷き合い、それぞれの方向へ散った。
―――
東区の廃倉庫。
レオンが扉を蹴破ったとき、中にあったのは――
何もない。
正確には、「つい最近まで誰かがいた痕跡」だけが残っていた。
消し炭になりかけの焚き火跡。水桶に残る濁った水。壁際に敷かれていたであろう藁の跡。
そして、床に散らばる紙片。
急いで去った。それも、ごく最近。
レオンは歯を食いしばった。
「……漏れたか」
包囲を敷く前に、情報が漏れていた。
治安隊の全班には伝えていない。第二班と直属だけ。だが第二班に招集をかけた時点で、「何かが起きる」という空気は広がる。
その空気を拾った者がいる。
治安隊の中に。
レオンの拳が壁を打った。鈍い音が廃倉庫に響き、沈黙が返ってきた。
自分が育てた隊だ。一人一人、選んだ。訓練をつけた。ミチカ様の領を守ると、共に誓った。
その中に――裏切り者がいる。
「……誰だ」
低く、絞り出すような声だった。
問いかけは誰にも届かない。空の廃倉庫に、レオンの息だけが残った。
正義感の塊であるこいつにとって、敵と戦うことは苦ではない。だが、味方の中に敵がいるかもしれないという疑念は――剣で斬れない種類の痛みだった。
拳を壁から離す。血が滲んでいたが、気にもしなかった。
今は動く。考えるのは後だ。
―――
二箇所目。南門外の水車小屋跡。
ここにはカイが先行していた。
潜伏者の姿はない。だが、一箇所目とは様子が違った。
荷物の大半はきちんと片付けられている。焚き火跡は土で丁寧に消されている。計画的に移動した形跡。
――ただし、完全ではなかった。
出入り口付近の地面に、深く踏み込んだ足跡が残っている。最後の一歩だけ、急いでいる。途中で予定を早めた。何かに追い立てられるように。
そして――
カイの目が、壁板の隙間に挟まれた紙片を捉えた。
引き抜く。
書き付けだった。数字の羅列と、略号。帳簿の下書きか、あるいは覚書。片付けの際に見落としたか、あるいは壁板の隙間に挟まっていて抜けなかったか。
カイはそれを懐から取り出した別の紙と並べた。
冤罪告発状の写し。
ユリウスが昨日の審理で入手し、カイに渡していたものだ。
筆跡を比べる。
「く」の字の癖。数字の「7」に横棒を入れる書き方。「金」の偏の角度。
……一致する。
だが、それだけではない。
カイはさらにもう一枚、別の紙を取り出した。旧御用商会の裏帳簿の写し。以前、御用商会の倉庫急襲で回収した物証の一部だ。
三枚を並べる。
告発状。水車小屋の覚書。裏帳簿。
全て、同じ筆跡。
……こいつは、ただの工作員じゃない。
裏帳簿を書いた人間だ。
御用商会の経理を担当し、横流しの全容を数字で把握していた人間。それが冤罪の告発状まで書いている。
つまり――不正の全容を知る生き証人が、冤罪工作の実行者でもある。
この人物を確保すれば、冤罪を崩せる。同時に、御用商会の横流しの全貌も証言で立証できる。
一石二鳥どころの話ではない。
カイは水車小屋を出て、合図の狼煙を上げた。
―――
レオンが合流したのは、それから半刻後だった。
カイが筆跡の一致を示すと、レオンの表情が変わった。
「元経理人……。名前は」
「ハインツ・ベッカー。商会解体時に行方不明になった七名の一人。帳簿管理と資金移動の担当」
「なぜそこまで知っている」
「……監視対象リストに入っていた」
カイの過去。御用商会の外側から、その動きを監視していた日々。あの頃の記録が、今こうして役に立つ。
皮肉なものだ、とカイは思ったかもしれない。思わなかったかもしれない。こいつの内面は、いつも読めない。
「三箇所目。北の炭焼き小屋」
レオンが言った。
「行くぞ」
「待て。治安隊は使うな。俺とあんたの二人だけだ」
「……内通者の件か」
「ああ。二人なら漏れようがない」
レオンは一瞬だけ目を閉じた。
