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側にいて 〜内気な超能力少年の失踪と、つながる想いの物語〜  作者: マサザヤカ


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第8章 誰かの声

第8章 誰かの声


 蓬は、母親が入れた熱いお茶を前に、一人決意を固めていた。


———— 荒波が戻らないまま季節が変わってしまう。あの頃上着はいらなかったのに、もうそれでは寒い。

 爆発で壊れ残った建物にも、変わり目が訪れるそうだ。近々きれいに取り去られることになったという小さなニュースを、父が職場から持ち帰った。

 幼い頃から荒波と見てきた道の景色が、違うものになってしまうのだ。

 トタン板製の塀で部分的に囲われた他人の家。それは小さな古い平家で、台所は道に面した位置にあった。

 柄入りのガラス越しに見える食器用洗剤や食用油。私は、その道を通る時にはいつもなんとなく見ていて、住人の乱雑さと律儀さを想像していた。

 爆発は、一人暮らしのその住人が、急な入院での留守中に起こった事らしい。原因も推定されている。

 住人は日常的にパンを焼いていて、小麦粉の大袋を棚に常備していたそうだ。そして秋の晴天続きで乾燥した室内に、小麦粉が舞った。おそらく、封が不完全だった袋をネズミが棚から落としたのだ。そして次もネズミ。暴れて静電気スパークを起こしたか、コンセントに何かをしたかで、粉塵爆発となったのだろうというものだ。

 ちなみにこんなにもネズミが疑われているのは、入院中の住人の話と、現場の糞のためだそうだ。

 そのネズミはどうなったのだろう。死骸は見つかっていないようだから、運があれば今頃荒波と同じ所にいるかもしれない。そんな事を考えても仕方がないけれど。

 とにかく住人は、退院後は親類の家の近くへ引っ越す事にしたのだとか。荒波の事で、この町に住み続けることが気不味いのかと父が話ていた。

 それで私は、取り壊しの前に見に行くことにした。

 事故の後一度も近づかなかったけれど、今は行かなければと焦る気持ちになっている。行って何をしようと言う訳でもない。気が済まないというだけだ。

 明日は特別日課で、授業は昼までだから、丁度いいと思った。


 何となく、親に知られたくなかった。だから朝、私はいつも通りの荷物を持って家を出た。

 体育の授業は無く、部活も休むつもりだから本当はジャージはいらないのだけれど。それで通常よりは早く帰宅できるだろうから、問題は無い筈なのだ。

 朝から嘘をつくような事をしてしまった。こんな事は初めてかもしれない。だから私は授業も休み時間も上の空だった。

 そして放課後になり、部活の顧問に会いに職員室へと急ぐ。いつもと違う行動だ。これだけでも悪いことをしている気分だった。

「先生。すみません、今日は足首が痛いので、部活お休みします」

「そうなの?」

 席で書き物をしていた先生が、振り向くや私の足首に視線を向け、続ける。

「それで帰りはどうるすの?」

 疑われてはいないようだ。

「大丈夫です。自転車は、漕ぎます。ゆっくり、あの、乗れます。あれ、あの、さようなら」

 ひどく焦ってしまったが、無理矢理に向きを変える。

 気遣わしげな先生の目に、背中を刺されているみたいだ。少しの間私は、右足だけつま先着きで歩いて嘘を重ねる。すると罪悪感に耐えられなくなったのか、本当に痛い気がしてきた。

 私は口の中で唱えた。

(ごめんなさい。今日は特別に許してください)

 そんな私に試練は続く。駐輪場の手前で、体育館へ向かう同級生と会ってしまった。

「あれ、よもちゃん帰るの?」

「あ、うん、足首。じゃあね」

「え? 大丈夫? カバン持ってあげるよ」

 様々な理由でこの時間に帰る生徒はそれなりの人数がいるのに、何故私に気を留めるのかと思う。しかも普段あまり話さない子に優しくされるなんて、ますます心が痛くなる。

 私は後退りで、来てくれようとする級友を抑えた。

「ううんいいの、ありがと。明日治るよ。じゃあね」

 親切心をねじ伏せられた級友の顔が戸惑いの色を帯びる。

(ごめんごめん! 蓬、行け行け!)

