21歩目 もういない人のこと
サクラは夢を見ていた。まだ研究所でハカセと一緒に暮らしていた頃、風邪をひいて寝込んだ日の夢だ。
夢を見ている場合じゃない。やらなければならないことがある。そう思っているのだが考えがまとまらず、やるべきことが思い出せない。
「サクラ? 眠らないとダメよ」
ハカセがサクラの頭を撫でる。ひんやりとした指が髪を掻き分け、熱を持った額に触れた。ハカセが眉を寄せ、濡れたタオルを代えてくれる。ぬるくなっていたタオルが額から離れ、ハカセの手も離れていった。冷たいハカセの手を気持ち良く思っていたので、サクラは不満だった。
「眠れないの」
「眠らなければ体力が回復しないわ。熱も上がっているし、免疫系を働かせるためには十分な休息が必要なの」
「でも、眠くないよ」
「暑いからかしらね。ほら、冷たいタオルよ」
額に乗せられたタオルは水が絞り切れていなくて重かった。それでも確かに冷たく、サクラはほっと息を吐いた。
「ねえハカセ、眠くなるまでお話しして」
「そうねえ。それじゃあ大量出血時の応急処置について……」
「そういうのじゃない。授業はやだ」
「必要なことなのだけれど……じゃあ、また今度ね。サクラはどんな話が聞きたいの?」
「なんでも……あ、そうだ」
サクラはハカセの顔を見た。あちこちに跳ねる茶色い髪、メガネの奥の目も同じ色だ。自分と全く似ていない、けれど確かに自分を育ててくれている親に向かって聞いた。
「私の名前、なんでサクラって名前にしたの?」
「ああ、名前の由来。話していなかったかしら」
サクラはこくりと頷いた。研究所のアーカイブを漁っていた時、親は願いを込めて子供の名前を付けるものだという記述を見かけたのだ。それから自分の名前に込められた意味が気になっていた。
「桜という花があるの。そこから取ったのよ」
「お花の名前なんだ。どんなお花?」
「正確には樹木なのだけれど。薄紅色で花弁が5枚ある花を咲かせる木なのよ。春の始まりに咲くの」
「きれいなの?」
「ええ、とっても。私も実物を見たことは無いけれど、大勢で集まって桜を鑑賞する『お花見』という行事の記録が残っているわ。だから、きっと綺麗だったのでしょう」
「……いいな」
「何がいいと感じたの?」
「桜は、そこにあるだけで皆を幸せにできるから」
「そうね。確かにそういう側面があるかもしれない」
「……だからいいなって。誰かを幸せにできるのは、きっと幸せなことだから」
ハカセの顔を見上げる。目元の隈は相変わらず、けれど以前より少し痩せた気がする。サクラはハカセの老いを感じていた。見た目こそ若々しい女性で言動もしっかりしている。それでもハカセの寿命が近づいていることを、当時8歳だったサクラは敏感に感じ取っていた。
死に向かうハカセに何もしてあげられない自分が不甲斐無くて、ハカセの身体を治せないか研究所のデータを不眠で漁っていたら風邪をひいてしまった。体調の悪化も相まってネガティブな思考に陥るサクラは、植物相手に羨望を抱いていたのだ。
「あら、じゃあサクラも同じね」
「え?」
くすり、とハカセが笑った。
「サクラがいてくれたから、私は幸せになれたのよ」
サクラにはハカセの真意が分からなかった。けれど、ハカセがあんまりにも幸せそうに笑うから、その言葉が嘘ではないと分かった。
「そうなんだ」
「ええ。そうよ」
「だったら、私が手を握ってあげたら、ハカセはもっと幸せになれる?」
「もちろん。サクラが眠るまででいいから、手を握っていてくれる?」
「……うん」
延ばされたハカセの手をサクラが握る。枯れ枝みたいに細くて冷たい手だった。それでも、サクラが大好きで安心する手だった。
「ねえハカセ、もっと桜のお話して」
「うーん、そうねえ。サクラ好みのファンタジーな話だと、桜の下には死体が埋まっているという怪談があるの。桜の花は人の血を吸っているから美しいんですって。人間の血液を美しさの源とする思想はいくつかあって、過去には血を浴びて若さと美しさを保とうとした貴族が……あら。サクラ、もう眠いの? 眠るなら手を……サクラ?」
サクラは布団を頭から被った。ハカセのセンスがおかしいのはいつものことだ。手を放さないサクラにハカセが困惑しているが、知らないとばかりに両手で握った。ハカセは相変わらず優しく呼びかけてくるが、眠るまでこの手を解放してやるつもりはなかった。
「サクラ?」
「ねえ聞いている? もう寝てしまったの?」
「サクラ……」
「サクラ様……」
「サクラ様! 目を覚ましてください!」
サクラは目を開けた。目に映るのは薄暗い地下空間、コンクリートで出来た壁と天井、あたりに舞い散る埃。瓦礫で出来たベッドは硬くて寝心地が悪い。それに、聞こえてくるのはハカセの優しい声ではなく、大音量の電子音声だった。
