第42話:救援契約
回復薬の瓶が、あと三本。
深夜の寝台で指先に瓶を転がしながら、私は壁の向こうから聞こえた報告を反芻していた。
第二宰相派の密使が、第一宰相派勅使の宿駅に先回りしていた。つまり寝返りの可能性がある。
……最悪のパターンだ。
医療証明書がなければ尋問延期は使えない。延期が使えなければ、体力値12の私が法務官の前に引きずり出される。そうなったら――
「ミチカ様」
暗がりの中、ノアの声が落ちてきた。
低くて静かで、だけど有無を言わせない響き。
「回復薬を一本使って意識を保っている現在の状態で、体力値は14。回復上限が下がっています。三本すべて使い切っても最大で19までしか戻りません」
19。
健康な成人の平均が80前後。
「尋問に耐えられる時間は?」
「最長で二刻。それを超えると意識が保てなくなります。最悪の場合――」
「死ぬ、と」
「……はい」
淡々と言ってくれるのが、ノアのいいところだ。
変に取り繕われるより、数字で殴ってくれたほうがいい。こっちも数字で殴り返せるから。
現在の状況を整理しよう。
監査まで残り二日。領主尋問権は法的強制。延期するには王都公印持ちの第三者が発行する医療証明書が必要。その第三者候補は、領内に滞在中の第一宰相派勅使アルブレヒトただ一人。
でもそのアルブレヒトに、第二宰相派が先に接触済み。
詰んでる?
いやいや、まだだ。
カイの報告は「密使接触の痕跡」であって、「寝返り完了」じゃない。痕跡があるだけなら、まだ交渉の余地はある。
問題は――アルブレヒトの本心が読めないこと。
ステータスオープンの射程外。
これが痛い。遠距離から嘘反応を確認できないなら、直接会うしかない。
直接会うしかない、のだけど。
体力値14の私が宿駅まで歩けるかというと、正直かなり怪しい。
「ノア」
「はい」
「二刻じゃなくて――宿駅まで行って、交渉して、帰ってくるだけの時間は?」
沈黙。
数秒後、ノアが答えた。
「片道の移動に馬車を使い、交渉を四半刻以内に収めるなら……可能です。ただし、帰路で意識を失う確率が六割を超えます」
六割。
サイコロで言えば4以上が出たらアウト。
……上等じゃないか。
「もう一つ。回復薬の残り三本のうち、二本目は移動前に使います。三本目は?」
ノアが一拍置いた。
「……温存してください。監査当日、尋問の場に立つなら――最後の一本がなければ、意識を保てません」
つまり、今日の外出には二本目の回復薬一本で凌げ、と。
明後日の監査に三本目を残す。そのために今日は六割の意識喪失リスクを負う。
合理的だ。嫌になるくらい。
「わかった。――レオン」
廊下の気配が動いた。
扉の外で控えていたレオンが、静かに入ってきた。
「はい」
「私が戻るまで、館の守備指揮を任せます。来客があっても中には入れないで」
「……了解しました」
一瞬、何か言いかけた口が閉じた。
レオンの目が、暗がりの中でも分かるくらい真っ直ぐに私を見ていた。守りたい、と言いたいのだろう。でもこの人は、それを「任務」に変換できる人だ。
「ミチカ様。――ご無事で」
「命令じゃなくて?」
「……お願い、です」
短く、硬く。
感情を飲み込んだ声だった。
「行ってきます」
―――
翌朝。
ユリウスとリオが、夜明け前に宿駅へ向かった。
私は一刻遅れで出発する。先に二人が場を作り、私が後から合流して射程内からステータスオープンをかける――それが作戦だ。
出発前、館の玄関でレオンが直立していた。
「行ってらっしゃいませ」
敬礼。崩れない姿勢。
ミナが私の腕を取り、馬車の踏み台に手を添えてくれた。
「ミチカ様、ゆっくりで大丈夫ですから……」
ゆっくりじゃなきゃ無理だった。
踏み台に足をかけた瞬間、膝が笑った。たかが三段の階段が、山を登るみたいに遠い。ミナの手と、馬車の枠を両方掴んで、ようやく座席に体を引き上げた。
息が切れる。
座っただけで額に汗が浮く。
「ノア、二本目」
差し出された回復薬の瓶を、震える指で受け取る。蓋を歯で噛んで開けた。指先に力が入らなくて、蓋くらい自分で開けたいのに。
苦い。