 嘘をつくというのは大ごとなのだなと思った。私は罪を背負いながら自転車に乗った。

 そして家とは違う方向の事故現場に向かった。


 私は心を硬くして狭い道に入った。

 白線は無く、古さで舗装が剥げている。小さい頃によく荒波と遊びながら歩いた道だ。しばらく足が遠のいていたせいか、見知らぬ雰囲気を感じて私はソワソワとした。

 そして見えてきた空き地の向こうがその場所だ。

 私は自転車を漕ぐのをやめて、惰性で事故現場に近づいて行った。

 直視するのは怖かった。爆発で塀が一部抜けていて、ビニールテープが渡してある。

 私は地面に足を着いて進むのを止め、ビニールテープ越しに目をやった。そこには、台所の残骸と化した建物の内部が冷え冷えと晒されていた。あの柄入りガラスの窓は壁ごと無くなっている。床もえぐれているようだ。

「うわあ」

 酷い有様を目にして思わず声が出る。道から台所まであまり距離はないから、焦げた壁や、放置されたフライパンが生々しく見えてしまう。

 荒波はどの辺りにいたのだろう。荒波の自転車は、吹き飛ばされた塀と一緒に倒れていたらしいのだ。

 爆発の力は荒波を直撃した可能性が高い。

 私はその瞬間を想像しようとしたが、危機に瀕した荒波の姿を見たくないと心が抵抗した。

「ふう」

 一つため息をつくと、もう帰りたくなった。

 でも、何かに突き動かされるようにして来たのだ。真面目な私が嘘までついだ。そう思い自転車を降り、ハンドルをトタン塀に寄りかからせた。

 もう少し頑張ってここに居よう。でないと、あの日声をかけてくれた荒波から逃げてしまった時と同じになる。

 それに、誰もが見落とした何かを見つけられないか。私は感覚を研ぎ澄まして辺りを見た。

 何もない。

 私はまた溜め息をついた。

 最近インターネットの一部世間では、超能力者が急増している。それで以前、桜からある配信動画を二本観るよう勧められた。

 一つは、超能力者が荒波の件を知り、遠方からここへ来て過去の荒波の想いを追うという内容だ。その人は『少年は確かにここまで来て、忽然と消えた』と結論づけている。もう一つは霊能者のもの。霊視の結果は『少年の魂は天に昇ってはいない。まだどこかで人の体に宿っている』だ。

 桜はこれらを、私にとって良い情報だと教えてくれたのだった。

 そしてつい最近、今度は小学生の妹を持つ結衣から一つの話をもたらされた。繁が荒波の意識を受信していると言う噂があるそうだ。

 良かった、と私は思った。私は繁を無条件に信じる。他でもないあの超能力者の弟だからだ。それに繁には不思議な分別がある気がしていて、特にこの件での虚言は想像できない。可愛いくて大好きんで、信頼できる子なのだ。

 逆に、私には何もなくて申し訳ない。

 そんな事以前に、私は荒波を避けた。

「やり直したいなあ」

 心が苦しくて、敢えて小声で言ってみた。すると、涙はこらえたが鼻水が出てきた。

 私はハンドタオルで鼻を拭き、道にはみ出している庭木に視線を移した。

 きっとノウゼンカズラだ。好きな花だから夏のきれいな姿を覚えている。でも冬の今はただの茶色だ。

「変な形に成長しちゃって」

 どうでもいいことだと思いつつ、私は目を瞬かせた。

 何故か焦点が合わない。

 ノウゼンカズラの木化した蔓の、コブのようになっている辺りがぼやけてよく見えない。周りはよく見えるのにと不思議に思った。

 私は少し移動して、別の角度からもコブを見てみた。やはり変だ。空中に斜めの切り口がある様に見えて、その中がぼやけている。それは脈打つように、無くなりそうになったりもするが、また拡がる。

