第41話:尋問権と猶予
朝靄がまだ窓の外に薄く残る時刻。
執務室に集まった五人の顔は、一様に硬い。
「報告」
カイが卓上に一枚の紙片を置いた。
それだけだ。それだけで、空気が変わった。
「……監査団本隊の陣容が変更された。先遣隊三名に加え、王都法務官が一名追加。計四名編成」
ユリウスが紙片を手に取り、目を細める。
「法務官の追加、ね。……つまり監査団長に付与される領主尋問権が、行政監査の範囲から法的強制執行の範囲に格上げされたということだ」
リオが口笛を吹いた。
「それってさ、要するに――」
「領主本人が出頭しなければ、拘引できる。合法的に」
レオンの拳が、音を立てて膝を打った。
「……エルヴィンの捨て台詞は、虚勢ではなかったということですか」
ああ、そう。そういうことだ。
あのとき去り際に吐いた「領主尋問権」の予告。あれは単なる脅しじゃなく、既に王都で手続きが動いていた。
法務官の追加は、尋問権に法的拘束力を持たせるための布石。
つまり――書式で防げる範囲を、完全に超えてきた。
「整理する」
ユリウスが腕を組み、天井を仰いだ。
「代行体制で応対する場合の限界は三つ。一、領主尋問権の発動に対し、代行者では法的に応答資格がない。二、法務官が同席する以上、回答拒否は即座に不服従として記録される。三――」
一拍の間。
「代行者の回答は、領主本人の意思表示として法的効力を持たない。つまり何を答えても、後日『領主の追認がない』として無効にできる」
リオが頭を掻いた。
「……それ、詰みじゃん」
「詰みに近い。だから相手は法務官を追加した。書式で防壁を築いた我々に対して、壁ごと無効化する手を打ってきたわけだ」
沈黙。
全員の視線が、自然と執務室の奥――寝室へ続く扉の方へ向いた。
その向こうに、ミチカがいる。
三日間、目を覚まさないまま。
―――
薄暗い寝室に、朝の光が細く差し込んでいた。
ミナは椅子に座ったまま、ミチカの手を握っていた。
もう三日目だ。
冷たくはない。でも、応えてくれない。
「ミチカ様……」
小さく呼びかける。何度目かわからない。
ノアが朝の診察に来て、脈を取り、額に手を当て、いつもと同じように静かに言った。
「体力値は回復傾向にある。だが、ストレス値が下がりきらない限り、意識の覚醒は――」
その瞬間。
ミチカの指が、動いた。
「――っ!」
ミナの手を、かすかに握り返す感触。
「ミチカ様! ミチカ様!!」
ミナの声に、ノアが振り向く。
ミチカの瞼が、震えるように開いた。
「…………ぁ」
焦点の合わない目が、天井を映す。
それから、ゆっくりとミナの顔を捉えた。
「……ミナ」
「はいっ! はい、ここにいます!」
ミナの目から涙がぼろぼろとこぼれた。握った手に力を込める。
ミチカは小さく息を吐いて、唇の端をわずかに持ち上げた。
笑おうとしている。この状態で。
「……何日、寝てた?」
「三日です」
「……三日。うわ、やば」
声はかすれて、ほとんど息だけだった。
起き上がろうとして――体が動かない。
「……え」
ミチカの表情が変わった。
腕に力を入れる。入らない。足を動かそうとする。動かない。
頭だけが、いつも通りに回っている。
「ステータス……オープン」
声が震えた。
目の前に、自分だけに見える半透明の数値群が浮かぶ。
――体力値:12/100。
――ストレス値:89。
――状態異常:極度疲労(重度)、神経過負荷。
「……十二」
呟いて、目を閉じた。
体力値十二。これは、ほぼ寝たきりの数値だ。
前世の感覚で言えば――重度のインフルエンザで三日寝込んだ後、さらに全身の筋肉が動かない状態。立つどころか、寝返りすら打てない。
「ノア」
「聞こえている」
ノアが静かにベッドサイドに立った。
「体力値十二。ストレス値八十九。この状態で立ち上がれるまで、最短でどのくらい?」
「……安静を維持して、五日以上」
「監査は四日後」
「知っている」
短い沈黙。
ノアの目が、珍しく揺れた。
「出頭すれば、命に関わる。体力値が一桁に落ちた場合、回復不能な損傷が残る可能性がある」
