第5章 後悔
第5章 後悔
荒波は砂浜に仰向けで寝転び、薄い白波で濡れながら記憶を眺めていた。
———— 俺の名前は、海に憧れた親がつけた。
両親は海から遠い土地に生まれ育ち、結婚後も内陸の田舎町で家庭を築いた。生まれた男の子には、強さを身につけて欲しいという願いも込めて、こう名付けたのだと言う。
だけど、どちらかというと俺は静かな質だ。そんな俺が山に囲まれたこの環境で暮らすには、この名は浮くばかりだった。
俺が珍しく大きな声を出したり、滅多にないが誰かに腕相撲で勝ったりした時には、
「やっと荒の本性が出たわ。やあっと」
とからかわれた。
もとの性格もあるが、あまりやんちゃな行動をとらないのには、一応理由がある。特異体質で目立ちたくないからだった。
俺の皮膚は、怪我を防ぐために変質する。例えば転んだ時に。
例えば転ぶ時に、膝を着く寸前に、その部分の皮膚が一瞬で分厚く硬くなり、怪我をせずに済む。その後用済みとなった皮は砕けてはがれ落ち、元通りとなるのだ。ただ、危険に注意を向けず無防備でいて防げないこともある。
小さい頃は、人は皆そういうものだと思っていた。そして周りは違うと気付くと、むしろ、怪我のしにくさを自分の利点と受け入れた。親にもそう言われていたから。
でも剥がれる古い皮膚は、散らかるし汚い。他人から怪訝な目で見られもする。気を遣う。だから小さな怪我なら、心配され、手当てされた方が得だと思えてきた。
何より、自分だけ人と違うというのは心細かった。
それで俺は極力、元の性格に輪をかけて、地味に振る舞うようになっていった。
こんな皮膚は自分だけ。インターネット上には、少しは似た書き込みがあるが、俺と一致はしない。気持ちも違う。仲間は見つからなかった。
ただ、俺が生まれる前に亡くなっている、母方スペイン人の曽祖父はこうだったらしい。つまりは隔世遺伝という事だ。
母は俺がその特性を発揮すると、祖母から聞いた話を参考にして、いつも急いで何かを食べさせてくれた。皮膚の急な代謝分を補うためだろう。でも俺としては、それでは足りなかった。母が与えてくれた菓子パンや何かの他にも、後で庭の柿の木の枝を折って食べていた。本能的に、何かもっと硬い物を欲するのだ。ちなみに檜を試したことがあるが、これは嫌な粘り気があるし、不味かった。
あと、変わっているという点で言えばもう一つ。俺が一瞬で移動したと母に言われたことがあった。
気のせいか夢か。母は突飛なことを言いがちだから、俺は話を聞き流していた。こんなことを母に言ったら「この小僧!」と怒られると思うけれど。
でも最近、少し考えが変わった。
「荒波。あれ、前にお母さんから言われたのあるだろ。小さい頃、一瞬で移動したって。部屋、そっちの部屋にさ」
ある夜、そろそろ自室にこもろうと歯磨きをしていたときに、父から話し掛けられた。父の前置き無しはいつもの事だ。
「え、ああ、何」
俺は軽い気持ちで歯磨きを続けた。
父は言った。
「それ、お父さんの遺伝かもしれないんだよ」
「それもまあ、聞いてるけど、何」
「お父さんも自分でよく分かってなかったから、今まで言わなかったんだ。お前、皮膚が硬くなるの気にしてるから、余計にさ」
「ああ。で、何」
俺は面倒臭く思えてきて、早めにうがいの動作に入った。
「うん。昨日お父さん、ちょっとまたそういうことあったんだよ。だから、お前ももしかしたら。多分な。言っといた方がいいと思って」
「昨日? 何?」
俺は顔を上げて、すすぎが途中になっている口で聞いた。面倒臭がっている場合ではないのかもしれないと思えてきたのだった。