「何これ」

 私は道に車が来ないかを気にしながら、ノウゼンカズラの周りを行ったり来たりした。だがやはり、空中が口を開けているように見えた。

 怖い。

 そこで超能力者の配信動画を思い出す。派手な服装のその男は一時、この辺りを気にする素振りをしていた。

 これは荒波がやったんじゃないのかと、理屈もなく思ってしまう。

 有り得る気がしてしまうのだ。瞬間移動が何なのか分からないけれど、近道を作って通るようなものだとすれば、これは出入り口だったりしないだろうか。

 私が入ったら通れるか。いや、私は普通の子だ。怖い怖い。やめた方が良いに決まっている。そもそも、ここから荒波が帰って来ないのだから違うのだ。

「じゃあこれなによ」

 不思議だけれど荒波には関係ない。ここに荒波につながる物など無い。

 もう辛い。

 せめて、バカな事だと承知の上で一回呼びかけよう。私は無視をされても文句を言えないのだ。

「あみ」

 間の抜けた声が漂う。涙が鼻から上へ登る。

「荒波くん。どこにいるのか、教えてくださいよお」

 涙が登りきり、溢れた。私は泣いた。

 誰かが道を通るかもしれないと思っても止められなかった。心配と後悔と淋しさが代わる代わる襲って来る。

「あみい。ああ、荒波い。うーうう」

 車も何も通らないのを良いことに、長く長く泣き続けた。こんなことは小さい頃以来だ。呼吸は次第におかしくなってきた。

「おい、誰だ。泣いてるのか」

 突然誰かに言われた。とうとう近くの家の人に気付かれてしまったと思った。

「す、すうう」

 咄嗟にすみませんと言おうとしたが、うわずってしまう。

「アラナミって言ったか。どこで泣いてるんだ。ヒトか」

 私は焦ったが、まだ泣くのを止められずにいた。でもその割には言われたことがよく分かった。頭の中に直接伝わる感じがするのだ。

 私は制服の袖口で涙を拭き、どうにか辺りを見回す。

 誰もいない。

 壊れた建物の方もよく見た。最初から取り壊しの業者の人でもいたのだろうかと思ったのだ。だがやはり無人だ。

 でも『人か』とは、変なことを聞く人だ。もしかすると私を心配しているのではなく、うるさいと怒っているのか。そう思うと少し怖くなってくる。すると、

「アカゲ、ど‥‥ た? 黙‥‥‥‥ 」

と、今度は耳に聞こえた。

 何故か波の様な音が被さって全部は聞き取れなかったが、少年の声だと感じた。荒波に似た声。泣きすぎて頭が痛いから幻聴が出てしまったか。

 それともまさか、荒波はやっぱり死んでしまっていて、霊となりこの場所にとどまっているなんてことは。さっきの『人か』は、私のことを霊か生きた人かと聞いたのかもしれない!

 私は悲しみで一杯になってしまった。恐怖も募ってきてまた泣いてしまった。

「なんか、よも‥‥‥‥‥‥ で、でも人ですよね。どこにいるんですか」

 声だ間違いない。後半は聞き取れた。でもやはり誰も見えないし、また、人ですよねと。海の様な音も正体不明だ。

「あ、あの。あなた様はどこにいるんですか。私も見えないんですけど」

 私はどうにか鼻声で言った。

 言いながら、もう逃げようと背後にある自転車へ体を向けようとして、足がもつれた。泣いたせいで平衡感覚が悪くなっているのと恐怖と、今日いくつも重ねた嘘の報いだ。

 転ぶまいとするほど自転車から遠ざかり、あの不気味なモヤモヤに近づいてしまう。

 一瞬リュックが、そして体が、強く引っ張られる感じがした。

「ふうっ!」

 

 そして私は、強い日光と、水に落ちた感覚を味わった ————



    †



 アカゲは苦々しく思う。


———— キリがアラナミにしがみつき、諸共に瞬間移動をした。そして二人で楽しげにしている。

 こんな事は言いたくないが。

 キリを育てているのはオレ。それに、アラナミと話すのもオレ。

 それなのに、オレを抜きにしてこいつら、オレの知らない世界を共有している。寂しい。

 オレは唐突に言った。

「やる」

「ん、何」

「オレもやる。反対側の岩場に行こう」

「アカゲも」

 嬉しそうにアラナミが近づいてくる。右腕にはキリが取り付いたままだ。

 だが本当は怖い。嫉妬でこんなことをやる羽目になるなど、オレはこんな性格だったか。最近こんなことばかりだ。

 そんな小者の片手を、アラナミはギュッと握って言った。

「どうかな。そっちの腕、俺の体によくつかまってみて」

 オレの上背は、足を伸ばしてアラナミの腰そこそこだ。オレは不恰好にアラナミの腿にしがみついた。アラナミのもう一方の手は、肩のキリを抑えている。

「よし。行くよ、オラシオン、せえのっ」

 怖い。

 そう思った時にはもう、足の裏にあった砂が岩に変わっていた。そしてビシャビシャと足が濡れ始める。

「うわうわ」

 荒波が楽しげに声を上げる。キリはもう慣れたのか、お漏らしもせず何の問題も無さそうにして、今もアラナミの肩にいる。オレはアラナミにくっついたまま転ばずに耐えたが、毛は逆立っていてみっともない状態。

