第4章 近道
第4章 近道
シズカはあれから、時々森へ出向くようになった。森はシズカの世界に加わり、暮らしを随分と豊かにしていた。
アカゲと出会った場所には、美味い草が群生していた。
森の小川は、山から一旦南へ下り、緩く西へと流れていた。よく干上がる浜辺の小川とは別で、水が豊かだった。
でもそれだけではなかった。森は美しかった。
「光舞う、オラシオンの楽園でござりまする」
(いい加減に知りたい。オラシオンって何だい)
口をつくオラシオンの台詞らしきものに、思考が応対するのは相変わらずだった。
今もシズカは、森には畏怖の念を抱いている。開けた浜辺とは逆の、閉じられた空間と濃密な空気を感じていた。
そこに友達との時間が加わった。
ある日は真上からアカゲに呼びかけられた。
ある日は初めて会った時の様に、いつの間にかシズカの足元に来ていたキリが、キュッと声を上げた。
友達との関わりはシズカの心を強く支えた。アカゲが「よお、シズカ」と言ってくれるだけで、自分はここにいていいのだと思えた。
それに何故だかシズカは、アカゲも自分を必要としていると感じた。
ずっとこの森で生きてきたアカゲには、キリだけでなく他の仲間もいるだろうに。だが時々確かに、淡白な話し方の奥に、寂しそうな心が見えた。
そんな暮らしに馴染み始めた頃だった。シズカは森を越えて山に登ろうと、支度をして小屋を出た。
支度と言っても、山はそう高くはなさそうだと、オレンジジュースと長袖をリュックに入れただけだった。
手絞りオレンジジュースは手製の竹の水筒に入れていた。食べ物は道中でどうにでもなると思った。
シズカは前日にアカゲを誘ったが、
「山には行かない」
と即答された。
だから初めて森へ行った日の様に、また一人で挑むのだった。
シズカは助走を付け、小川を跳び越えて森を進む。
偶然にアカゲとキリに会うこともなく、静かな世界が続いた。夜行性の生き物達の寝息が聞こえそうな程だった。
ここにはシズカに判る様な獣道は無かった。サルは樹上を渡り歩くし、他に地面を行き交う大きな動物はいないらしい。
例え道が在ったとしても、獣に遭遇するのは怖いと、シズカはできるだけ真っ直ぐに北東の山頂を目指した。
シズカは、初めて見る洞穴や巨木、巨石にワクワクした。所狭しと蝶が集まった水溜りにも。だが、今日のところは全てやり過ごして先を急ぐ。
蔓の群生を避け、湿った窪地の縁を通る。膝丈の枯草の中をガサガサと歩いた時には、周りで一斉に種子が弾け跳んで舞った。
「うおっ」
シズカは慌てて腕を振り、顔周りを払った。
気が付けば、穏やかだった森の傾斜は角度を増してきていた。
太く大きな木はまばらになり、足裏にゴロゴロとした石が当たる。シズカの歩く速度は落ち始める。
(疲れてきた。いつもよく働いてるのに)
山を登る体力は別なのかと考えながら、いつの間にか日焼けした膝上の、いつの間にか少し盛り上がった筋肉を手で撫でる。
疲れの他にも困り事があった。髪がどうにも邪魔でたまらない。これもいつの間にか、目を覆う長さに伸びていたのだった。
シズカは足を止め、半袖の服を額まで脱いで止めた。
上半身が裸で、頭はターバンの出来損ないの姿だ。それでも、視界が格段にすっきりとして良かった。風はターバンとズボンを膨らませた。
シズカはついでに、久しぶりに振り向いてみた。すると眼下に森があった。
シズカは思った。初めて森へ入って行った時とは気持ちが違う。どこで彷徨うことになっても独りぼっちには違いないなどと。
だがやはり、
(このままじゃ人と会えない。記憶の中ですら会えない。そんなのやだ)
と、心が暴れ出しそうになる。それが怖かった。
近頃では、アカゲとキリを見てその想いが余計に膨らむ。だからシズカは、山に登ると決心出来たのだった。
(山頂から見えると言う北側の景色が、助けになるかもしれない。岩場の事を聞いてモヤモヤしたんだ。そこへ行けと言われてる気がして)
葛藤はある。もしも無駄骨だったら。
(でも、行けば気が済むだろ)
気が済んだ後は。
