第6章 夢から覚めて
第6章 夢から覚めて
竹の小屋には、汗の匂いがこもっていた。
体が回復した荒波は小屋を出て、竹藪の奥へ少し歩いた。
森の入り口辺りにふくふくと育った苔がある。荒波はそれを剥がして小屋に持ち帰った。さっぱりと一新された寝床は、室内の空気まで浄化した。
次に荒波は浜辺へ出て行き、久しぶりに釜戸に火を入れた。そして自転車の前カゴに芋をセットする。アカゲが届けてくれた芋だ。
芋が焼けるのを待つ間には、小屋の周りに出ていた沢山の筍を掘り出す。食料調達と庭の手入れが一度で済むのだった。
荒波に、無人島での日常が戻った。
自分の世界から閉め出していた、緑の小鳥も海も、釜戸も空も戻ってきた。荒波は、体を動かせることのありがたみを実感した。
荒波は思い出した。
まるで夢から醒めた様に全ての色が濃くなった。
島の瑞々しい自然の中で荒波にだけ、コンクリートや印刷物、液晶画面や、見えないネットワークが一度に押し寄せてきた。全て詳細を持つ現実だ。反対に波に揉まれた海洋ゴミは、自然寄りの物に見えた。
荒波は取り戻した記憶を振り返った。
(確かあの時、学校からの帰り道で何かが起きた)
荒波は反射的に、目をぎゅっとつぶったのだ。そして一瞬だけ押された。
(あれは爆発だ)
ガラス片とリュックの傷で推測はしていた。
でもその直後に感じたのは、何故か全身を包む水の感触だった。そしてもがいた時にそれが海水だと知った。直前までの世界と繋がりのない、海だ。
瞬間移動という可能性を思い出す前なら、異世界も度外れた発想ではなかったと、今思い直す。
そして荒波は、自分がどんな者かも思い出せた。
何かと消極的だ。面倒くさがりのパッとしない少年。失敗が怖くて縮こまっている。それを何とか肯定しようと言い訳に忙しく、その疲れからの現実逃避。暇さえあれば、漫画の世界へ脳内移住していた。
一方で、怪我を防げるという特異体質を持つ者でもある。これまで感じてきた皮膚の違和感はそれだった。
(ここに来てから、気付かずにどんだけの傷を防いで来たんだろう)
そもそもこの体質は、無意識下では無効だと思っていたが、生命の危機だとして働いたのだろうかと、荒波は考えた。
そして問題の瞬間移動。能力なのか体質なのか、荒波も家族も知らない。荒波はまるで正体不明な存在なのだ。
完璧ではなくても、記憶の材料は大分揃った筈だと、荒波は疑問を解消するべく釜戸の前で手を動かしながら奮闘した。
何故海に落ちたのだろうか。
(近道で咄嗟に逃げ込んだの? 海なら安全っつって?)
長い思考が苦手な荒波だ。シズカとしても自覚していた程だから、今もすぐにぼんやりとしてしまい、視線が草花に移る。寝込んでいた間に釜戸近くを覆った、薄いピンク色のラッパの様な花だ。その螺旋を描く蕾を見つめながら、気を取り直してまた考えた。
爆発の熱い炎に包まれるのは嫌だ。でも川や、隣町のスイミングスクール、スーパー銭湯と、他にも水は近くにあっただろうにと。
荒波は、ヘルメットとリュック姿で大浴場の湯船から顔を出す自分を想像した。そしてその方が良かったと口を尖らせた。
(バカか。俺は泳げない荒波だぞ。なんなんだよ)
荒波は持っていた火かき用の棒を、乱暴に地面に打ちつけた。だが一度では気が済まず、棒の持ち方を変えて何度もやった。
風が手伝って跳ねた砂が舞う。
そうして、厚くなった手の平の皮にひびが入った。
「もう。この体質」
こんな事をしても、消耗して腹が減るだけだと思うと虚しくなってくる。
「はあ」
荒波は硬い皮膚を指で掻き落とした。そしてうな垂れ、地面に散らばった皮の破片を見ていると、蟻がそれを運び始めたのに気付いた。
(食べるのか。ああ、俺も)
荒波は妙な気分のまま、竹薮へと歩き出した。
細めの青竹の一部を服の袖で拭き、そこに直接かじりつく。ゴリゴリと音を立てて傷を付けると竹は折れた。荒波は折った竹をガサガサと引き寄せ、夢中になって食べた。
固い稈を噛み砕いているうちに、荒波の心は一旦落ち着いた。すると今度は甘い香りがしてくる。荒波は最近、鼻もよく効くようになってきたのだ。それで芋も焼き上がったようだと、再び釜戸の所へ戻った。