「おう。会社で昼にさ。食堂に上着置いたまま、仕事場に戻っちゃったんだよ。会社ん中広くて、結構歩くんだ。でもしょうがないっつって、取りに行くかって思ったら、もう食堂にいたんだよ」
「‥‥」
「ふわっとして。ふわって」
嘘だろ。
「俺独自の、近道って感じだな。無意識でな」
とんでもない事だと思った。
俺は母には悪いが、一瞬の移動の話を前よりも信じる気になった。でも父は相変わらずよくは解っていないようで、話は終わった。
父は俺の肩を触ると、ビールと言って冷蔵庫へ向かった。
父との触れ合いは随分前から繁に任せていたから、久しぶりだった。
瞬間移動。父が言うところの近道。
それが出来るのはいい事なのか。便利か、格好良いのか。自分の部屋のベッドに潜った俺は考えた。
良い気もした。でもどちらかと言えば、得体が知れなっくて怖いと感じた。
昨今、それは現実に在るとは言われているが、色々優れていて見た目も派手な人が繰り広げる世界に違いない。父は例外となるが、忘れ物を取りに行っただけというのがお粗末。
だから、その現象がまた自分にも起こるとして、それまでは気にするのをやめる事にした。
そもそも俺は、幼い日のその地震が起きた時に、母を棚の下において一人で逃げたことになるから気不味い。
思えば、怪我を防げる能力もそうだ。気にし出す前は、身を挺して誰かを守るのに役立てることもあったのに、今は違う。
その転機は小学生の頃に訪れた。
同級生達の目に、俺は気持ちの悪い生き物と映った。そしてみんなは無邪気に、元気に、残酷な言葉を口にした。子供社会の避けられない現実だ。それはもしかしたら、そう多い回数ではなかったのかもしれあなかったけれど、俺は萎縮して鳴りを潜めた。
中学三年になった今でも、何もしない奴のままでいる。
人と違うというのは嫌なのだ。
親の友達の娘で、蓬という一つ年下の幼馴染みがいるが、彼女は、そんな俺の特殊さを受け入れている稀な存在だ。と言っても瞬間移動の方はまだ話せていない。最近の俺達は、ちょっと。
今はそれは傍に置いておくとして。
蓬は少し泣き虫だが、活発に動き回るし、はっきりものを言う子だ。だがどうやらそれは自分の家族と俺に対してだけで、学校や他所となると大人しいようだ。受け身でいる事が多いのだと、蓬の家族が話していた。
ちなみに、蓬が小さい頃に気に入っていた遊びは無人島ごっこだ。蓬が「あれやろう」と元気よく言ったら間違い無くそれだった。
無人島ごっこの内容はなかなかハードだった。
土手を登ったり下りたり、小川を渡ったり、せせらぎの中の石をひっくり返したりと、インドア派の俺には修行のような時間だった。
しかもドラマ仕立てだ。嵐で船が難破するところから始まり、記憶喪失の状態で目覚めるという有りがちな物語。そこまでやった後は、ただ野山で遊ぶだけで結末などない。しかも冒頭は蓬一人でやるから俺は間抜け面で待っている。あの頃「またあれ?」と言いながらも何度付き合った事か。
だから俺の方も、蓬の数少ない理解者の一人と言えるのではないだろうか。
そんな訳で俺と蓬は、兄妹ではないが家族の様な親しさがあった。他人に対してできる親切は照れが邪魔して難しかったが、お互いを知っているからこその気遣いや何かはあったと思う。
一つ、小学生の頃の些細な思い出がある。
「俺どっちでもいよ」
二人で好きに飲めと、大人からジュースを渡されたことがあった。地域の祭で山車引きに参加した時だ。ジュースは、葡萄味のとメロン味のだった。
「あみは、いよって口癖だよね」
『あみ』は知り合った時にまだ小さかった蓬が、荒波と言ったつもりで定着した俺の呼び名だ。
「え? 口癖じゃないよ。いいからいいって言ったの。よも選んで」
