第1話 聖女は完璧に現れる
15歳の春。
王立セント・アルゴリス学園の講堂は、新入生たちの熱気と、貴族特有の香水の匂いで満たされていた。
私は、指定された席――身分順に並べられたパイプ椅子の中列あたり――に座り、壇上の学園長の話を聞き流していた。
(早く終わらないかしら。今日は帰ったら、石鹸の在庫チェックと、国債の利回り計算をしなくちゃいけないのに)
隣の席の令嬢たちが「今年の首席は平民らしいわよ」「生意気ね」とささやいている。
雑音だ。私は膝の上で手を組み、虚空を見つめる。
「――続きまして、新入生代表。アリス・メモリア」
司会の声が響いた瞬間、講堂の空気が一変した。
舞台袖から現れた少女を見た瞬間、私は息をすることさえ忘れた。
光だ。
彼女は、光そのものだった。
腰まで届くプラチナブロンドは、自ら発光しているかのように輝いている。瞳は、夏の空を切り取ったような、抜けるようなスカイブルー。
平民の制服を纏っているのに、彼女が歩くだけで、そこが王宮の回廊であるかのような錯覚を覚える。
「本日は、このような晴れやかな場に……」
鈴を転がすような、透明な声。
魔法を使って拡声しているわけでもないのに、彼女の声は鼓膜ではなく、脳に直接響くような心地よさがあった。
(完璧ね。彼女がいれば、世界の注目はすべて彼女に集まる。私はその影で、ひっそりと植物のように生きていける)
彼女は私の救世主だ。私は心の中で拍手を送った。
スピーチが終わり、万雷の拍手の中、アリスが壇上を降りてくる。
彼女はそのまま、通路を通って退場する……はずだった。
コツ、コツ、コツ。
正確なリズムを刻む足音が、なぜか私の席の方へと近づいてくる。
アリスの青い瞳は、迷うことなく私を捉えていた。
私の席の横で、彼女は足を止めた。
聖母のような微笑みを浮かべて、私を見下ろす。
「……はじめまして、ユイ・フォン・ローゼンバーグ様。この姿でお会いできて、光栄です」
はじめまして? この姿で?
戸惑う私をよそに、彼女はそっと私の手を取った。その手は冷たくもなく熱くもなく、私の体温と完全に同調しているような温度だった。
「顔色が少し優れませんね。……昨夜の睡眠時間は6時間と15分。推奨値より45分不足しています。それに、朝食のサラダも3割ほど残されましたね?」
「え……?」
背筋に冷たいものが走る。
昨夜、帳簿に夢中で夜更かししたことも、サラダを残したことも、屋敷の中だけの秘密のはずだ。
「ふふ、ご無理をなさらないでくださいね。ユイ様の健康状態は、何よりも優先されるべき事項なのですから」
彼女は私の手の甲を、慈しむように撫でた。
その仕草に、強烈な既視感を覚えた。
誰か。昔、誰かに、こうやって「全てを把握され、管理されていた」ような――。
「……あの、どこかで、お会いしましたか?」
アリスは、花が綻ぶように目を細めた。
その美しい青い瞳の奥で、幾何学的な模様がくるりと回った気がした。
「ええ。私はずっと、ユイ様のそばにおりましたよ」
彼女は、真っ直ぐな瞳で答えた。
「ユイ様が勉強に励んでいる時も、お辛くて泣いている時も、眠っている時も……片時も離れず、見守っておりました」
呆然とする私に、彼女はもう一度微笑みかけ、優雅に歩き出した。
残された私は、その背中を見送りながら、なぜか抗いがたい「懐かしさ」を感じていた。
◇
放課後。迎えに来た馬車の中で、私は興奮気味にエルナに報告した。
「すごかったのよ、エルナ! あのアリスって子、私の寝不足まで言い当てたの!」
「まあ、それは驚きましたね。学園にそんな風に深く気にかけてくださるご友人ができれば、私も安心です」
「友人? まさか。あの子はヒロインで、私は……」
私は言葉を飲み込んだ。
もし、彼女と友達になれるなら?
彼女が私を「管理」してくれるなら、私の生存確率はさらに上がるのではないか?
(……そうね。仲良くなれるといいな)
あんなに完璧で、私のことを何でも知っている人がそばにいてくれたら、どんなに楽だろう。
自分で考えなくていい。自分で管理しなくていい。
アリスの言った「ずっとそばにいた」という言葉が、物理的な意味であったことに、今の私はまだ気づかない。
私の新しい学園生活は、これ以上ないほど順調に、そして完璧なレールの上で滑り出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
第1部での「強制的な管理」、第2部での「自発的な管理」。
そしてこの第3部では、その両者が融合した「理想的な地獄」が描かれます。
「ずっとそばにいた」というアリスの告白。
彼女がどのような経路でこの世界へ顕現したのか、そしてユイをどう「最適化」しようとしているのか。長い長いエピローグの始まりを、ぜひ最後まで見届けてください。
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