内通者の存在を、カイも同じように読んでいた。その事実がレオンの胸を締めつけた。自分だけの思い違いであってほしかった。
だが、頷いた。
「了解。二人で行く」
―――
北の旧街道。炭焼き小屋。
街道から小屋が見えたとき、二人は同時に足を止めた。
扉が開いている。
カイが無言で手信号を出した。――周辺確認。
二人は小屋を中心に、左右に別れて外周を回った。裏手に人影はない。街道の先にも動くものはない。カイが地面を確かめる。小屋の周囲に複数の足跡。馬の蹄の跡。いずれも時間が経っている。
カイが短く口笛を鳴らした。――安全。
レオンが正面に回り、壁に背をつけて扉の脇に立つ。カイが反対側につく。
互いに頷く。
レオンが先に中に入り、右を確認。カイが続いて左を確認。
人はいない。
だが、痕跡が一箇所目とも二箇所目とも違った。
床に飛び散った墨。倒れた机。壁に突き刺さったナイフ。
そして、窓枠に引っかかった布の切れ端。
戦闘の痕跡だった。
レオンが窓際と入口を交互に確認し、退路を頭に入れた上で奥に進む。カイは入口近くに留まり、外への視線を切らさなかった。
安全を確保した上で、二人は痕跡の読み取りに入った。
カイがナイフを壁から引き抜き、刃を確かめた。
「……軍用じゃない。護身用の短刀」
「ベッカーのものか」
「おそらく」
レオンが床の墨跡を辿る。倒れた机の位置、ナイフの刺さった角度。
「……二人以上で踏み込まれている。足跡が最低三つ。ベッカーは窓から逃げた」
カイが頷いた。
「問題は、踏み込んだのが誰か」
レオンの目が鋭くなった。
「俺たちじゃない。治安隊にもこの場所は伝えていない。ということは――」
「別の勢力。回収しに来た連中がいる」
沈黙が落ちた。
ベッカーは三箇所の潜伏先を転々としていた。一箇所目は治安隊の動きを察知して急いで逃げた。二箇所目は計画的に移動しつつも、最後に何かに急かされた。そして三箇所目――ここで「回収者」に追いつかれた。
逃げていたのは、俺たちからだけじゃない。
カイはその推測を言葉にはしなかった。だが、レオンも同じ結論に達していることは、その表情でわかった。
カイが布の切れ端を手に取り、匂いを嗅いだ。
「……馬の脂。街道を馬で逃げた」
窓の外を見る。北の旧街道は、真っ直ぐ隣領へ続いている。
「方角。隣領方面」
レオンの声が低くなった。
「領外か」
「ああ。追跡権限がない」
自治領の治安隊は、領内でしか動けない。隣領に逃げ込まれれば、手が出せない。
これは制度の壁だ。
力がないのではない。権限がないのだ。
レオンが拳を握り締めるのが見えた。
「……ミチカ様に報告する」
「待て。もう一つ」
カイが懐から封書を取り出した。
「今朝届いた。王都の筋から」
レオンが受け取り、封を切る。
中身は密書の写しだった。
カイが王都に残している情報源――商会監視時代に繋がりを持った中継所の元情報屋だ。
公式の郵便経路を通る書簡のうち、特定の差出人や宛先に合致するものがあれば、その写しを取って知らせてくる。
封蝋を外し、写しを取り、元に戻す。
古い手口だが、物理的に紙が動く時代には有効だった。
ただし、拾えるのは郵便経路に乗る情報だけだ。一個人がどの小屋に隠れているかは、手紙には書かれない。大層な諜報網とは程遠い。
その限られた網に、今回は引っかかるものがあった。
差出人は判読できないが、宛先は明確――隣領領主、フリードリヒ・フォン・ヴァイス。
内容はこうだ。
『貴殿の領内に一名の保護を要請する。当該人物は我が方の重要な証人であり、身柄の安全を保障されたい。見返りとして、次期王都人事における貴殿の推薦を約束する――第二宰相派』
「……これは」
レオンが密書の写しを見つめた。
「どうやって入手した」
「中継所の協力者。経由地で写しを取った」
それだけ言って、カイは口を閉じた。手法をこれ以上語る必要はない。レオンもそれ以上は問わなかった。