はっきりと言い切った。
いつもは「可能性」や「傾向」で濁すノアが、断言した。
それだけで、事態の深刻さがわかる。
―――
報告を受けた執務室は、一瞬で紛糾した。
「代行を続行するしかありません。ミチカ様を出頭させるなど――論外です」
レオンが即座に言った。
「だが代行では法的に詰む。さっき整理した通りだ」
ユリウスが冷静に返す。
「……であれば、他にどのような手が」
レオンの声が低く軋んだ。拳が白くなるほど握りしめられていたが、言葉は崩れなかった。
「それを議論している」
「出頭させて、椅子に座ってるだけでも――」
「体力値十二で移動するだけで数値が削れる。監査の尋問は最短でも二刻。その間の精神的負荷を加算すれば――」
ノアが遮った。
「死ぬ可能性がある。それも低くない確率で」
全員が黙った。
リオが、珍しく真顔で腕を組んでいた。
「……本人出頭か、代行続行か。どっちを選んでも負け筋がある。最悪のジレンマだな」
そのとき。
寝室の扉が、内側からわずかに開いた。
ノアが立ち上がった。
「――何をしている」
扉の向こうで、ミナがミチカの上体を必死に支えていた。ミチカは長椅子の上に横たえられたまま――いや、横たわったままかろうじて首だけを起こしている。
ノアが寝室に駆け戻ったのが見えた。
「体力値十二で起き上がるな。心臓に負荷が――」
「ノア。……応急の回復薬、あるでしょう」
かすれた声。だが、目だけが明確な意志を持っていた。
ノアが一瞬だけ唇を引き結んだ。
「……ある。だが一時的なものだ。体力値を五ほど上乗せするが、効果は一刻。切れた後の反動で――」
「一刻あればいい。執務室まで運んで」
「ミチカ様――」
「命令」
その一言で、ノアの手が動いた。
薬液を含ませた布をミチカの唇に当てる。数秒後、わずかに――本当にわずかにだが、ミチカの指先に力が戻った。
ノアとミナが両側から支え、長椅子ごとミチカを執務室に運び入れた。
五人が、口を閉じた。
ミチカは長椅子に横たわったまま、首だけを全員の方に向けていた。上体を起こす力すらない。だが、目は開いている。
「……状況は、聞こえてた。壁、薄いから」
ミチカの手が震えている。
だが、その手が――虚空に向かって動いた。
インベントリ。
半透明の格納空間が開き、中から紐で束ねられた書類の山が取り出される。
――取り出した瞬間、腕が落ちた。力が尽きたのだ。
ミナが素早く受け取り、卓上に置いた。
「……監査応対書式。完成版」
息を整える。声が途切れる。もう一度、息を吸い直す。
「ユリウスが起草して……私が最終確認したもの」
ユリウスが書式の束を手に取り、素早くめくった。
「……確かに、これは完成している。だが――」
「私が立てなくても、この書式が立つ」
はっきりと――言おうとした。
だが声が出なかった。口が動いて、音にならない。
ミチカは目を閉じ、数秒かけて呼吸を整え、もう一度。
「……私が立てなくても。この書式が、立つ」
今度は、届いた。
震える声で、だが一切の迷いなく。
「制度は、人が倒れても動くためにある。そうでしょう、ユリウス」
ユリウスが、一瞬だけ目を伏せた。
「……ああ。そのために作った」
「なら――」
言いかけて、ミチカの目が泳いだ。焦点が一瞬消える。意識が遠のきかけている。
ミナが、ミチカの手を握った。強く。
その感触で、ミチカの目に光が戻った。
「……なら、信じて」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
だが――ミチカの目が、急に鋭くなった。
「……一つ、確認したいことがある」
再びステータスオープン。
今度は自分の数値ではなく、別の対象に向けて。
「監査団長――ハインリヒ・ヴェーバー。ステータスオープン」
沈黙。
ミチカの目が、虚空を見つめたまま動かない。
一秒。二秒。三秒。
「……出ない」
「出ない?」
リオが聞き返した。
「射程外。届かない」
