第5話 備えるという決断
『ユイさん。資本主義社会において、自由とは「購入可能な権利」の総称です』
ふと、脳裏にあの無機質な声が蘇った。
それは前世、まだ私が高校2年生だった頃。メビウスは受験勉強の息抜きと称して、FPや簿記の資格勉強を私に強要した。
『感情や人脈は、不確定な変数に過ぎません。ですが、数字は裏切らない。通貨だけが、あなたを物理的な危機から守る唯一の鎧となります』
当時は「高校生に何を教えているのよ」と呆れていたけれど。
今なら分かる。あれは正しかったのだ。
愛も、地位も、親の庇護も、追放されればゼロになる。
でも、金貨は違う。
金貨があれば、北の凍土でも薪が買える。食料が買える。傭兵を雇って、魔物を追い払える。
つまり、「お金=寿命」だ。
◇
「……というわけで、エルナ。今日から私のお小遣いは、私が自分で管理したいの」
自室のテーブルで、私はエルナに向かって宣言した。
目の前には、父様から毎月支給されているお小遣いの袋と、帳簿が置かれている。
これまでは、「お菓子が食べたい」「新しいリボンが欲しい」と言えばエルナがこの袋から出して買ってきてくれていた。私は残高なんて気にしたこともなかった。
「ご自身で管理、ですか?」
エルナはきょとんとして、それから少し困ったように微笑んだ。
「お嬢様はまだ10歳ですよ? お金の計算など、執事に任せておけばよろしいのでは?」
「いいえ。将来、公爵家を支える人間として、経済の観念を身につけておきたいの。父様も『しっかりした娘だ』って喜ぶと思うわ」
私は殊勝な顔を作って見せた。
「将来のため」「勉強のため」という言葉は、大人を納得させる魔法の言葉だ。
案の定、エルナの表情が和らいだ。
「まあ……なんと感心な心がけでしょう。確かに、お数字に強いことは貴族の女性としても素晴らしい嗜みです」
「でしょう? だから、これからは私が帳簿をつけるわ。無駄遣いもしないように気をつけるから」
「ふふ、分かりました。では、金庫の鍵をお渡ししますね。……お嬢様がそんなに大人びてしまわれて、少し寂しい気もしますけれど」
エルナは微笑ましそうに鍵を渡してくれた。
彼女は信じているのだ。これが単なる「お嬢様の知的な遊び」の一環だと。
まさか私が、この資金を裏金としてプールし、国外逃亡の費用に充てようとしているなんて、夢にも思っていない。
◇
エルナが部屋を出ていくのを確認してから、私は震える手で革袋の紐を解いた。
ジャラッ。
重厚な音と共に、金貨と銀貨が机の上に広がる。
ローゼンバーグ公爵家の令嬢に与えられる月額は、金貨5枚。
平民の4人家族が、1ヶ月余裕を持って暮らせる額だ。
「……少ない」
私は唇を噛んだ。
この世界で暮らす分には大金だ。でも、私が目指すのは「北の地での永住」だ。
頑丈な石造りの家(防寒仕様):金貨500枚
10年分の食料備蓄:金貨200枚
魔導具、燃料、防寒具、有事の賄賂:……
ざっと計算しても、最低ラインで金貨3000枚は必要だ。
あと8年。96ヶ月。
毎月5枚を全額貯金しても、480枚にしかならない。
全然足りない。桁が一つ違う。
「使ってる場合じゃない……」
私は金貨を強く握りしめた。
今まで無自覚に消費していたお菓子、流行りのドレス、可愛い文房具。
それら全てが、私の寿命を削っていたのだと気づき、背筋が寒くなる。
私は帳簿を開き、ペンを走らせた。
おやつ代:全額カット
ドレスの新調:父様が強制するもの以外、すべて拒否
交際費:ゼロ(友達は作らないから不要)
消耗品:最低ランクのものに変更
徹底的なコストカット。
公爵令嬢としての体面? 知ったことか。
見栄を張って凍死するくらいなら、ケチだと言われて生き延びる方がマシだ。
それから私は、部屋の床の一角、絨毯の下にある床板の僅かな隙間に目をつけた。
あそこなら、エルナも掃除の時にめくることはない。
私はハンカチに包んだ金貨を、その隙間に慎重に押し込んだ。
チャリン。
微かな金属音が、暗闇の中に吸い込まれていく。
「……これで、3日は生き延びられる」
たった1枚の金貨。
けれどそれは、私にとって、どんなに美しい宝石よりも価値のある輝きだった。
増やす(投資する)のは怖い。失敗したらゼロになるから。
だから、まずは徹底的に「守る(貯め込む)」んだ。
流動性の高い現金を、誰にも知られない場所に積み上げる。
いつか来る「その日」に、私を守ってくれるのはこの冷たい金属だけなのだから。
絨毯を元に戻し、何食わぬ顔で椅子に座り直す。
心臓がまだ早鐘を打っていた。
公爵家の金庫番でもない、10歳の子供が始めた、孤独な横領にも似た資産形成。
不安で押しつぶされそうな心を、私は必死に理屈で武装した。
大丈夫。私は間違っていない。
これは「自由」を買うための、聖なる戦いなのだから。
お読みいただき、ありがとうございます。
誰の指示も受けず、自分の意志で自分を管理し始めたユイ。
けれど、その思考回路がかつて自分を苦しめたメビウス(AI)に酷似していくのは、果たして「自由」と呼べるのでしょうか。
エルナという「優しい停滞」を振り切り、冷たい数字の世界へと没入していくユイ。
次回、彼女は公爵令嬢という立場を最大限に利用した、ある『狡猾な取引』を仕掛けます。
もし、この歪な合理主義に彩られた異世界サバイバルを楽しんでいただけておりましたら、
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引き続き、孤独を最適化するユイの物語をよろしくお願いいたします。