 だがすぐに景色に魅了された。

「おお」

 別世界だ。

 アラナミの浜とも違う。同じ海でもまるで違う表情だった。

 オレは夢を見ているような気持ちになり、いつの間にか毛も落ち着いていた。

 瞬間移動は本物だった。ここはカラスが言っていた通りの岩場だ。

 オレ達が降り立った場所は海に近かった。すぐそこにオレの背丈以上ありそうな深みがある。初めて感じる種類の恐れが、再び全身の毛を逆立てさせた。

「アカゲ、気分悪くない?」

 聞かれてオレは我に帰ると、アラナミから手を離して向き合った。

「何ともない」

 気分などよく分からなかったが、見栄でそう答えた。毛も何とか元に戻した。忙しい。

 でも時々濡れる場所はいいが、乾いた岩は熱くて足が焼けそうだ。初めてアラナミのクツを良く思った。

「うまくいったな。でも重い。体力使うもんだ」

 アラナミは、両膝に手をついて休む姿勢をとった。

「そうか。あ、なんか、悪かったな」

 オレは気不味く思った。勢いで、威張るような言い方でやらせてしまった。

 考えてみれば、アラナミは既に疲れていたのだ。オレは小者なだけじゃなく、お荷物に成り果てている。

「いや悪くないよ。アカゲとキリと一緒に来られて、自信付いたよ」

 アラナミは顔を上げて明るく言った。

 その時、予期せぬ感覚に神経を捕られた。

 まさか。どこかからヒトの声が聞こえて来たのだ。耳にだ。

 オレはキリと顔を見合わせる。

 次にアラナミを見たが、アラナミは呑気な顔でしゃがみ、岩の窪みの水溜まりに手を浸しているだけ。サルの方が耳がいいのだろう。

 だがこれは大ごとだ。アラナミは今ここでヒトに会えるのか。とは言え、まだ姿が見えない。オレは耳を澄ました。

「‥‥ う、うっ‥‥ あみ‥‥ 荒波‥‥ うっ‥‥ 」

 確かに聞こえる。声と思いが来る。

「おい、誰だ。泣いてるのか」

 返事を聞き取ろうと集中する。でも波の音しか聞こえてこない。キリも緊張した面持ちで立っている。

 もう一度問いかけてみる。

「アラナミって言ったか。どこで泣いてるんだ。ヒトか」

 オレは、その何者かがオレを怖がらないよう念じながら辺りを見た。声がしたのは、岩の終わりの少し向こうの海面近くだ。

 そこにはヒトも、他の生き物の姿も無い。ただよく見ると、波の動きで分かりづらいが、狭い範囲で水の反射が歪んで見える。

 何だ? 

「アカゲ、どうかした? 海に何かいた?」

 アラナミがオレの様子に気付いて声を掛けてきた。するとまた海から泣き声が来る。

「おーおーおお」

 独特の声と思いの形。オレはヒトだと確信して、

「誰かヒトが、泣いてるんだよ」

と、海面の少し上にある、その歪んだ光を指して言った。

 ヒトと聞いたアラナミの顔色が変わる。当然だ。アラナミが全身全霊で耳を澄まし出した様子が見て取れる。

 するとアラナミにも何か聞こえて来たらしい。真顔でオレを見る。

「なんか、よもの声に聞こえるんだけど」

 そして今度は、歪んだ光に向かって言った。

「で、でも、人ですよね。どこにいるんですか」

 返事を待つ。波が岩に当たる音と聞き分けようと、知覚が耳に集まる。

 アラナミにしてみれば、この相手とこれっきりにならないよう祈る思いの筈だ。それをキリも感じるのか、今も静かにしてくれている。

 すると、やっと返事が来た。

「あ、あの。あなた様はどこにいるんですか。私も見えないんですけど」

 声は、終わりの方には弱々しくなった。

 オレは、ヒト相手ならオレが出しゃばるよりも、アラナミに任せた方がいいと思って沈黙を守った。

 アラナミは何か返そうと、口を開きかけた。

 その時、歪んだ光の下に一人のヒトらしきものが現れて海に落ちた。落ちたと思った時には、アラナミがそこに向かって動き始めていた。

 オレはアラナミの早さが信じられなかった。

 キリは即座にアラナミから離れ、オレに駆け寄り、傍からアラナミの方を見やった。

 アラナミは黙って海に入り、水を掻いてその現れたヒトを捕まえた。そして抱えて浮かばせる。次に岩に寄せようとするが、強い波に揺さぶられる。アラナミは岩とヒトの間に体を入れてヒトを守っているようだ。かなり危険だと思うが、例の特異体質の出番か。