荒波は燻る焚き火に砂を掛けながら思った。家の台所では、薬缶で湯を沸かし、カップラーメンを作る事ぐらいしかやったことが無かった。芋を焼くなど、母を思い出さずにはいられない動作だった。
綾はいつも、荒波に腹はすいていないかと過剰に声を掛けてきた。それを荒波は少し鬱陶しく思っていて、態度にも出していた。
思い出して、荒波は顔をピクリとしかめた。
(お母さん。お父さんも。心配してるだろうな)
それに、いくら荒波が邪魔にしても纏わり付いて来る繁。みんないったいどんな気持ちで日々を過ごしているのか知れない。逆の立場にならなければ分かり得ないと思いつつも、想像してみる。
家族の誰かがある日、自転車だけを残して消えてしまったらと。
とてもではないが耐えられないと思った。思っただけで胸が悲鳴を上げた。荒波はしゃがんでいた姿勢から砂地に尻を落とした。
(俺生きてるよ。熱出たけど、もう治ったよ。友達もいる。芋をくれたんだよ。だから安心して欲しいけど、伝えられない。安心させたいよ。俺帰りたい)
鼻の奥が熱くなった。
ス、スク、スク。
荒波は泣き始めた。もしアカゲやキリが近くに来ていたらと最初は気になっていたが、いつの間にか声を上げて泣いていた。
「ううー、うー、ふーうー‥‥ 」
風景はただの滲んだ水色になった。
「うあーあー、あーうー…… 」
あの明るい家族が、下らない会話が、ごく普通の平和が、自分がいなくなったせいで壊れてしまったに違いないと思った。
繁が暗く沈んでいたら。
荒波は長い間泣いた。泣いても泣いても、家族への想いが湧き出てきて終われなかった。
そのうちに、自分の泣き声を聞く別の自分も居る様な、おかしな心境になって来る。波の音にも惹かれ始める。
やがて疲れに勢いを削がれた荒波は、メソメソと静かに泣いていた。でもとうとう眠気と空腹に負けて、泣くのをやめた。
呼吸と想いが凪ぐ。
荒波は半袖の布を引っ張り、顔中を拭いた。そして釜戸に手を伸ばす。
焼き芋は冷めてしまっていたが、強張る口を大きく開けてぎこちなくかじった。口の中が涙でびちゃびちゃするようだったが、それでも友達の芋は美味しかった。
そしてまた、熱い涙が流れ出て来るのをそのままにした。
とうとう涙が止まり、乾いたのは夕方だった。荒波は砂浜で大の字に寝転び、上を通過する大きな鳥を目で追っていた。
泣いて澄んだ心は考えた。
(あの時俺は蓬に嫌われて、頭ん中がそれだけになった。でも)
再び家族の顔が浮かぶ。
(俺は弱過ぎだ。こんなに大変な事だと知ってたら、消えたいだなんて思わなかった。でも一瞬で消えちゃうなんて。ほんとに俺ってこんな奴だよ)
すると仰向けで見ていた青空の手前に、父の姿が現れた気がした。会社の作業着姿でどこかに座っている様子の父が。
それはすぐに消えて、泣き疲れたせいだと荒波は思った。それでも、力が湧いてきた。
(漫画みたいにどっぷりと絶望して、蓬の前から消えるのはもう実現させた。次は何が何でも帰る。こっちも実現させてやんだ。大丈夫。俺はその力を貰って生まれてる。貰っといて良かったわ。それに、シズカが俺を頑張り屋にしといてくれた)
逞しく暮らし、アカゲと友達になったシズカ。そして山に登り記憶を取り戻した。
妙な感覚があった。シズカは荒波の一時期の状態であることを超えて、守り神のように荒波の心に有る。
(やっぱり発想がいちいちオラソルだ。まあいよ)
オラシオン・ソルダード。略してオラソルだ。荒波は病床の合間、早い段階で思い出していた。
「オラシオン!」
呪文で勢いよく砂浜から起き上がった荒波は、無言で波打ち際を駆けずり回った。
翌日荒波は、無性にアカゲに会いたくなっていた。小屋に来てくれたことや、芋の礼も言いたかったのだ。それで久しぶりに森へ出向いた。
あれから何をしていても記憶が押し寄せる。まるで空っぽの部屋から、ランチタイムのラーメン屋の厨房にでも瞬間移動したかのような忙しさだと荒波は思った。
だからか、森もよそよそしく見えた。
小川を越えて奥へ行っても、二人の姿は無かった。荒波はいつもの倒木まで戻り、焚き付け用の小枝を拾いがなら付近をぶらぶらとした。