「意識が戻ったのですね! すぐに応急手当を!」
頭上でコスモスが叫んでいる。サクラはぼんやりと現状を思い出した。ここは『国』の地下区画で、自分はアクビィの攻撃によって負傷していること。怪我の状況は……かなり重傷だということ。
それから、ハカセはもういないこと。風邪をひいても看病をしてくれないし、危険な時にも助けてくれない。生きて旅を続けたければ、自分でどうにかするしかないことを思い出した。サクラの目から一粒だけ涙が零れた。
「幸い止血ジェルが手元に転がっています。右手方向20cmです! 手を伸ばしてください!」
「コスモスが……やってくれたらいいのに……」
「ワタシには自立稼働できるボディがありません。サクラ様に動いてもらわなければ!」
「……分かってる。コスモスは……ハカセじゃないもんね」
鉄の手袋でも嵌めているみたいに重たい手を動かす。たった20cm動かすのに気力を振り絞る必要があった。
右手に触れたチューブを握る。表面にはそっけなく『止血』とだけ書かれたチューブだ。サクラが生まれた研究所を旅立つときに持ってきた貴重品だった。止血剤と痛み止め、それからナノマシンが配合されている。患部に塗るだけで止血や感染症防止、破壊された体組織の治療まで行ってくれる優れモノだった。
「奇跡的に内臓は無事です。止血ジェルを塗布し終えたら鉄筋の除去に入ってください」
「簡単に……言う、けどさ……」
チューブ内のジェルを全て絞り出して脇腹に塗り付ける。そこは鉄筋が肉を貫通しており、触れるだけで焼けるような痛みが走った。出血は続いているが、鉄筋が破れた血管に蓋をしている状態だ。おかげで今すぐ出血多量で死ぬことは無い。精々意識が朦朧として手足に力が入らないくらいだ。
だが、ジェルによる止血が終わった後は、ナノマシンの治療効果を発揮させるために異物を取り除かなければならない。それはつまり、自分で腹に突き立った鉄筋を抜くということだ。ジェルを塗り終わり止血効果が表れるまで待つ時間は、サクラが覚悟を決めるための時間でもあった。
「舌を噛まないよう、何かを噛みしめてください」
「噛みしめる、物って……」
サクラは首だけ回して周囲を見るが、ハンカチやタオルは近くに落ちていない。まさかコンクリート片を咥える訳にはいかないだろう。
「しょうがない。他にないから……我慢してよね」
「はい。問題ありません」
サクラは頭上に落ちていたコスモスを拾い、口元に寄せる。ウサギのぬいぐるみの右手を噛みしめ、「ひふよ」と言ってから鉄筋を握った。
「ん、ふぐぅっ……!」
押し殺した悲鳴が上がる。鉄筋を抜き始めると、神経に鑢でもかけられたかのような痛みが走った。重くて動かせないと思っていた体が勝手に跳ねる。これでもジェルには鎮痛効果があるのだ。だから少しはマシな痛みであるはずだ。サクラは何度も自分に言い聞かせた。
「ぐ、うぅぅぅぅぅ……!」
サクラの主観では何分にも及んだが、実際には数秒で鉄骨を抜くことができた。サクラは動く気力もなく、鉄筋を側に落として呆然と天井を見上げていた。先ほどとは違った理由で涙が零れる。
「ひっ、うぐ……終わった……よ」
「出血も予想の範囲内です。止血ジェルは問題なく機能しています。では、次は造血剤を摂取してください。3m先です」
「も……むり……ちょっとだけ、休……。………………」
「寝てはいけません! サクラ様! 意識を保って動いてください!」
「…………うぅ、鬼……悪魔……」
「何と称しても構いません。今意識を失っては死に至ります。さあ早く!」
「むり……いっぱい褒めてくれなきゃ動けない……」
「サクラ様ならばやり遂げられます! 姿勢を変えられて偉い! まるでワーム型ドローンのような力強さです! さあ右手のあとは左手を出すのです! 良いですよ10cm進みました! これは小さくも偉大な一歩と言えるでしょう!」
コスモスの間抜けな声援で、少しだけ力が出た。コスモスが評したように芋虫みたいに這いずり、散らばった荷物の元へ進む。途中2度か3度気絶しかけてはコスモスの叱責で意識を取り戻し、造血剤まで辿り着いた頃には息も絶え絶えになっていた。
瓶の蓋を開けるのにも苦労しながらカプセルを取り出す。喉が張り付くように乾いていて、飲み込むのに随分苦労した。小さなカプセルを嚥下したサクラはそのまま地面に頭を預け、息を整える。最低限の応急手当はした。あとは安全な場所に隠れなければならない。アクビィが追撃に来たら、今のサクラでは逃げることも出来ずに殺されてしまう。
あと一呼吸分だけ休んだら移動しよう。サクラがそう考えていると、視界がぐるぐると回り始める。限界だ。コスモスが呼びかける声を聴きながら、サクラは再び意識を失った。