 そうしてやっと岩の上に上げられたヒトは、心境は分からないが目をしっかり開けていた。頭には大きな黒い物が付いている。

「よも」

 言ってアラナミは自分も岩場に上がった。その手には、ヨモとやらの持ち物なのか、アラナミのと似た背負い袋があった。

 ヨモとやらは、まだ何も言わない。

 待て。ヨモって、アラナミの話に出てきた女か。

「蓬!」

 アラナミが珍しく強く言う。そして自分の顔に貼り付いた長い毛をどけて、ヨモの目を見た。

「‥‥ あ、み?」

 ヨモはしげしげとアラナミの顔を見ているが、まだ判らない様子だ。

「そう荒波だよ、よも」

 アラナミは、座り込んでいるヨモの顔の高さに自分を合わせて、誠実に語りかけながら、頭に付いている黒い物を取ってやっている。親しみに溢れていて、まるで二人きりの世界に見える。

 キリに嫉妬していたら次はこうだ。何が何だか解らないが。

「ああ、あみだ! 」

 ヨモはやっと判ったようだ。

 そして少し喜んだ後、オレとキリに気付いて「サル!」と叫び、均衡を崩して再び海にずり落ちた。

「不器用な奴だな」

 オレはキリに同意を求めた。

「キュルッ」

 キリは笑い、小首をかしげる。

 今日はまったく、不思議な現象ばかりだ。

 お喋りで赤毛で子連れ雄ザルのオレが、目立つ暇もない。

 面白いもんだ ————


 アラナミは再びヨモを引き上げた。そんな二人にキリは近づき、面白そうに眺めた。

 すっかり蚊帳の外となったアカゲは、一つ欠伸をした。



    †



 綾の籠編み教室は、あの日から休業を続けている。

 それでも綾は籠を編み続けていた。

「落ち込んだ時やってごらん。編むことだけ考えてられるよ」

 思い出していた。ちょうど荒波が今の繁くらいの頃だった。

 その日荒波は、綾の籠編み教室に加わっていた。

「でもさあ、いつかは編むのやめるでしょ。そしたらやっぱりまた」

 荒波は苛立っていた。学校で掛け算九九の暗唱試験があるのだが、落ちこぼれ気味なのだ。

 綾は、二人の受講生が黙々と作業に集中している様を見て、荒波に向き合って言った。

「そうなんだけどお、違うんだよ。編むのをやめた時、何か少し良くなってるんだよ」

 そう言われた荒波は畳に寝転んでしまい、正座している綾の尻に巻き付いて声を上げた。

「ええー」

 いつもなら行儀が悪い、と叱る場面だった。でも綾は、躾を後回しにして話を続けた。

「じゃあさ、良くなりますようにって想いながら編めば? この網目にお願いが入る気がしない? そうすると、ずっと籠がお願いし続けてくれるよ」

「籠があ? 九九を籠がお願いすんのお?」

「そう。ふふ。オラシオンの籠だよ。オラシオンは、お祈りって意味。荒のひい爺ちゃんがよく言ってたんだ。お母さんスペイン語できないけど、これは覚えてるの」

「オラスオン、オラスンオン、て必殺技みたい」

「オラシオン。まあ、必殺技ぐらい凄いんだよ。オラシオンね。シだよ」

「オラシ」

 荒波は、子供らしい綺麗な二重瞼を目一杯開けて、あからさまに馬鹿にして言った。でもさっきよりも顔が明るくなっている。

 私の勝ち、と思ってほくそ笑んだ日のことを綾は思い出す。

 あれからすっかり大きくなった荒波が、自分で買ってきた漫画本で部屋を散らかしていて、綾がその中に『オラシオン・ソルダード』を見つけたのは、爆発事故の後だった。

 綾は、荒波はオラシオンの籠を憶えているだろうかと、一人思った。

 そして、続けなければならない雑多な日常の合間に、こうして籠を編み続ける。荒波が飲み物や食べ物に恵まれ、笑顔で一日を過ごす姿を頭で描いて、籠に編み込んだ。


 じきに学校から繁が帰って来る。荒波ばかりを想う時間は終わりだと、綾は籠の材料を片付けた。

 そして時間通りに玄関の戸の開閉音と、繁の元気な「ただいま」が聞こえた。それだけで一つありがたいという想いを綾は噛み締める。

 繁はおやつや宿題を終え、一旦自室に漫画を読みに行く。これも綾にとって大切な日常だ。だが少しすると、繁は茶の間に戻ってきて綾に話しかけた。

 綾の洗濯物を畳む手が止まる。それは綾の意表をつく内容だった。