「あみ、いいよじゃなくて、いよって言ってるんだって。ジュース、私もどっちでもいいもん。たまにはあみが決めなよ」
「ええ、じゃあ目えつぶって決める。これ」
「メロン? あれ、私もなんかメロン飲みたくなっちゃった。葡萄は木になる果物なんだから、あみの栄養にいいんじゃない?」
「なんだよもう。じゃ葡萄でいよ」
「ありがと。ほらまた、いよ言った」
「うっさい」
下らない遣り取りだ。でもこの日のことは何故か印象に残っている。楽しかったからだろうか。暑かったからだろうか。ジュースが美味しかったからか。蓬や俺、町のみんなの法被姿はとても華やかだった。
後に赤ちゃんだった弟が成長して、遊びに加わるようになった。それでも俺と蓬の仲は変わらなかった。本当に、気楽で特別な関係だったのだ。
なのに蓬は、俺が中学生になった頃からか、様子がおかしくなった。
まずは、俺の母が営む籠編み教室に、親について来なくなった。
それでも会う機会は何かとあったが、蓬は髪を伸ばし、服や持ち物に夢中になり、俺には素っ気なくなった。
それを気にした俺は、少し考えた。
服なんて何でもいいんじゃないのと言って怒られたことがあるが、蓬の態度の変化は、その辺りから加速したのかもしれない。それとも、ヒラヒラって必要なのと聞いた時か。いや違う。『ヒラヒラで風向きを読む訳か』だったか。『無人島で役立つよな』と言った気もする。何であれ、確かに調子に乗ってしつこくした。
ただ俺にしてみれば、何を着て何を持とうが関係無く、初めて会った時からずっと蓬が可愛かったのだ。
女の子、年下、否。蓬という生き物が可愛かった。動こうが止まろうが。笑おうが、機嫌を損ねていようが。顎に泥が、膝に草の汁が付いていようがだ。
これは誰にも言ったことは無い。
そして蓬の態度の異変に気付いた俺は、挽回を図った。
蓬の気を引こうと思い、いよの口癖をわざと連発したりしてみた。でも蓬はますます、俺に関心を持たなくなった。
最近では、学校内で偶然会った時に、一緒にいる友達と話をしていて俺に気づかない振りをしたりもする。本当に気付いていなかったのだろうか。いや、不自然だと思った。そこまで悪いことしたか? 言ったか? と、俺の頭は一杯になっていった。
静かな性格の俺だ。重い気持ちでいようが、目立つことはないだろうと思っていた。でも吹雪は気付いてくれた。
「荒波、なんか元気ない」
「え? いや大丈夫だよ。なんで?」
「弁当食べるの、遅いよ」
吹雪というのは、蓬の次に付き合いの長い親友だ。蓬とはまた違う角度からの理解者で、一緒にいると心が安らぐ。
ちなみに吹雪が生まれた日は、雪は少ししか降っていなかったそうだが、吹雪のように強い人になって欲しいと名付けられたのだとか。男の子だからといって強く強くと望まないでもらいたいと、愚痴を分かち合ったことがある。
俺は吹雪に指摘されて弁当をかき込んだ。そして、
「吹雪さ、妹とはよく話すの」
と早口で聞き、コロッケの最後の一切れを口に放り込んでさり気なさを装った。
「妹と? 別に話なんてしないよ。ああ、母ちゃんが呼んでるのにあいつが返事しない時、俺も呼ぶとかはあるよ。母ちゃんが怒るのは防ぎたいからな。とばっちりが来る可能性を排除しないと」
「ふうん」
「なんだよ。お前は弟と話すのか? 俺、繁くん見るとアライグマ思い出す。可愛いよな」
繁は確かに可愛いが、すごく生意気で、俺よりも賢いのではないかと思える節があり油断できない。
ちなみに繁の名は、大木に葉が豊かに繁っている様を願いに込めたらしい。親は俺に名付けをしてから七年の間で、土地にふさわしい方が良いと学んだのかもしれない。
そんなことを考えていて俺がすぐに返事をしなかったからか、吹雪は付け加えた。
