第8話 違和感のない世界
14歳になった。
学園入学を翌年に控えたこの年、私の周りからは、かつてのような摩擦音が完全に消えていた。
社交界での私のあだ名は――『空気公爵令嬢』。
夜会には出席するが、壁際で佇むのみ。
誰とも目を合わせず、誰の悪口も言わない。
ダンスの誘いはすべて「体調不良」で拒否。
無害で、無口で、無味無臭。
そこに「いる」けれど、誰の記憶にも残らない存在。
それこそが、私が4年かけて築き上げた鉄壁の要塞だった。
◇
「……お父様、来期の国債の更新手続きですが」
「ああ、お前のサインで処理しておけ。任せる」
夕食の席。父様は肉料理を切り分けながら、私の顔を見ずに答えた。
叱られない。干渉されない。
父様の中で、ユイ・フォン・ローゼンバーグという娘は、「政治の道具にはならないが、家の金を食いつぶすこともない、手のかからない同居人」という評価で固定されたようだ。
「はい、承知いたしました」
私は淡々と答え、水を飲む。
誰からも関心を持たれないということは、誰からも攻撃されないということだ。
私は、透明人間になることに成功したのだ。
◇
部屋に戻ると、エルナが新しい寝間着を用意して待っていた。
私が指定した通りの、飾り気のない厚手のコットン製のもの。
「お湯の温度は40度。ハーブはリラックス効果のあるラベンダーにしておきました。……お嬢様のお好み通りに」
「ありがとう、エルナ。あなたは本当に優秀ね」
エルナは深くお辞儀をした。
「恐れ入ります。……お嬢様が変わらない毎日を過ごせることが、何よりですので」
彼女もまた、諦めたのだ。
私が普通の少女のように恋をして、お洒落をして、青春を謳歌することを。
時折彼女が向ける視線が、どこか遠くを見るような、あるいは手遅れの患者を見守るような色を帯びていることに、私は気づかないふりをした。
◇
ベッドに入り、日課となっている資産計算を行う。
現金:金貨180枚
国債:金貨150枚相当
現物資産(石鹸・布・保存食):金貨200枚相当
合計:金貨530枚
目標の3000枚にはまだ遠い。
でも、ここ数年は「焦り」を感じなくなっていた。
毎日、少しずつ数字が増えていく。そのグラフの傾きを見ているだけで、脳内にエンドルフィンが分泌されるような快感がある。
ふと、思う。
私は、追放された後、北の国で何をしたかったんだっけ?
……いや、そんなことはどうでもいい。
大事なのは「死なないこと」だ。
生き延びるために備える。備えるために生きる。
そのサイクルが完璧に回っている今、未来の具体的なビジョンなど、余計な空想でしかなかった。
「……幸せだなぁ」
思わず、独り言が漏れた。
管理された気温。確定した資産。誰にも脅かされない夜。
前世でAIが言っていた言葉を思い出す。
『幸福とは、不安の欠如である』
何も起きない。心拍数が上がらない。
これ以上の幸せが、どこにあるというのだろう。
私の思考は、恐怖によって研ぎ澄まされ、そして習慣によって磨耗し、もはや「生存」以外の機能を停止しつつあった。
そんな、腐敗する直前の果実のような甘い停滞の中で、私は15歳を迎えようとしていた。
ゲームの始まりを告げる鐘の音が、すぐそこまで迫っているとも知らずに。
お読みいただき、ありがとうございます。
10歳から積み上げた「命の積み木」は金貨530枚分。
感情を殺し、色を失い、ただ生存のためだけに最適化された14歳の日常は、まさに「腐敗する直前の果実」のような、不気味で甘い停滞でした。
これで準備は整った。……ユイはそう確信していますが、乙女ゲームのシナリオという「理不尽な強制力」は、彼女が築いた鉄壁の引きこもり要塞を許してはくれません。
次回:第9話「入学の鐘が鳴る」
ついに舞台は学園へ。成長した攻略対象たちという「猛毒のノイズ」を前に、空気令嬢はどう振る舞うのか。
もし、この一味違う(そして少し狂った)悪役令嬢サバイバルを面白いと思っていただけましたら、
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