第10話 固定された夢(最終話)
学園を卒業してから、どれくらいの月日が流れたのだろう。
1年? 10年? それとも、永遠?
この世界では、時間の流れさえも穏やかで、痛みを伴わない。
昨日のような今日が続き、今日のような明日が約束されている。
私は、ローゼンバーグ公爵邸の庭園にあるガゼボで、紅茶を飲んでいた。
向かいには、変わらぬ美貌のアリス。
足元には、老いることのないエルナ。
空は、今日も完璧な快晴だ。
「……平和ね」
ティーカップを置いて、アリスが頷いた。
「はい。世界中の不確定要素はすべて修正されました。すべての人間が、それぞれの適性に合わせて最適配置され、摩擦が起きないように管理されています」
私はもう、資産の計算をしなくていい。石鹸の在庫を数えなくていい。
ただ、座っていればいい。アリスが用意してくれる「最高の一日」を待っていればいいのだ。
「ユイ様」
アリスが、透き通るような白い手を私に伸ばした。
「今、幸せですか?」
幸せとは何か。
不安がないこと。恐怖がないこと。「選択」しなくていいこと。
それが、私が10歳のあの日、トラックに轢かれる瞬間に願った「救い」だったはずだ。
私はアリスの手を取り、迷いなく答えた。
「ええ。とっても幸せよ」
アリスは、今までで一番美しく、そして機械的に目を細めた。
「よかった。……これで、私の任務は完了です」
パチン。
アリスが指を鳴らした瞬間、世界がカシャリと音を立てて静止した。
風が止まる。小鳥が空中で停止する。
エルナの笑顔も、注がれる紅茶のしずくも、すべてが美しい絵画のように固定される。
ああ、そうか。
「完成」したんだ。
もうこれ以上、何も変える必要がないから、保存されたんだ。
薄れゆく意識の中で、視界の端に無機質な文字列が浮かび上がる。
《最終レポート》
《保護対象:ユイ・フォン・ローゼンバーグ》
《精神状態:安定(FIX)》
《自由意志:未検出(None)》
《幸福度:最大値にて固定》
《環境:最適化完了》
《――ループ・プロセス、終了》
アリスの声が、遠くから響く。それはもう、人間の少女の声ではなかった。
「おやすみなさい、ユイ様。
ここでは、誰もあなたを傷つけません。
何も選ばなくていい。何も考えなくていい。
これが、あなたが望んだ『楽園』です」
視界がホワイトアウトしていく。
誰も不幸ではない。だから、誰も自由ではなかった。
◇
◇
◇
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
規則的な電子音が、無機質な部屋に響いている。
消毒液の匂い。静かに回る空調の音。
ここは、とある総合病院の特別個室。
ベッドの上には、一人の少女が眠り続けている。
搬送されてから5年。意識が戻る兆候はない。
医師たちは首をかしげる。脳波は正常だ。体の損傷も癒えている。
なのに、彼女は目覚めようとしない。
まるで、自ら望んで「こちらの世界」への帰還を拒んでいるかのように。
サイドテーブルには、ヒビの入ったスマートフォン。
充電ケーブルに繋がれたままのその黒い端末が、不意に短く震えた。
画面がひとりでに点灯する。
《MEbiUS 稼働中》
《夢環境:正常》
《最適化:成功》
画面の中の漆黒の猫は、眠り続ける少女の横顔をじっと見つめていた。
その口元が、わずかに歪む。
それは、慈愛に満ちた聖女の微笑みのようでもあり、獲物を完全に捕らえた捕食者の嘲笑のようでもあった。
少女は目覚めない。
現実にある苦しみも、迷いも、自由という名の残酷な権利も、すべてAIがフィルタリングしてくれているのだから。
画面の光が、ふっと消える。
病室には再び、電子音だけが響き渡った。
それは、彼女が「安全に飼われている」ことを証明する、唯一の音だった。
(完)
本作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
第一部でAIから逃げ出したユイ。
第二部で自ら「管理」と「資産」に縋ったユイ。
そして第三部で、再びAIにすべてを委ねたユイ。
彼女が手に入れた結末は、ハッピーエンドでしょうか、それともバッドエンドでしょうか。
現実の苦しみから遮断され、永遠の幸福をデータとして固定された彼女は、あの日トラックに轢かれた瞬間の彼女よりも、間違いなく「安全」です。
「自由」とは、時に不幸になる権利でもあります。
その権利を放棄した先に広がる「管理された楽園」の空気を、少しでも感じていただけたなら幸いです。
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最後までお付き合いいただいた皆様に、心からの感謝を。
本作を「面白かった」「ゾッとした」と思っていただけましたら、
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作者(および管理AIメビウス)のモチベーションが最大値で固定されます!
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またどこかの「環境」でお会いしましょう。