「ちなみに兄貴とは、ゲームの話だけはするよ」
「はは。うちも似たようなもんだな」
俺はずっと口にあったコロッケを飲み込んでから答えた。
すると吹雪は、一旦黙った後で言った。
「ああ、あれか。幼馴染みの子。それで食べるの遅いんか」
見抜かれた。でも恥ずかしいから認めるわけにはいかなかった。
「いやいや違うよ。もう食べ終わった」
「なんだよ、バナナ食べるの忘れるか、普通。俺には遠慮無く相談してくれよ」
吹雪は笑っているのか真顔か、中途半端な表情で、手提げ袋の陰で忘れられたバナナを俺に突きつけた。
それで俺は大分省略したが、最近の蓬の様子を語った。あくまでさほど気にしていない調子でだ。それを吹雪は、腕組みをして聞いていた。
「ふうん。それ、もう子供みたいには遊ばないってだけでさ、怒ってるのとは違うんじゃない。そもそも女子に理屈なんか通じないと思うけどな」
寝耳に水だった。女子に理屈が通じないとは、俺は知らなかった。だが俺はさほど気にしていない調子を貫いた。
「分かった。じゃ、いよ」
「いいよって。その顔。いいよじゃない感じだよ、荒波さん」
そう。困ったもので、吹雪の言う通り気持ちは重いまま。気にしていない素振りは上手く出来ていないようだ。俺はついまた黙ってしまった。
吹雪は気を遣ってか、そんな俺から再びバナナを取り、皮を剥いてまた渡してくれた。そして何故か急にこんなことを言う。
「荒波さ。帰り道、危なくないか」
「ん? いや別に」
急に話が変り、俺はよく考えずに答えてしまった。でも不審者や猪の出没など聞かないから、この返事でいい筈だと後追いで思った。
そしてそれ以上吹雪は何も言わなかった。
俺もまだ蓬の事を考えていたから、それで話を終わりにした。
そして俺はバナナの上半分を取って、皮付きの方を吹雪に渡し、二人で一緒に食べた。
吹雪に打ち明けたことで、結局俺は一時元気になった。友達に話すということは大事なのだなと実感する。
それで、気にしているならさっさと蓬本人に聞いて、解決してしまえばいいという方向に気持ちが向いた。
行動的で、いかにも俺らしくない事だが、そこには俺と蓬の仲という大前提がある。何もかも俺の考え過ぎだったと、早く確かめたかった。
その日の放課後、俺は素早く学校を出た。そして、蓬が通る道添いの商店へ向かった。
下校時の寄り道は、学校では原則的に禁止だ。知られて理由を言えなければ注意されるから、内心は落ち着かない。俺が苦手な目立つ事態になってしまう。
そう言えば昨日吹雪から、帰りは危なくないかと妙な質問があった。だからせいぜい気を付けようと思った。
とにかく、他にいい案が浮かばなかったのだから仕方がない。
俺は買い物を済ませ、停めた自転車に再び股がるとその体制で蓬が通るのを待った。店から出たばかりだと装うために、ヘルメットはまだ被らない。吹雪との会話の時といい、最近の俺は心を装ってばかりだ。
蓬が来る筈の方角を気にしながら俺は、前髪がしっかりと額を覆って、お気に入りの状態にあることを確認した。お気に入りとは言っても完璧ではない。俺の前髪が完璧でいた試しはないのだ。
それでも俺は、いよいよ気合いを入れた。また蓬が友達と話していて気付かないなど、防いでやろうと心に決めている。道は狭いのだし、いつもよりもはっきりと名前を呼ぶくらいのことは頑張るつもりだから、きっと大丈夫なのだ。
そうして待っている間に、蓬ではなくクラスメイトの吉川が通った。
「荒波。こっち、珍しいな」
顔、性格、諸々が優れた奴。当然、ヘルメットも似合っている。
しかし想定外だ。蓬の事しか考えていなかった。吉川には一対一だと殊更気後れするから、今は会いたくなかった。俺は早くやり過ごしたくて、最小限の返事をした。
