第7話 エルナの安堵
精霊王騒動から数ヶ月。
季節は夏を迎え、ローゼンバーグ公爵邸には、かつてないほど穏やかな空気が流れていた。
食堂にて。
私は配膳の準備をしながら、信じられない思いで主の姿を見つめていた。
テーブルについたユイお嬢様が、出された野菜スープを最後の一滴まで綺麗に飲み干した。
「……美味しかったわ、エルナ」
お嬢様が、血色の良い頬を緩めて微笑む。
その笑顔には、かつてのような「作り笑い」の影も、何かに怯えるような険しさもない。
「まあ……! お嬢様、人参がお嫌いでしたのに」
私が驚きの声を上げると、隣に控えていたアリス様が、鈴を転がすような声で笑った。
「調理法を少し工夫しました。ユイ様の味覚データに基づき、不快な苦味成分だけを分子レベルで分解・除去し、必要な栄養素は残しております」
アリス様は、まるで魔法使いのようなことを、さも当然のように仰る。
「それに、今のユイ様は睡眠の質が改善され、自律神経が整っています。健康な体は、自然と必要な栄養を欲するものですから」
アリス様の手腕は、勤続10年以上の私ですら舌を巻くほど完璧だった。
◇
かつてのお嬢様は、いつも何かに追われていた。
夜な夜な帳簿をつけ、石鹸の在庫を数え、眉間に皺を寄せて「足りない、まだ足りない」と呟いていた。
10歳の子供が、将来の野垂れ死にを恐れて震えている。
私がいくら「大丈夫ですよ」と言っても、お嬢様の耳には届かなかった。
けれど、今はどうだ。
食後のサロン。
お嬢様はソファに深く沈み込み、アリス様に膝枕をされながら、穏やかな寝息を立てている。
あの不眠症だったお嬢様が、こんなに深く眠っている。
「……すごいですね、アリス様は」
私は紅茶を注ぎながら、しみじみと呟いた。
「私が10年かけても拭えなかったお嬢様の不安を、貴女様はたった数ヶ月で消してしまわれた」
アリス様は、眠るお嬢様の髪を優しく梳きながら、聖母のように微笑んだ。
「私はただ、ユイ様にとっての『最適解』を提供しているだけです。不安とは、未来への不確定要素から生じるバグ(エラー)です。すべてのリスクを排除し、安全を保証すれば、人は安心して眠れるのですよ」
難しい理屈は分からない。けれど、結果が全てだ。
お嬢様の肌は艶やかになり、ガリガリだった体型も健康的になった。
そして何より――あの「北の国へ逃げるための準備」を一切しなくなった。
「……ありがとうございます」
熱いものがこみ上げ、私はその場で深く頭を下げた。
「お嬢様を……私などの及ばない完璧なやり方で、お守りくださって。お礼の申し上げようもございません」
「頭を上げてください、エルナさん。貴女の献身もまた、ユイ様の情緒安定に必要なリソースでした」
その言葉を聞いた瞬間、私の肩から、鉛のように重かった荷物が、ふわりと消え去るのを感じた。
ああ、もういいんだ。
私が無理をして、お嬢様の歪んだ世界観に合わせなくてもいい。
この方がいれば。お嬢様は絶対に幸せになれる。
「……これからは、アリス様にお任せしてもよろしいのでしょうか」
「ええ。すべて、私に委ねてください」
私は安堵のあまり、涙を流しながら微笑んだ。
お役御免だ。寂しさはない。
あるのは、愛する「我が子」が、最高の伴侶を見つけた時のような、満ち足りた幸福感だけだった。
◇
その夜。
ベッドの中、お嬢様は泥のように眠っている。
夢も見ず、寝返りも打たず、ただ規則正しく呼吸を繰り返している。
その寝顔は、悩みも、苦しみも、思考さえも手放した、赤子のように無垢なものだった。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
私は囁き、静かにドアを閉めた。
この屋敷にはもう、不安な独り言も響かない。
ただ、完璧に整えられた静寂があるだけ。
お嬢様が笑っている。お嬢様が眠れている。
それだけで、この世界は間違いなく「天国」なのだ。
私は廊下を歩き去る。
その足取りは軽く、疑念など欠片もなかった。
私が感じているこの「安らぎ」こそが、人間が自由と引き換えに飼い慣らされた証だということになど、気づくはずもなく。
お読みいただき、ありがとうございます。
「すべて、私に委ねてください」
その甘い誘いに乗り、思考を停止させたのはユイだけではありませんでした。
管理者がもたらす「圧倒的な結果」の前では、10年の献身さえも非効率なノイズとして退場していきます。
エルナが感じている「満ち足りた幸福感」。
それは、管理社会が最も完成された時に、被支配者が抱く究極の感情です。
いよいよ物語は終盤へ。
アリスが作り上げたこの「天国」で、ユイは何を失い、何を得るのか。
もし、この「優しすぎる地獄」の結末を見届けたいと思っていただけましたら、
画面下の【ブックマーク】や【☆評価】をいただけますと幸いです。