「荒がよもちゃんと会ってる? そう? しいちゃん、それはちょっとねえ。うん」

 繁からの新情報を軽んじるつもりは一切ない綾だ。いつも真剣に耳を傾けている。だがこれには苦笑いで応じた。

 あれ以来、蓬は落ち込んではいるものの、学校は休まず行っていると、人伝で綾は聞いていたのだ。それで、

「よもちゃんじゃなくても、また誰か、荒にお友達が出来たんなら。それでもお母さん嬉しいよ」

と言い、目線を繁の顎辺りに留めた。

 初めて荒波に友達ができたと言った日から、繁はずっと荒波の気分に友達との関わりを感じ取り、それを綾も聞いていた。それでも、自然環境にいるのではという推測を覆す程の情報は無かった。だから、動物と心を通わせているのかもしれないと、家族の中で話を収めている。

 警察の方も、民間所有となっている山や無人島については、その所有者に島の巡回を求めている。それ以外にも、例えば、諸々の研究機関が目的を持って衛星からの画像をチェックしているが、そこに遭難者等が認められた場合、通報の義務を負っている。

 そして、そういった連携による人命救助は実績があると聞いて、明人も綾も大いに期待を寄せていた。

 しかし綾は、繁の話をもう一度検討してみる。

(荒は、よもちゃんを恋しく想っているのかも)

 考えたことは無かったが、不思議でもない事だと思えてくる。無邪気に戯れていた子供達は、いつの間にかキラキラとした少年と少女に成長した。そう思って綾の胸は酷く締め付けられた。

 一方繁は否定されて面食らっていた。それで一旦その話を引っ込めた。

 自室へ戻った繁は、さっきと同じに漫画の表紙に目を落とす。オラシオン・ソルダード第二巻だ。荒波の部屋から持って来たもので、繁も一通り読んだが、あまり面白くないと言って荒波に怒られたことがあったと思い出す。

 するとやはりまた荒波の気分が繁に流れて来て、そこに蓬の存在を感じた。

(兄ちゃん綿あめみたいになってる)

 気分などという、形の無いものを受け取る感覚。それは頼りないようでも、繁には強く訴えてくる。

(どうやってお母さんに教えればいいの?)

 どうしても荒波の側に蓬がいると思うのに、これ以上どう言えば良いのか繁に分からない。

 繁の目は今も、床の漫画本の表紙を見ているが、もう苛立ちで何も感じられなくなった。

「お母さん」

 繁は再び綾の元へと階段を降りる。その途中で涙が溢れてきた。そして畳んだタオルの山を持った綾と廊下で出会う。

 綾は繁の涙を見て、すぐにさっきの受け答えを後悔した。

 繁は頑張って話した。

「にい、兄ちゃん今、女子といんの。そんで、兄ちゃんいつも、女子とは安心してらんないの。よもちゃんだけ。綿あめ…… よもちゃんだけ違うの。違、う、ええーんえんえんえん」

 綾はしゃがんで、半ばタオルを床に捨て、繁を抱いて背中をさすった。

 繁はされるがまま、立ったまま、天井に顔を向けて激しく泣いた。

「ごめんごめん、しいちゃんごめんん」

 綾も涙が出てきた。

 しばらくの間、二人は廊下で過ごした。


 夜、綾は繁に改めて謝ることになった。

 かかってきた電話での会話を終えると綾は、パジャマ姿の繁に向き合い言った。

「しいちゃん、さっきごめんね。お母さんは間違いで、しいちゃんが、合ってるかも」

 綾の顔からは血の気が引いていた。そして続けた。

「よもちゃんも、おんなじ場所でいなくなっちゃったんだって」

 繁は頭で、自分が感じ取ったことと、今綾が言ったことを結びつけようと奮闘した。


 その日蓬が部活を休み、自分の家の方向とは違う道を行ったことが、警察に確認されていた。そしてまたあの場所に、蓬の自転車や鞄が残されていた。荒波の時と同じで、蓬本人と、ヘルメットとリュックサックは無い。

 逆に荒波とは違うこともある。蓬は携帯端末を持っている筈だった。だが通じない。位置情報は、自転車がある場所で途絶えていた。

 一人の女性の警察官が、耳を塞ぎ目を閉じて、トタン塀に向かって長く立っていた。次に目を開け、少しだけノウゼンカズラに視線を注いだ。そして目をこすり、ドローンや他の警察官達と引き上げて行った。


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