「ああうん。じゃあね」
「じゃあね」
そして一言交わしただけなのに、案の定、自信を喪失する。吉川はこんな気苦労とは無縁だろうと勝手に決め付け、さっきの気合いが削られた。
そんなこんなで予想よりも長く待って、やっと蓬が来た。
遠くからでも判る。
小柄な体に大きなリュックを背負って、自転車を漕ぐ姿。
親しみの気持ちが胸に湧く。
とりあえず、よかった。蓬は一人だ。俺は小さく咳払いをしてから言った。
「あ、よも。帰り?」
しくじった。タイミングが少し早かった。それにはっきりと発音し過ぎた。
「うあ、びっくりした。なんだ荒波か」
蓬は大きく肩を上げて、やたらと高い声で言った。そして自転車を止めると僅かに後退し、俺と距離をとる。
あみと呼ぶことも、してくれなくなっている。俺は即座にショックを受けたが、心を止めずに計画を続行する。用意しておいた、何気ない会話を仕掛けるのだ。
「そう言えばさあ、最近会ってないな。忙しい?」
早口になってしまった。
「うん。結構、忙しい、よ。じゃあね」
蓬も早口で目をキョロキョロとさせながら言うと、再び自転車のペダルを踏み込んだ。
そして、下を向いて俺の前を通って行った。
まだ何も話していないのに。
一度も振り返らない蓬の後ろ姿が、遠くなっていく。
台詞を準備して、偶然を装い、緊張しながら待機したのに。この後、買ったジュース二本を出してどちらかどうぞとやるつもりだったのが。
俺は二秒ぐらいしか、蓬を止まらせることができなかった。
あまりの虚しさで目が眩む思いだった。
周りの物音が遠くなる。
こんなことやらなきゃよかった。
もう帰るしかない。
俺はヘルメットを被ったが、手に力が入らず、顎のベルトの装着に手間取った。その間、また誰か知り合いが通ったかも知れないけれど、顔を上げられなかった。
俺は後悔に苛まれながら家路についた。
安全確認などやれていたか分からない状態だった。
自転車のラチェット音が気に触った。
暗黒の心の中に、棘が散らばる様だった。
そうして半ば無意識に進むと、低い石塀に肘を着いているお爺さんが目の端に映った。お爺さんは、時々こうして庭から通りを眺めている。
こんなに落ち込んでいる姿を、誰にも見られたくはないのだけれど。
「こんにちは」
本当は声など出したくなかった。
「はい、おかえりい」
俺はお爺さんの前を通り過ぎて右折した。
そして心は再び沈んでいく。
蓬のあれは、拒絶だ。
でもどうして。仲良しじゃなかったか。そう思っていたのは自分だけだったのか。いつから。ずっとか。
さっき蓬を呼び止めた俺の声は、宙に浮いたようだった。
去っていく蓬の背中を目で追った俺の姿は、どんなに情けないものだったか。
一体、蓬にとって俺はどんな存在なのだろう。自分で思うよりももっと、ずっと、些細なものだろうか。それどころか、邪魔な者だとか。
楽しかった思い出は、ほとんどが俺の独りよがりなのか。
きっとそうだ。
でもどうして。
いや違うかも。
堂々巡り。
俺はため息をついた。
「ふう」
そして心の中、大袈裟な言葉遣いばかりの漫画の調子で自分を罵った。
すると次は、トタン塀の上から道に庭木がはみ出しているのが見えてくる。これも見慣れた光景だ。そのノウゼンカズラの木化した蔓の塊を避けなければと思い、よろけて片足をついた。元気が無いせいだ。
『お花! 夢みたい! とっちゃだめだよね。ああ、きれいだなあ』
何年も前の夏、蓬が花を欲しがった時の記憶が蘇ってしまった。あの時は別に、何も思いもしなかったのに。だからただ通り過ぎた。
それで蓬は、どんな顔をしていた?