一本目より苦い。体が弱っているせいで味覚まで過敏になっている。喉を焼くような刺激が食道を落ちて、数秒後――体の芯がほんの少しだけ温まった。
ステータスを確認する。体力値16。14から2だけ上がった。
「回復量が落ちています。一本目は5上がりましたが、二本目は2です」
ノアの声に感情はない。数字の報告。それでいい。
「十分。行って」
馬車が動き出した。
石畳の振動が、座席越しに骨まで響く。体力値16は、揺れに耐えるだけで削られていく数字だった。目を閉じて、ミナの肩に頭を預けた。
「ミチカ様……寝ていてください。着いたら起こしますから」
「寝ない。寝たら起きられない気がする」
冗談じゃなく、本気で。
街道の轍を拾うたびに体が跳ね、そのたびに視界の端が白く明滅した。ミナが私の手を両手で包んで、ずっと温めていてくれた。
宿駅に着いた時、体力値は14に戻っていた。
移動で2削られた。回復薬の効果と消耗が、きれいに相殺された形だ。
残り一本。これは明後日まで使えない。
―――
宿駅は街道沿いの小さな宿場で、勅使一行が借り上げた二階建ての石造りの館だった。
馬車を降りると、朝靄がまだ残っていた。石壁に染みた湿気が冷たく、呼吸をするたびに肺の奥がひやりとする。正面の扉は開け放たれていて、中から蝋燭の脂が焼ける匂いが漂ってきた。
ミナの肩を借りて中に入ると、廊下は薄暗かった。壁に掛けられた燭台が等間隔に並んでいるが、半分は火が落ちている。窓が少ない造りで、朝の光がほとんど届かない。
案内された控えの間は、応接間の隣だった。
「領主様はこちらでお待ちを。勅使殿は隣室でお客様と――」
従者の声を聞き流しながら、私は壁に背を預けた。
石壁が冷たい。冷たいのが、むしろありがたかった。熱っぽい体に、石の冷気が沁みる。
壁一枚隔てた向こうから、声が聞こえた。
ユリウスとリオは、既に通されていた。
「まあ座りたまえ。お茶くらいは出そう」
低く落ち着いた声。アルブレヒトだ。
壁越しに聞く声は、くぐもって少し遠い。でも石造りの宿駅は意外と音を通す。会話の内容は、ほぼ聞き取れた。
ユリウスが単刀直入に切り込む声が聞こえた。
「昨夜、第二宰相派の密使がこの宿駅を訪れた痕跡があります。……否定はなさいませんね?」
茶杯を置く音。陶器が木の卓に当たる硬い音。
「痕跡、ね。君たちの情報網は辺境にしては優秀だ。――ああ、否定はしないよ。来たのは事実だ」
否定しなかった。
「寝返ったんですか」
リオの声。軽い口調。でも声の底に、いつもの笑いがない。
「寝返る? 私が? ――いいや。両方から声がかかった、というだけの話だ」
「両方から」
「第二宰相派は、監査に協力すれば帰京後の昇進を約束すると言った。悪くない条件だ。だが――」
間。
椅子が軋む音。姿勢を変えたのだろう。
「私は、より高い値をつける側と組む」
商人じゃないか、この人。
……いや、政治家か。政治家は全員商人みたいなものだ。ROIで動く。
ユリウスの声。
「……つまり、まだどちらにも応じていない、と?」
「その通り。医療証明書の発行は可能だ。王都公印もある。だが――対価なしに動く理由がない」
「条件は?」
沈黙が、壁越しでも重かった。
「将来、王都の――ある方が助けを求めた時に、この領が応じること。それだけだ」
―――
ある方。
壁に背を預けたまま、私はその言葉を噛み砕いた。
王位継承者だ。
第一宰相派が推す継承候補。王都の権力闘争で、いつか追い詰められるかもしれない人物。
アルブレヒトの真の目的は、最初から医療証明書なんかじゃない。
辺境に恩を売り、将来の味方を確保すること。
――恩の貸し付け。
これが第一宰相派の思惑の正体か。
壁の向こうで、リオが息を詰めた気配がした。
「なかなかの大物釣りですね、勅使殿。辺境の小領に将来の借りを仕込むとは」
「小領? 三年前は確かにそうだった。だが今は違う。自治領宣言、公開審査会、代替物流網、五制度の同時起草――この領は、仕組みで動いている。仕組みで動く領は、人が死んでも止まらない。それは――投資に値する」
背筋が冷えた。
「人が死んでも止まらない」――褒めているようで、恐ろしい言葉だ。それはつまり、私が死んでも利用価値がある、という意味だ。