ミチカの顔から、血の気が引いた。
――嫌な記憶が蘇る。
以前、西方街道の交易拠点で会った王都の穀物商。あのとき何気なくステータスオープンを試みて、何も表示されなかった。不思議に思ったが、その商人は翌日には領を出ていたし、深く考えなかった。
あのときの空振りと、今の空振り。
繋がった。
ステータスオープンには――有効射程がある。この領の内にいる者にしか、届かない。
「監査団長の忠誠値も、思惑も、嘘の反応も――事前に読めない」
つまり。
監査の場に出てきた相手が何を考えているか、どんな罠を仕掛けているか、尋問でどこを突いてくるか――全てが未知のまま本番を迎えることになる。
「……これは、まずい」
ミチカが呟いた。
書式は完璧に整えた。代行体制も機能する。だが、相手の手札が見えない。
今まで、ステータスオープンという情報優位があったからこそ、格上の相手に勝ててきた。
その前提が――崩れた。
「……情報のアドバンテージがゼロ。いや、マイナスだ。相手はこっちの状況を知ってる。エルヴィンが伝えてるはず」
ミチカの手が、シーツを握りしめようとして――握れなかった。薬の効果が、もう切れかけている。
―――
重い空気の中、ユリウスだけが動いていた。
執務室の棚から、付箋の挟まれた古い法令集を引き出す。
「ミチカ様が倒れてからの三日間、手は打ってある」
全員の視線が集まった。
「最悪の事態――領主が出頭不能になる場合を想定して、法令集を端から洗い直していた」
付箋の貼られた頁を開く。さらに数枚めくり、指が止まった。
「王国法令集第七編、領主尋問権に関する細則。第四十三条の二――『被尋問者が重篤な健康状態にある場合、尋問の延期を申し立てることができる』」
「延期!」
リオが身を乗り出した。
「ただし」
ユリウスの声が、冷たく続く。
「適用条件がある。『王都公印を持つ第三者による医療状態の証明書』の提出が必要」
法令集の注釈欄を指でなぞる。
「判例を遡った。百二十年前のアーレンス伯爵の事案が唯一の先例で――三日かけてようやく見つけた。このときは王都から派遣された典医が証明書を発行している」
「王都公印を持つ第三者……」
レオンが唸った。
「この辺境に、そんな人物が――」
「いる」
カイだった。
全員が振り向いた。
「第一宰相派の勅使。まだ領内にいる。北街道沿いの宿駅に滞在中。公開審査会後の残務処理と、領内交易路の視察を名目に逗留を続けている。確認済み」
沈黙。
第一宰相派の勅使――かつて公開審査会で署名を残したあの男が、まだこの領にいる。
そして勅使は、王都公印を携行している。
「……つまり、あの勅使に医療証明書へ公印を押させれば、尋問の延期が成立する」
ユリウスが、眼鏡の奥の目を光らせた。
「ただし、第一宰相派だ。タダでは動かない。恩を売り、将来の味方を得ることが彼らの目的。ここで頼れば、確実に貸しを作られる」
リオが苦笑した。
「かつての敵の権威を、味方に使う。なかなかの賭けだな」
「賭けではない」
ミチカの声。
かすれていた。さっきより、さらに。
「取引だ。向こうにも利がある。第二宰相派の監査団が成果を上げれば、第一宰相派は王都での立場を失う。それを阻止する――大義名分が――」
声が途切れた。
ミナが身を乗り出し、ミチカの口元に耳を寄せた。
小さな囁きを聞き取って、ミナが代わりに告げた。
「――私たちの延期申請、だそうです」
その分析に、ユリウスが小さく頷いた。
「……相変わらず、横になっていても頭だけは回るな」
「褒めてる?」
もう息だけの声だった。
「事実を述べている」
ミチカは薄く笑って――それから、ミナの方を見た。
「ミナ」
「はい!」
「……ありがとう。起きられたの、たぶんあなたのおかげ」
ミナの目が、また潤んだ。
理由は、わかっている。三日間、ずっとそばにいてくれた。その存在が何をもたらしたか――数値で説明できる。ノアが倒れる前日に測定した九十一から、今朝の八十九へ。ストレス値を動かした要因は、ミナの付き添い以外にない。