俺が何もしなかったから、今こうなった?
いいやそれはない。
でもこの植物、こんなにはみ出して。住人は何も気にしてなどいないのだ。
採ってやればよかった。
遠い日の花が、今日の事とは関係ないと分かっていながら、俺は余計に落ち込んだ。思い出される夏の色は、この秋の空気にも、この沈んだ気持ちにも馴染まずにいた。
そして俺は何度も、消えたいと願ったんだ ————
荒波は砂浜に寝転んだままで、あの日の重い心を取り戻した。
いつの間にか、潮は遠く引いていた。
†
自室の勉強机に頬杖を突き、蓬は追想する。
———— 荒波がいなくってしまった。
帰り道で荒波に会った日の翌日だ。
学校で、噂話という形で私はそれを知った。
「え、死んじゃったの?」
「ううん、誰もいなかったんだって」
「じゃあどこ?」
「まだ探してるんだって」
私が登校した時、友達の桜と結衣はすでに熱を込めて話をしていた。
「おはよう」
「あ、よもちゃんおはよう。ねえ、爆発あったの知ってる?」
桜に問われた私は、鞄を机の上に置きながら加わった。
「うん。親が言ってた。でも、その家の人は出掛けてたんでしょ」
私は母からそう短く聞かされただけだったから、大ごととは思っていなかった。
振動や音に過敏だと、最近自覚したばかりの私だ。家では電化製品の稼働音を一人気にしている。大型トラックが近くを通ったりするのも苦手で、この特性は私の弱点だと理解している。それで昨日、確かに私はその爆発を感じ取っていた。
家に着き、玄関に入ったところだった。変な感じはしたのだ。ありきたりのものではない感じが。でもいつものように気にしないよう努めた。
そしてその振動の正体は、後で母の話で、爆発事故のものと分かったのだった。
私があの感覚を思い出していると、桜はじれったそうに言った。
「三年生の自転車が倒れてたらしいんだよ」
不意打ちの新情報だった。
私がたじろいでいると、すかさず結衣が桜に聞いた。
「その三年生って誰なの」
「分かんない。でも男子だって。ハンドルがこう真っ直ぐのやつ」
桜はよく通る声で答えた。
二人とも朝から、私とは桁違いのエネルギーだった。でも、身近な誰かの身に何か起こったと思うと、私も眠いとは言っていられなくなってくる。
私は立ったまま、今の話を頭の中に描こうとしていた。
すると近くにいた男子達がこちらに気を向ける。その中の旭が、ペンケースの中をゴソゴソと探りながら言った。
「それ荒波先輩だって」
「え」
桜が反射的に手を口に当てて、私の顔を見た。私と荒波が幼馴染だと知っているからだ。私も釣られて桜の手に目をやる。
そして私は、
「じゃあ、あの、後だ」
と言いうと、動けなくなった。
急に体が冷たくなった気がした。目の前の物が、みんな白黒になった。
あの時荒波が。
顔が青いよ、と誰かが言っている。椅子がガタガタと音を立てる。誰かが私の腕を持つ。いつもなら、荒波とすれ違っただけでからかってくる桜も結衣も、今日は何も言わなかった。
そして私を保健室に連れて行ってくれた。
私が荒波と最後に話したのは、いなくなる直前だった。
帰り道、曲がり角を過ぎてすぐの所で声をかけられた。
学校ではいつも友達と一緒にいるが、帰りは一人。だから気付かない振りはできずに動揺してしまった。
そう、気付かない振りだ。荒波の当惑した様子に罪悪感は持っていたけれど、やってしまっていた。
そして私がそんなふうでも優しい荒波に、ずっとそのままでいて欲しいと思っていた。私は身勝手だ。ずるい子。悪い奴。
でも、私にも訳はあったのだ。