そして蓬を想った。あの別れ方の後でこうなってしまった。蓬も心配してくれているだろうか。心配よりも前みたいに戻りたいけれど、帰らなければ何にもならない。
そう考えている時に、やっと背後から親しみのある気配が近づいてきた。
樹上を見上げると、アカゲはかなり高いところで枝渡りの練習をキリにさせていた。そこから荒波を見下ろし、アカゲは言った。
「おうシズカ。ここまで来る気になったか」
アカゲはキリの速度に合わせながら降りて来る。
荒波はシズカと呼ばれ、どうにも顔を上げられなかった。今日は記憶が戻ったと話すつもりだが、名前についてはためらっていた。言うのを避けるのはおかしいが、名付けてくれたアカゲの親切を捨てるみたいに思えてならなかった。
「どうした。もう元気なんじゃないのか。また、あそこで座ろうよ」
荒波にこんなにもの変化が訪れたというのに、アカゲはいつも通り優しかった。
小川のほとりの倒木は、陽が当たり温まっていた。
腰掛けると荒波はまず、
「あの芋美味しかった」
と切り出し二人に礼を言った。そして腕の筋肉を盛り上げるボーズで元気を見せた。アカゲは笑うように口を歪めた。キリは荒波の膝の上で、振り上げられた腕を見ていた。赤ちゃんの頃の繁みたいだと荒波は思った。
そして荒波は、記憶が戻ったとアカゲに報告した。
アカゲは驚いた表情をしたがすぐに目を伏せ、自分の尾に顔を向けて言った。
「どうりで。小屋では何か、調子が悪いだけじゃない、感じの違った顔をしていた」
荒波は頷き、山へ行った日に思い出したのだと伝えた。続けて、元々自分は海から遠い土地の住人であることや、家族のことを話した。
キリはいつの間にか荒波から降りていたが、珍しく見えるところでずっと遊んでいて世話が無かった。
荒波はアカゲの顔を見ずに言った。
「それでさ、名前も」
「おお、そうか」
アカゲは当然、元の名前を聞けると思って待った。でもやはり荒波はためらっていた。
「なあ」
何故か続きが出て来ないと痺れを切らしたアカゲは、
「偶然、前からシズカだったなんてこと、ないよな」
と遠慮がちに言った。
「はは! あははは」
荒波は思いがけず心から笑った。そして、
「いや。荒波なんだ。海のあれ、ざぶん」
と手で波を描く。
「普通のは、波。荒波ってのは強いやつ」
「おお、アラナミか。うん。お前って、アラナミか?」
アカゲは目をくるりと動かして言った。
「そう思うだろ。俺の親以外みんな思ってる」
アカゲも笑った。
そして荒波は声を鎮めて言った。
「俺、シズカって名前も好きだよ。ほんとありがと」
こんな言葉では、とても足りないと思っている。
するとアカゲは倒木から跳び降り、荒波に体を向けた。
「よろしく。な、アラナミ」
言ってアカゲは、照れたように頭を掻いて横を向いた。
「よろしくお願いします」
荒波も頭を掻いた。
「それで、これからどうする。帰るのか。竹の小屋じゃなくてその」
「うん。家に帰る。でも、記憶が戻っても、帰り方が分っかんないんだよ」
荒波は少し考えて続けた。
「もしかしたらって、思っているものはあるんだ。練習してみる。明日からね。今日は、アカゲとキリに会えただけでいいや」
アカゲは黙って何度も頷いた。
そしてその日荒波は、上達したキリの枝渡りを見たり、自分も木に登ったりして森でゆっくりと過ごした。
木の上のアカゲ達と同じ視界は美しかった。この島と田舎町との間を、ウロウロする様に心が定まらなかった自分を、森が包んでくれたように荒波には思えた。
家族や友達や世界が現れて、ここにはアカゲもキリもいる。シズカが放さなかったこの命と、培った体力もある。こうして木の上でくつろぐなど、荒波のままだったら、やろうとしなかったと思った。
(シズカがやっといくれたんだよな)
荒波は、不思議で良い気分だった。もともとの自我である荒波に、シズカという頼もしい仲間が出来たような、おかしな感覚があった。
そして時間はゆったりと過ぎた。
「またね」と手を振りアカゲ達と別れた後も、荒波はまだ樹上でくつろいでいた。でも薄暗くなってきて、良い加減に小屋に戻ろうかと地面に下りる。それはまるで、夢の中から這い出す心地だった。