「密約でいい。文書にする必要はない。口約束で――」
ここだ。
私はミナの肩を借りて立ち上がり、隣の応接間の扉を開けた。
「お断りします」
―――
応接間は、控えの間よりさらに薄暗かった。
窓は一つだけ。分厚い布の帳が半分引かれていて、朝の光が細く斜めに差し込んでいる。その光の筋の中を、埃が静かに舞っていた。
部屋の奥に長卓が一つ。蝋燭が三本立てられているが、一本はもう芯が短くなって、蝋が卓の上に垂れている。茶の匂い――安い薬草茶の、少し青臭い匂いが空気に混じっていた。
アルブレヒトは卓の奥に座っていた。五十がらみの痩せた文官。第一宰相派の勅使にしては地味で、派手な装飾も護衛の数も控えめ。灰色の上着は仕立てはいいが使い込まれていて、むしろ目立たないことを意図しているような佇まいだった。
その目が、私を見て開かれた。
「これは――領主殿自ら? この体調で?」
「視察です」
嘘だけど。
いや、ある意味では本当だ。あなたを視察しに来た。
ミナが泣きそうな声で私を支えている。
「ミチカ様、お身体……!」
ごめんね、もうちょっとだけ。
――ステータスオープン。
射程内。
今度は、表示された。
アルブレヒト・ライトナー。五十二歳。第一宰相府付き勅使。忠誠傾向――第一宰相派に対して高。現領主に対して微。
数値にすれば、第一宰相派への忠誠が圧倒的に高く、私に対してはほんの微量。だが正の値だ。敵意はない。
そして。
嘘反応――なし。
さっきの条件は、本心だ。
「ある方が助けを求めた時に応じる」――これは嘘じゃない。本当にそれだけが条件。
でも。
「口約束で」の部分が問題だ。
口約束は、相手の都合でいくらでも解釈を変えられる。「応じる」の範囲が無限に広がる。兵を出せ、金を出せ、領地を差し出せ――恩の貸し付けは、返済条件が曖昧なほど債権者に有利になる。
これは借金と同じだ。
金利が書いてない借用書にサインするバカはいない。
「アルブレヒト殿」
私はミナの肩から手を離し、一歩前に出た。
足が震えた。でも声は震えさせない。
「条件を受けます。ただし、修正があります」
「修正?」
「個人の恩ではなく、制度として応じます。救援契約として文書にしてください」
アルブレヒトの口元から笑みが消えた。
「……文書に?」
「はい。契約内容は――王都のある方が正式に救援を要請した場合、当領は制度の範囲内で応じる。ただし、応じる範囲は物資・人員・制度支援に限定し、軍事行動は含まない。契約期間は十年。更新には双方の合意を要する」
軍事を入れたら終わりだ。この領に正規の兵力はない。ないものを約束すれば、「軍を整えろ」と要求される口実になる。そうなれば自治領じゃなく属国だ。
十年――継承候補が即位するか、失脚するか。どちらにしても決着がつく期間。無期限の恩は借金と同じだが、期限付きの契約なら対等だ。
私は息を整えた。
「恩じゃなくて、契約です。恩は曖昧ですが、契約は明確です。あなたが『ある方』のために本当に助けを求めるなら、曖昧な口約束より、制度に裏打ちされた契約書のほうが確実でしょう?」
アルブレヒトが、じっと私を見た。
ステータスの数値が動いた。忠誠傾向――現領主に対して、微から小へ。上昇。
嘘反応――なし。
私の言葉も、本心だと判定されている。
「……驚いた」
アルブレヒトが、ゆっくりと言った。
「辺境の、しかも未成年の領主に、恩を制度に変換されるとは思わなかった」
「未成年だからですよ。個人の信用がないから、制度で補うしかないんです」
自虐じゃない。事実だ。
血筋でも年齢でも権威でも勝てないなら、仕組みで勝つ。それが私のやり方だ。
アルブレヒトは数秒沈黙した後、ふっと笑った。
「いいだろう。文書にしよう」
ユリウスが即座に羊皮紙を広げた。――用意がいい。さすが。
「……視察、ね」
ユリウスが小声で呟いた。うるさい。
契約書の文面をユリウスが口述し、アルブレヒトが確認し、二箇所の修正を経て――署名。
王都公印が、救援契約書と医療証明書の二通に押された。
ぽん、と赤い印が紙に落ちた瞬間、私は心の中でガッツポーズした。
キター!!!
