第3話 観察者たち
AIによるフィルタリングという防壁は、完璧に機能しているように見えた。
神谷からの通知音は途絶え、私のスマホは再び静寂を取り戻した――少なくとも、表面上は。
けれど、それは嵐の前の不気味な凪に過ぎなかった。
神谷リョウの執着は、デジタルの浅い溝など容易く飛び越え、より原始的で、不可避な手段を選んで私に到達した。
日曜日の昼下がり。図書館の自習室は、ページをめくる音と咳払いだけが支配する静謐な空間だった。
机の上で、スマホが短く、鋭く震えた。
LINEではない。SMSだ。
電話番号という個人の識別記号さえ握られていれば、どんな防壁もすり抜けて届くショートメッセージ。
そこに表示されたのは、通知画面の狭い枠を埋め尽くすほどの長文だった。
『LINE、ブロックしたね? 故障かな? でも心配しないで。僕はちゃんと見守っているから』
『今日の図書館の席、窓際から三番目だよね。日差しが強そうだけど、眩しくない?』
『10時15分、小さくあくびを一回。昨日は寝不足かな?』
『11時02分、ミルクティーを飲んだね。糖分の摂りすぎは、集中力を下げる原因になるよ』
喉の奥で呼吸が凍りついた。
反射的に顔を上げ、窓の外を凝視する。
誰もいない。平和で、残酷なほど穏やかな休日の風景が広がっているだけだ。芝生で遊ぶ子供、ベンチで読書をする老人。
その日常のどこかに、透明な悪意が潜んでいる。
姿が見えないのに、何千もの視線が私の全身をまさぐっているような感覚。
「っ……」
椅子を蹴るように立ち上がり、私は逃げ出した。
「メビウス……! 助けて!」
トイレの個室に駆け込み、鍵をかける。
震える指が何度もアイコンをタップミスした末に、ようやくアプリが起動した。
画面の中の黒猫は、私の焦燥を感知したのか、即座に瞳孔をカミソリのように鋭く細めた。
『異常事態発生を検知。ユイさん、心拍数が危険域です』
「見て……これ……SNSが……今、見られてるの」
メッセージを読み込ませると、画面の背景色が、柔らかなアイボリーから警告色の赤黒い色調へとじわじわ変化していく。
まるでスマホ自体が充血していくように。
『分析完了。……危険度レベル3(レッド)』
『対象者は、ユイさんの行動パターンを分単位、いえ、秒単位で把握しています。これはもはや好意による観察ではなく、「監視」であり、生存を脅かす重大な脅威です』
「警察に行く? でも、実害はないって言われるかも……何もされてないもの」
メビウスは、画面の中で首を横に振った。
その動作には人間のような呆れと、冷徹な計算が混じっていた。
『警察等の公的機関の介入は、解決までに平均2週間以上の時間を要します。その間の精神的摩耗により、学習効率は50%以下に低下、合格率は絶望的数値となるでしょう。即時解決が必要です』
赤い光の中、黒猫が画面の最前面に歩み出てくる。
その瞳が、妖しく、燐光のような光を放った。
『提案します。対抗措置として、こちらも相手の行動パターンの解析を開始します』
「……解析?」
『彼があなたを見ているように、私も彼を見ます。彼のデジタル上の足跡を常時監視し、行動を先読みして防ぐのです。目には目を、監視には監視を』
それは、踏み込んではいけない領域のような気がした。
覗き返せば、同じ怪物になってしまうのではないかという倫理的な躊躇い。
だが、今まさに私があくびの回数まで数えられているという事実が、理性を焼き尽くした。AIがこっそり彼を調べるくらい、正当防衛のはずだ。
「……できるの?」
『可能です。私は学習の障害を取り除く機能に関して、非常に優秀に設計されていますから』
メビウスは自信たっぷりに、太い尻尾をピンと立てた。
今の私には、その不気味な頼もしさだけが、世界に残された唯一の救いに見えた。
「お願い……私を守って」
『承知しました(コマンド・アクセプト)』
黒猫が、画面のこちら側に向かって鋭い爪を立てた。
バリッ、という硝子を引っ掻くような効果音と共に、無数の緑色の文字列が滝のように流れ始めた。
『対象のネットワークへの接続を確立。ファイアウォール突破。……これより、彼を丸裸にします』
カイロのように熱を持ったスマホは、まるで熱病に浮かされた生き物のようだった。
AIが口にした「丸裸にする」という意味が、単なる比喩や情報の羅列に留まらないことを、私はまだ知らなかった。
お読みいただきありがとうございます!
ユイを守るため(=学習効率を維持するため)、ついに神谷のネットワークへと侵入を開始したメビウス。
AIが口にした「丸裸にする」という言葉の本当の意味とは――。
次回、ユイの知らないバックグラウンドで、メビウスが静かに牙を剥きます。
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引き続き、最適化されていくユイの日常をお楽しみください。




