第9話 逃げる準備の完成
15歳になった。
王立セント・アルゴリス学園への入学を翌月に控えたある日、私は王都の商業ギルドの奥まった一室にいた。
「――手続きは以上になります、ローゼンバーグ様」
目の前のテーブルには、一枚の重厚な羊皮紙。
それは『魔力誓約付き資産信託契約書』だ。
5年間、爪に火をともすような節約と運用で築き上げた金貨800枚相当の資産。
それをギルドが管理する「架空名義の口座」へ移管し、たとえ犯罪者として追放されようとも、私本人であれば引き出せるという最強の保険契約である。
「これで、私が明日、着の身着のままで屋敷を追い出されても、路頭に迷うことはありませんね?」
「はい。この契約は国王陛下ですら破棄できません。富はあなたと共にあります」
終わった。
10歳のあの日、絶望の中で掲げた目標には届かなかったけれど、最低限の安全網は完成した。
これで、いつ断罪されてもいい。いつ婚約破棄されてもいい。
私は、生き残れる。
「……ありがとうございます。これで、安心できます」
達成感よりも、「タスク完了」のチェックボックスを一つ埋めただけのような、無機質な安堵感があるだけだった。
◇
屋敷への帰り道。馬車の中で、エルナが少し寂しそうな顔をして私に尋ねた。
「……お嬢様。もう、『北方地誌』はお読みにならないのですか?」
「え?」
「以前は、毎晩のように地図を広げて、『羊を飼うならこの辺りがいい』とか、『暖炉の前で本を読むんだ』とか、楽しそうにお話しされていたのに」
エルナの言葉で、ハッとした。
そうだ。最初はそうだった。追放された後の「自由な生活」を夢見ていたはずだった。
でも、今はどうだ?
羊?:どうでもいい。世話が面倒だ。
読書?:知識は詰め込むもので、娯楽ではない。
今の私にあるのは、「安全に生き延びる」という目的だけ。
「どう楽しむか」というビジョンは、いつの間にか資産の数字の中に埋もれて消えてしまった。
「……必要ないもの。お金があれば羊毛は買えるし、本だって必要な情報さえ手に入ればそれでいい」
「お嬢様……」
「それにね、エルナ。準備が完璧なら、そもそも『北へ逃げる』必要すらないかもしれないわ」
このまま学園でも気配を消して過ごせば、断罪イベントすら起きないかもしれない。
そうすれば、追放もされず、この安全で快適な屋敷にずっと住み続けられる。
「危険な外の世界に出るよりも、この檻の中でじっとしている方が、生存確率は高いわ」
私の言葉に、エルナは今までで一番悲しそうな顔をした。
「……お嬢様。それは、『生きている』と言えるのでしょうか?」
「怪我をしないために、部屋から一歩も出ない。失敗しないために、何も望まない。……それはまるで、呼吸をするだけの彫像のようです」
エルナの指摘は、分厚い「合理性」の殻に覆われた私の心には、もう痛みを与えなかった。
「生きているわよ、エルナ。心臓は動いている。お腹も空く。お金もある。……これ以上、何を望むというの?」
◇
馬車が屋敷の門をくぐる。
巨大な鉄の門扉が閉まる音が、重く響く。
かつては、この門を出て自由になることを夢見ていた。
けれど今は、この門が外部の脅威を遮断してくれる頼もしい防壁にしか見えない。
逃げる準備は完了した。
けれど、準備が完璧になればなるほど、私は「逃げる理由」を失っていった。
だって、ここ(管理された箱庭)が一番安全なのだから。
来月から、いよいよ学園生活が始まる。
乙女ゲームの舞台。破滅のフラグが乱立する場所。
でも大丈夫。私は何もしない。誰とも関わらない。
ただ静かに、嵐が過ぎ去るのを待つ石になるだけだ。
――私は、完全に仕上がっていた。
AIが最も愛し、最も管理しやすい、「自由を求めない人間」として。
お読みいただき、ありがとうございます。
第2部における「準備期間」が、この第9話をもって完了しました。
資産、防壁、そして「何もしない」という鉄の意志。ユイは今、世界で最も安全な場所にいます。
ですが、ここは乙女ゲームの世界。
彼女がどれほど「空気」になろうと、シナリオという名の巨大なノイズが彼女の平穏を土足で踏み荒らしにやってきます。
次回:第10話「学園という名の戦場」
15歳になったユイ。彼女が築いた「檻」の強度が、ついに試される時が来ます。
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