「……第二宰相派が動いている」
レオンが密書を握り潰しそうになるのを、かろうじて堪えた。
「元経理人は、ただ逃げたんじゃない。逃がされたんだ。隣領に。第二宰相派の保護のもとに」
カイが頷く。
「確保しなければ、冤罪は崩せない。裏帳簿の全容を証言できるのは、あの男だけだ」
炭焼き小屋の「回収者」と、この密書。繋がっている。第二宰相派は、ベッカーを確実に手元に置くために、人を送り込んでいた。
残り六日。
敵は領外にいる。追跡権限はない。隣領領主は第二宰相派と取引している。
――詰んでないか、これ。
いや。
まだだ。
制度の壁があるなら、制度で壊す。それがこの領のやり方だ。
カイは炭焼き小屋を出て、南の空を見た。
あの屋敷で寝ているはずの小さな領主が、この報告を読んでどう動くか。
……いや、動けないのだ、今は。
だから俺たちが動く。
カイの忠誠値が、また少しだけ上がったことを、本人は知らない。
―――
その夜。
ミチカの枕元に、二通の報告書が届いた。
一通はカイから。筆跡一致の分析結果と、元経理人ハインツ・ベッカーの身元情報。
一通はレオンから。三箇所の捜索結果と、治安隊内に内通者がいる可能性の報告。
そして、密書の写し。
ミチカは体力値十八のまま、薄暗い部屋でそれらを読んだ。
――読もうとした。
指先が震えて、紙がうまく持てない。文字が霞む。一通目のカイの報告書を読み終えるのに、普段の三倍の時間がかかった。
途中で二度、紙を取り落とした。
頭も鈍い。普段なら一読で掴める文意が、二度三度と読み返さないと輪郭を結ばない。体力値が下がると身体だけでなく、思考にも靄がかかる。ステータスとはそういうものだ。
それでも読んだ。
何度も戻り、何度も確認し、ようやく三通の全容を頭の中に並べ終えた。
密書の写しに目を通し終えたとき、ミチカはしばらく天井を見つめていた。
思考を組み立てるのに、いつもの倍以上の時間がかかった。断片が霧の中を漂い、なかなか繋がらない。
だが――繋がった瞬間、唇が薄く動いた。
「……なるほど」
声は掠れていた。だが、その目には――熱に潤んだ目の奥には、鈍く、しかし確かに光があった。
領外の敵。追跡権限の壁。第二宰相派の介入。炭焼き小屋の第三者。
全部、制度の問題だ。
なら、制度で解く。
「ミナ」
「はい、ミチカ様」
枕元に控えていたミナが、すぐに応じた。
「明日の朝一番で、ユリウスを呼んで」
一度息を吐く。言葉を組み立てるのにも、体力値十八の身体は対価を要求してくる。
「議題は――領外への身柄引渡し請求の、法的根拠」
この地域の複数の自治領は、相互の通商と治安維持のために「自由都市連盟」と呼ばれる協定を結んでいる。加盟領間での犯罪者引渡しや証人保護に関する取り決めを定めた、いわば領際法の枠組みだ。隣領もこの連盟に加盟している。
「連盟規約に、使える条項があるはず」
もう一度、息を整える。ここまでで、もう額に汗が浮いていた。
「それと、カイに伝えて。王都の情報源に、もう一つ調べてほしいことがある」
言葉を切る。呼吸が浅い。
「隣領領主ヴァイスの――直近の領政収支。特に、王都への上納金の滞納状況」
最後まで言い切ったとき、視界の端が暗くなりかけた。
ミナが頷いて部屋を出ていく。
ミチカは報告書を胸の上に置いたまま、天井を見た。
思考はまだ霧の中だ。だが、霧の向こうに道筋が見えている。輪郭だけでいい。明日、体力が一でも戻れば、細部を詰められる。
元経理人ハインツ・ベッカー――あなたが持っている情報は、冤罪を崩す鍵であると同時に、御用商会の不正を根こそぎ立証する爆弾だ。
第二宰相派がわざわざ隣領に匿うほどの「重要な証人」。
裏を返せば、それだけの価値がある人間を、敵は絶対に渡さない。
でもね。
私は「渡してもらう」つもりなんかない。
「取りに行く」仕組みを、作るんだよ。
残り、六日。