すると、小川や倒木が、蛍の灯りで縁取られていることに気付く。歩き出した荒波の腕にも一匹いる。
淡い点滅。
森がまだもう少し、荒波に夢を見せてくれているようだった。
†
給食の時間の二年二組は、今日も元気に満ちていた。
そんな中、家でも学校でも食べるのが遅い繁は、気が散らないよう注意しなければならない。献立にはヒジキ煮があり、具の大豆に苦戦するから尚更だった。
「先生ね、ええ、ジャンケンについて真剣に考えてみました。歴史なんかも——」
天井近くのスピーカーからは、校長講話が流れている。水曜日の決まりだ。小学生向きでないボソボソとしたその話し声を、繁は聞き流していた。
ただ、ジャンケンという言葉が気に留まり、最近ジャンケンをする機会がないと繁は思った。それで今日も食べることが疎かになってくる。
少し前までは荒波のことを考えていて、箸を口に運ぶ手が止まってしまっていた。でもここのところ荒波の気分は、眠っている様にはっきりとしない感じが続いていたので、繁はあまり知ろうとしなくなっていた。それどころか、自分の感覚への自信を失いかけてもいた。
「それで先生調べてみたんだけども、平安時代には——」
でも校長の話をきっかけに、繁の心はまた荒波へと向かい始めた。
「現代のじゃんけんは皆さん知ってる通りね、ね、グーは石で——」
荒波はいつもグーを出す時に、強く握らない。その手つきを思った途端、荒波の気分が繁に入って来た。そして、
(あれ、なんか変だな)
と思い、久しぶりに強く荒波を意識してみる。すると、
(違う。なんか)
と、繁は視線を宙に泳がせて考え出した。
いなくなってからこれまでの薄い荒波ではなくなっているのだ。
(兄ちゃんに異変が起きた)
今までの何倍も濃い荒波の気分が繁を取り巻く。
(これ何。場所が近いの? 違う)
繁は鳥肌が立つ思いだった。そして人が変わったように急いで給食を食べ始めた。ヒジキ煮もかき込んだ。
(兄ちゃん思い出したんだ)
ゆっくり味わおうと思っていた日向夏ゼリーも二口で終わらせた。
両隣の子が同時に繁を見る。
そして繁は勢い良く立ち上がった。椅子が思いの外大きな音を立てるが構っていられず、その場から担任教師の若山に申し出る。
「先生。俺、僕お兄ちゃんのことを、あの早くお母さんに教えたいので、帰り、帰っても、あの」
繁は上手くまとめられず黙った。
今は学級中の子供達が繁を見ていた。そしてこういう時には必ずふざけて何か言う健人が、首をひねった体制で
「しげりん、なん……」
とやはり言葉を途中にして黙り、教室内は静まりかえる。
若山は当然、一連の事で繁を気遣ってきた。だから繁の言っていることは理解できなくても、迷わず綾と連絡を取り、下校させた。
†
町外れに、明人の勤務する会社が佇んでいた。
広大な敷地には、何棟もの事務所や作業棟が並ぶ。その四角ばかりの味気ない景色にも、休憩時間の和やかな空気が流れていた。
明人は社員食堂で昼食を済ませると、同僚や後輩と別れた。以前はみんなと一緒にぶらぶらと職場へ戻っていたのだが、一人でそこに留まっている。
食堂は広々とした白い空間で、椅子だけ淡い緑色をしている。混み合う時間は過ぎて人はまばらだが、辺りにはまだ揚げ物の匂いが漂っていた。
明人は、より空いている一角に移って席に座ると手で顔を覆った。
(荒波の所に行く。荒波の所につないでくれ)
目を固く閉じて念じる。でも何も起こらない。
毎日やっている事だ。一度ここで近道を使った事があるのだからと、弱い根拠に望みをかけている。
(荒波のいる場所が分からないと駄目なのかな)
そう思いつつも、荒波という人を目的地に出来ないものかと、明人は粘り強く挑戦し続けてきた。場所や時間帯を変えたり、時には強く念じ、時にはぼんやりと思う程度にと、色々と加減してもやった。
そしてこの日幾度目か、荒波を思っていた明人は額に汗を滲ませて、閉じていた目を開けた。
(竹)
目の前の白いテーブルと竹薮が重なった気がした。
(近道だ)
ゴクリ、と唾を飲む。
そこに踏み込む事は出来なかった。でもここに見える筈のない竹が現れた。諦めずに続けてきた努力が実りつつあるのだと明人は思った。
明人は繰り返し試みた。
(荒波! 荒波!)