荒波はいつの間にか変わってしまった。
縮こまってしまったのだ。前にもまして家に居たがるようになり、外の行事でも、いつも隅の方で早く終わらせたそうな顔をする。だから私もつまらなくなった。
訳はそれだけではない。荒波の背は急に伸びて、手も大きくなって、声もガラガラしたかと思ったら元に戻らなくなった。男子はみんなそうなると知っているけれど。
なんだか私は、荒波に会うと落ち着かなくなってしまったのだ。
子供の頃の楽しさが戻ればいいのに。私も荒波も自分でいられた。ずっとあのままでいたかった。
そして私は、荒波から逃げる様になった。あの日も、荒波がまだ何か言おうとしていたのを分かっていながら、立ち去ってしまった。
荒波が何を言うのか、怖かったのかもしれない。
あんな優しい、穏やかな表情の荒波を怖がるなど、まるで見当違いだろうにとも思けれど。
それで後で、さすがに悪かったと思った。だから明日は逆に、私から荒波に話しかけに行こうと考えていたのだ。
『昨日、何買ったの? 目を瞑ってジュース選んだの?』と小さな思い出を混ぜ込んで、ふざける予定まで立てていた。その方が許して貰えると思って。そんな計算までしても、私のことだから、結局はうまく近づけずに諦めてしまったかも知れないけれど。
まさか、チャンスさえ無くなってしまうなんて思わなかった。
それにしても、荒波の体はいったいどうなっているのだろう、と、私は後悔の念から一度目を逸らして考えてみる。
小さい頃から知っていて、最近はあまり考えなかったけれど、いわゆる超能力ではないのだろうか。荒波の家族は特異体質と言って済ませているけれど、医者のお墨付きはないらしいのだ。
皮膚については、
「解らないですね」
と言われ、要りもしない軟膏を処方されただそうだ。
木を食べることについても同様だ。異食症の可能性を告げられたが、口の中も胃も、他も何ともないということで、それ以上の検査はしていないのだとか。
でもさすがに瞬間移動ともなれば、特異体質という話では無くなってくるだろう。
最近母が美容院で、荒波に関する噂を仕入れてきた。そこの美容師は、うちが荒波家と親交があるとは知らずに色々と話していたらしい。その中に、荒波にそういう素質があるという内容が。そして荒波のお母さんが思いの外元気そうなのも、この瞬間移動というものを信じているからだろうと囁かれているらしい。
母は、
「綾さん可哀想。無理もないよね」
と言って、瞬間移動など現実には無いと決めつけている。
でも私は、信じてもいいような気がしている。
荒波が木をボリボリと食べるところを、小さい頃から当たり前に見てきたせいか。でもそれだけではない。ニュース番組で特集を組むこともある昨今だ。大体が外国の話題だが、日本人も同じ人類なのだ。
とにかくあの時、荒波が一瞬で何処かに避難できたと言うなら最高だ。皮が分厚くなるのだって、いくらでもやって怪我を防いで欲しい。無人島ごっこをしていた時のように。荒波はよく顔や手足をゴワゴワにして、無頓着に遊んでいた。
それでもなお心配は募る。
超能力はどうでもまだ大人じゃないのに、家族から離れて平気な筈はない。何年も前の泣いた荒波の顔が目の奥に浮かんでくる。
「あみがかわいそう」
鼻がツンと痛くなる。あれから何度目か分からない、後悔の涙が出た。
無視みたいな事するんじゃなかった。
私と話していれば、爆発は他人事だったのだ。
荒波は良い人で、私は悪人だ。
謝りたい。荒波と話したい。
無事だと知りたい ————
蓬は頬杖を解いて、両手で顔を覆った。




