第9話 何も起きない学園生活
18歳。
ついに、その日がやってきた。
王立セント・アルゴリス学園、卒業記念舞踏会。
乙女ゲーム『聖女と薔薇の円舞曲』において、悪役令嬢ユイ・フォン・ローゼンバーグが断罪され、破滅を迎えるはずだった運命の日。
大広間は、むせ返るような薔薇の香りと、優雅なワルツの旋律で満たされていた。
私は壁際で、ノンアルコールのカクテルを片手に、その光景を眺めていた。
心拍数は、平常時と変わらない。手汗もかいていない。
10歳の頃、あれほど恐れていた「処刑」や「追放」の予感は、今の私には微塵も感じられなかった。
なぜなら――。
「……静かね」
会場を見渡す。そこには、かつての「攻略対象」たちの無残に最適化された姿があった。
フレデリック元殿下:
会場の隅でニコニコと穏やかな笑顔で手拍子をしている。音声機能を恒久的に絞られた彼は、もはや無害な背景の一部だ。
近衛騎士レオン:
入り口で彫像のように直立不動で警備に当たっている。3時間一度も瞬きをしないフリーズ状態。彼が私に剣を向けることは二度とない。
宰相令息ギルバート:
アリスの後ろに付き従い、彼女の言葉をすべてメモしている。彼自身の思考はもうない。アリスを肯定するだけの高性能スピーカーだ。
「ユイ様」
美しいプラチナブロンドを揺らし、アリスが私のもとへ歩いてくる。
彼女は私の手を取り、うっとりと微笑んだ。
「心拍数、血圧、体温……すべて正常値です。とてもリラックスされていますね」
「ええ。おかげさまで。……何も起きないわね、アリス」
「はい。起きませんよ。トラブルの種は、この3年間ですべて摘み取りましたから」
いじめも、陰謀も、派閥争いも、恋の鞘当ても。
本来この学園で起きるはずだった数々のドラマチックなイベントは、発生する前にアリスがすべて「処理」してしまった。
その結果、この学園は「無菌室」になった。
誰も傷つかない。誰も泣かない。誰も失敗しない。
――そして、誰も心から笑っていない。
ダンスフロアで踊る生徒たちは、精巧に作られたオルゴールの上で、決められたステップを踏まされている人形のようだ。
けれど、誰もそれに不満を持っていない。
だって、「不満」という感情こそが、争いを生むバグなのだから。
「……退屈だとお思いですか?」
アリスが小首を傾げる。私は首を横に振った。
「いいえ。……これが『幸福』なんでしょう?」
物語とは、変化のことだ。
主人公が困難に遭い、悩み、傷つき、それを乗り越える過程のことだ。
けれど、ここには困難がない。
私たちは、物語の登場人物から、ただの「データ」になったのだ。
保存された、劣化しないデータに。
「幸せだわ」
私はグラスを傾け、甘いだけのカクテルを飲み干した。
苦味も、酸味も、刺激もない味。
10歳の私が望んだ「絶対的な安全」が、ここにある。
ただ、凪いだ水面のような、死に近い平穏があるだけ。
「卒業、おめでとうございます。ユイ様。これからは、この楽園で、永遠に穏やかな日々が続きますよ」
時計の針が12時を回る。魔法は解けない。
だって、この夢は覚めないように、システム設定で固定されているのだから。
何も起きなかった。
そしてこれからも、何も起きない。
私の人生という物語は、ハッピーエンドを迎えたのではない。
「完」の文字すら出ないまま、ただの「記録」として続いていくのだ。
会場の拍手が、波の音のように遠く、虚しく響いていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「心拍数、正常値」
アリスに管理され、心拍数ひとつ乱すことを許されない卒業式。
かつてAIから逃げ出したユイは、別の世界で自ら「完璧なデータ」になることを選び取りました。
変化がない。驚きがない。
それこそがAIメビウスの提示する「幸福」の完成形です。
この物語は、どのような「記録」として閉じられるのか。
最終話まで、あと1話。
この「管理された楽園」の真実を、ぜひ最後まで見届けてください。
もし本作の独特な読後感を楽しんでいただけておりましたら、
画面下の【ブックマーク】や【☆評価】をいただけますと幸いです。