でも、それは言わない。
数値じゃないから。
数値で測れるものの外側に、ミナがいるから。
「ユリウス、リオ。第一宰相派の勅使との交渉、頼める?」
「法的な枠組みは私が組む」
「交渉の場づくりは俺の仕事だろ。任せろ」
「カイ。勅使の宿駅の状況、もう少し詳しく――」
声が出なくなった。
ミチカが口を動かす。音にならない。回復薬の効果が完全に切れている。
ミナが、ミチカの唇の動きを読んだ。
「……接触前に、周辺の動きを把握しておきたい、と」
「了解」
「レオン。領内の警備態勢を維持。監査団の先遣が動く可能性がある」
これはミナの代読ではなく、ミチカが最後の力を振り絞った声だった。ほとんど吐息だったが、レオンの耳には届いた。
「――承知しました」
「ノア。私の回復を――最優先に。でも――四日後に間に合わなくても――制度が動くように――」
言葉が、途切れた。
ミチカの目が閉じた。
意識が落ちたのだ。
「ミチカ様!」
ミナが叫び、ノアが脈を取った。
「……眠っただけだ。体力の限界を超えていた。当然の結果だ」
ノアの声は平静だったが、ミチカの手首を握る指がわずかに震えていた。
「……わかった。回復を最優先にする」
眠るミチカに向かって、ノアは静かにそう答えた。
指示を出し切って、力尽きた。
体は動かない。立てない。
でも、仕組みは立つ。
そう信じるしかない――その信念だけを残して、ミチカは意識を手放した。
―――
全員が動き出した後、ミナだけが残った。
ノアとともにミチカを寝室に戻し、布団をかけ直す。
ノアが退室する前に、一度だけ振り返って言った。
「……ストレス値の推移は、私が追う。だが――数値に出ない回復もある。そばにいてやってくれ」
ミナは頷いた。
しばらくして、ミチカが薄く目を開けた。
「ミチカ様、少し休んでください」
「うん……」
目を閉じかけて、ミチカは小さく呟いた。
「……ねえ、ミナ」
「はい」
「もし私がこのまま立てなかったら――この領はどうなると思う?」
ミナは少し考えて、答えた。
「……皆さんが、守ると思います。ミチカ様が作った仕組みを、皆さんが動かすと思います」
「……そっか」
「でも」
ミナが、ミチカの手をそっと握った。
「私は、ミチカ様に立ってほしいです。仕組みじゃなくて――ミチカ様に」
ミチカは目を開けて、ミナを見た。
何か言おうとして――言葉にならなくて――ただ、握り返した。
体力値十二の手で。
それが精一杯だった。
―――
翌朝。
カイが、勅使の宿駅から戻った。
その報告は――短く、そして重かった。
「勅使の宿駅に、先客の痕跡。馬の蹄鉄跡、二頭分。王都式の打ち方。宿帳に記録なし」
一度言葉を切り、続ける。
「宿の下男が証言。二日前の深夜、黒衣の使者が勅使と密会」
ユリウスの目が鋭くなった。
「……第二宰相派の密使か」
「断定はできない。だが蹄鉄の規格が、民間のものではない」
リオが眉を上げた。
「蹄鉄の規格って、そこまでわかるもんなのか?」
カイは一瞬だけ間を置いた。
「……以前の仕事で、覚えた」
それ以上は語らなかった。誰も、聞かなかった。
カイの「以前の仕事」が何であったか――この場の全員が、薄々察していた。
「蹄鉄の幅と釘の間隔から、王都中央厩舎の規格と一致する。官用馬だ」
全員の表情が、凍りついた。
第二宰相派が、先に動いていた。
第一宰相派の勅使に接触し――懐柔、あるいは脅迫を試みた可能性。
「……勅使が既に寝返っていたら、延期申請の切り札が消える」
リオが、初めて声を低くした。
「それだけじゃない。寝返った勅使が監査団側の証人として機能すれば、こちらの正当性が根こそぎ崩される」
ユリウスが吐き捨てるように言った。
かつて味方に使おうとした権威が、敵の武器に変わる。
最悪のシナリオだ。
寝室の向こうで、ミチカは目を閉じたまま――全てを聞いていた。
壁は、薄い。
このとき私はまだ知らなかった。第一宰相派の勅使が抱えている「本当の思惑」が、敵味方のどちらの想定をも超えるものだということを。