力んでテーブルがガタガタと音を立てる。明人と関わりのない数人の従業員が、明人の様子を気に掛けながら近くを通り過ぎる。
その近道がよぎる現象は、結局三度起こった。三度目、竹の景色の中に荒波の姿を見た気がしたが、願望が作ったげ幻影かどうか明人には自信がなかった。
それで午後の勤務に就こうか迷っていた時に、綾から電話が掛かってきた。
明人は、綾から繁の話を伝えられ、自分も帰宅することに決めた。
家には、昼寝中の繁がいた。
学校を早退した繁からの話を聞いた明人は、時を同じくして自分が体験したことを綾に話した。
「どうしても俺、向こうに行けなかった。でも今日初めて見えたんだ。竹で造った小屋みたいなものだよ。不恰好な。荒に関係ある気がして」
それから明人は警察に連絡した。もし荒波の記憶が戻ったのだとすれば、警察でも追えると望みをかけたのだ。
そして夕食の後、風呂に入る暇もなく寝入った。
綾は明人が眠りこけた早い夜に、警察からの電話をとった。明人の通報で進展したかと、息を飲む思いだった。
話は、警察でも『荒波である可能性の高い意識』を探知したというものだった。その探知された意識からは、心身とも良好な状態が読み取れるとも伝えられた。ただ今日の所はそこまでとのこと。その思いから材料を拾って解析し、本当に荒波であるかということと、居場所を特定していく。
綾は溢れ出しそうな思いを押し留めながら通話を終えた。
そして、熟睡中の明人を揺すり起こし、警察との話を簡潔に伝えた。明人は理解し、綾の背中を撫でるとまた深い眠りに落ちた。
事態は大きく前進したと綾は思った。
普段は夜に、茶の間を散らかして籠編みはしない綾だが、この時はやらずにはいられなかった。そして、
(不恰好な竹の小屋に住んでお前らしいね。お前は偉いなあ)
と、想いを編み込んだ。
†
アカゲは思う。
———— シズカが久しぶりに森に来たと喜んだが。
記憶を取り戻したと、随分と大ごとを告げられたものだ。それで、別れの挨拶はアラナミと交わした訳だ。
その日の夕暮れ時、俺は選りすぐりの枝の上で、今夜の寝床にと葉を寄せ集めながらキリに言った。
「驚いたよな。とうとう思い出したって。よかったよ。あいつスッキリした顔してた」
キリはオレを見上げてギュッと唸った。
嬉しいことにキリは、オレの話を多少は理解できるまでに成長してきている。だからいつもこうしてシズカ、いやアラナミが言っていたことをおおよそ話している。
キリには、サル同士が意思の疎通をする時の声音や表情、身振りのやり方も、もちろん教えている。それとは別の、オレの話し方も、キリは勘でやり始めてくれている。
時々キリはオレの目をじっと見つめるが、それがキリの勉強法なのか知らない。だが何にしても嬉しい。頭の中の伝えたい内容をオレに向かって投げてきて、細かい事まで伝わるのだ。
「でも何だよ、皮膚が厚くなるって。変な奴だな。それにオレよく分からなかったんだが。遠い場所へ帰る練習をするって、あいつ言ったんだよ。練習するんだとさ」
オレはキリの返事を待つ。
「アンミ、痛いの、ないない」
キリは、身振りと思いの両方で答えてくれた。辿々しいが確かに伝わる。
「おう、そうだな」
「シウカじゃないの。アンミ。‥‥ はう」
言ってキリはあくびをした。
「そうそう、アラナミなんだとさね」
オレはキリの小さな頭を指で撫でた。
しかしオレも特殊なのに、軽口を叩いたものだ。