医療証明書、確保。これで尋問延期が使える。
そして救援契約――これは、参加型統一の雛形が領外の権力者との間で初めて適用された瞬間だ。
恩を制度に変えた。個人の貸し借りを、契約という形に鋳直した。
―――
帰路の馬車の中で、私は案の定、意識が朦朧としていた。
体力値11。行く前より下がってる。回復薬の効果が切れたのだろう。ノアの予測通りだ。
ミナが私の頭を膝に乗せて、ずっと髪を撫でていた。
「ミチカ様、お疲れさまでした……。すごかったです……」
「実務です……」
「実務で泣きそうになる人、初めて見ました……」
泣いてない。目が潤んだのは体力値のせいだ。断じて。
――と、馬車が不意に速度を落とした。
御者が手綱を引いている。街道の脇に、見慣れた影が立っていた。
カイだ。
馬車が止まると、カイは幌の隙間から顔だけを覗かせた。息が乱れていない。走ってきたはずなのに。
「報告」
「どうぞ」
「監査団の荷駄。法務官の私物とは別の封印箱。昨夜、確認した」
ユリウスが身を乗り出した。
「封印箱の中身を? どうやって」
「封蝋の型取り。書記官の控え写しを確認」
カイらしい。封印を壊さず、中身を推定する方法を取ったのだ。書記官が控えを持っているなら、そちらを押さえればいい。
「中身は」
「告発状。領主に対する横領の冤罪。書式は王都法務府の正規様式。日付は――監査団が出発する前に作成済み」
馬車の中が、凍りついた。
横領の告発状。
正規書式。
作成済み。
つまり――監査なんか最初から茶番だ。調べる前から結論が決まっている。書式で防げる攻撃じゃない。証拠を積み上げて潔白を証明しても、「告発状がある」という事実だけで裁判に持ち込める。
エルヴィンの捨て台詞が蘇った。「書式では防げない手段がある」――これか。
「……ユリウス」
「聞こえてる。冤罪の告発状か。……厄介だな。法務府の正規書式なら、手続き上は受理せざるを得ない」
リオが珍しく真顔だった。
「書式じゃ防げない。証拠でも防げない。じゃあどうする?」
私は、ミナの膝の上で目を開けた。
幌の隙間から、白い空が見えた。
体力値11。回復薬、残り一本。監査まで二日。
でも――方法はある。
「公開の場で、嘘を暴く」
告発状の内容が嘘なら、告発者の嘘反応を公の場で検知すればいい。ステータスオープンで。射程内に引きずり込んで、全員の前で数値を晒す。
「書式で防げないなら、書式の外で戦う。嘘は制度じゃ隠せない」
ユリウスが長い溜息をついた。
「……それをやるには、監査の場に立たなきゃならない。体力が持つのか」
「持たせる」
「根拠は」
「根性」
「……最悪の根拠だな」
ミナが、私の手をぎゅっと握った。
小さくて、温かい手。
……ふと、気になってステータスを開いた。
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微減。
たった2。でも、ずっと上がり続けていた数字が、初めて下がった。
ミナの手の温度のせいかもしれない。馬車の揺れが穏やかだからかもしれない。理由は分からない。でも――
ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
……監査まで、あと二日。