同族の中でオレはずっと変な奴だった。皆にしてみればサルのやり方で十分なのに、やたらと頭の中で喋ろうとしてくる五月蝿い奴。
そんなオレのことだ。ヒトに話しかけたのもアラナミが初めてではなかった。
鳥を見に来ていた奴らだ。見慣れない奴らが森に来て、カラスからの話でヒトと見当が付きオレはちょっかいを出した。先ずは用心と姿は見せなかったが、それが悪かったかどうか知らない。ヒトは動転し、とても会話など。最後はヒイッと言って走り去った。
アラナミは特別なんだ。
そして今はこうして、キリまでも話せるようになってきている。キリを拾った時は、その瞬間の命に手を差し伸べることしか頭に無かったのに。
「何げに幸せだよ」
とオレは、最近身に染みていることを敢えて言葉にしてみた。
なあキリ、お前はどうしてあの雨の日、オレが幽霊みたいにして見つめていた水溜りに現れたんだ? と、これは独り言だ。キリには投げずに、ただ思っている。不覚にも孤独に嫌気がさしていた時、オレはキリと出会ったんだ。
そんな回想をしながらも、快適な寝床が今日も完成した。
「お前のことも変な奴に育てちまってるかな。悪いな」
同族はただ枝の上で休む。こんな面倒なことはしない。
すると、キリが隣に来ようとしながら言った。
「アカゲだいすき」
「ハハ。よしおいで」
キリの尾がオレの腕に絡みつく。
「アラナミもさ、家族に会いたいだろうな。オレたち、出来ることあるかな」
オレはアラナミの澄んだ目を想った。すると、
「おいも。おいもあげる」
と、キリが絡めた尾をこちょこちょと動かして言う。
いい考えだと思った。余計な事よりも食い物だ。
「そうだな。また持って行ってやろう」
オレはキリを片腕で抱いて寝転んだ ————
なかなか姿勢が定まらなかったキリの動きがやっと止まると、アカゲの体に温もりが染みてくる。するとアカゲにも、今日の終わりが穏やかに訪れる。
アカゲが目を閉じる間際に、木の葉の隙間から見えた夜空には、厚い曇があった。
†
綾はいつも通り、和室に三人分の布団を敷いていた。繁はまだ、二階の自室で寝るのを怖がってできないのだ。
すると、押し入れから枕を出してきた繁が突然言った。
「兄ちゃんは、痛いのないない」
生意気な繁らしくない言葉使いだ。綾は少し変だと思った。
「ああ、荒は怪我しにくいからいいね。きっと今も、怪我していないね」
「兄ちゃん、静かじゃないの。荒波なの」
「お兄ちゃんの名前? そうだよ。元気な子になるようにと思ってね」
不格好な竹の小屋で、元気に生きているのだと綾は信じた。
「ふあーう」
あくびをした繁の表情は、とてもぼうっとしていた。珍しく昼寝をした上に、いつもは寝つきが悪い繁がと、綾はまた意外に思った。
特殊な感覚を使った疲労は綾には測れない。それに、親に知らせようと担任教師に訴えた、そもそもまだ小さい繁だ。
綾が気遣ったところで、またも繁から、
「お母さん大好き」
とちぐはぐな言葉が出る。そして布団に潜り込んだ。
綾は繁の傍らに留まり、その短い髪を撫で続けた。繁の髪は霧のように柔らかかった。
†
荒波はフカフカの苔の上で寝返りをうつ。そして、この小屋と寝床は最高だと感じ入る。
でも、家のベッドが恋しいとも思った。
荒波は、散らかしたままの部屋を目の奥に浮かべた。そこでは、いつも階下に家族が居るのを感じていた。
荒波は、ベッドをギシギシとさせて布団に潜り込むところを思って眠った。