(気が済んだ俺になんなきゃ分かんないんだ。気が済んだ俺に任せんだ。今の俺はただ登る)
そしてシズカはいつものように、考えるのを早々に終わりにする。
「オラシオン!」
呪文の様に唱えた。自分のジェットエンジンに点火する呪文だ。
そうしてシズカは再び登り、息は限界まで上がった。
入り組んだ木の根で凸凹になった足元から顔を上げた時だった。シズカはそこが頂上だと知った。
「やた」
天井が抜けたような開放感があった。
強い風で、髪を抑えていた服が外れて汗が乾く。息はまだ荒い。
「見えた」
木の葉の隙間から最初に目に入ったのは、青く広い北側の海だった。
「きれい」
シズカは登頂の嬉しさに、独り言を続けて発していた。
そして眼下の海に少し見とれた後、姿勢を変えて、木々の間に広い視界を見つけ出す。
(聞いてた通りだよこれは)
山頂は北に寄っていた。歩いてきた南側の道のりと比べると、ほんの僅か先に海が見える。そして、海とこの土地の境界で幅広くあらわになった、縞々の岩場があった。
シズカは次にその場でゆっくりと体を回し、周囲がどうなっているかを見る。まばらな木の隙間で、波がチラチラと輝いている。
一周、全て海があった。
(本当にここ島なんだな)
そしてこれもアカゲの伝聞通り、山の東、南、西の三方を森が取り囲んでいる。北だけが、山の崖から岩場につながる茶色の景色となっていた。
シズカは再度、海へと視線を戻す。深い藍色と白波。どんなに注意深く探しても、見る限り他に島は無かった。シズカは、ここは無人島で孤島なのだと思い知った。
(でもまあ、来られたんだから帰れるさ。日本のどっかに、帰れるだろ。来られたんだからさ。普通、そうだろ)
シズカは最近思いついた薄っぺらの気休めを、心の中で唱えた。
そしてまた北方へ目を向けた。
シズカは長く岩場を見つめていた。
背後から、頭上を沢山の大きな鳥が通り過ぎ、崖に沿って降下して行く。鳥達の影が走るのを目で追うと、それは強い日差しが照らす岩場を突っ切って海に消えた。
するとまた胸に、モヤモヤしたものが湧き上がってきた。
(やっぱり。何かある。なに)
シズカは岩場に下りたいと思った。
でも北側の足場は、来た方とは全く違う。
少し先で木は無くなり、石だらけの荒い急斜面が崖につながる。
どんなに皮膚が厚くなろうと、骨折を防ぐ鎧にはならないだろうから、ここを下りるのは、自分には無理だと思った。
それでも何とか行けないものかと、シズカはもう一度、辺りの地形を確認しようとした。すると一瞬、細い物が目に映った。
気になって、近くの枝をよく見た時にそれは起こった。
「黄色いヘビ!」
悪寒に襲われ強く目を閉じると、胸が圧迫され、シズカは歯を食いしばった。
すると宙に放り出されたような浮遊感が。そして無数の星のような点が、閉じた瞼の中に見えた。
でもすぐに靴底に凹凸が伝わり、足元がぐらつき、夢が消える。
「くっ、わっ、ん」
水の匂いがした。顔に感じる空気が変わっていた。
光は、強く閉じているシズカの瞼を刺す様だった。スニーカーの中が濡れ出したのを感じる。
シズカは細く目を開けた。
岩と海が見える。
眩しさに、忙しく瞬きをしながら周りをよく見ると、辺り一帯には線状の岩が何列もあり、その間を海水が満たしていた。その岩場は少し先で終わっていて、あとは広い海だ。
シズカは唖然として、数十秒ただ立っていた。
そして体を捻り、背後のずっと先に山があるのを見た。
ここは、さっきまで山頂から見ていた場所なのではないかと思った。
でもまさか、でもそう見える。これを繰り返した。
それで要点を絞った。
(さっきは山に居た。ここは山ではない。山は背後)
「ど、ど‥‥ な…… 分かんない」
シズカは、山と今いる場所との間の険しい地形を眺めた。
(何だっけ。そうだヘビ、離れたくて)
思い出だすと、思考が何かに横へ押しやられる。
シズカは息を止めて心に集中した。
(記憶だ)
それは、夜寝る前の歯磨きの記憶だった。
青の歯ブラシで歯磨きをしているシズカに話しかける、優しい声の記憶だった。
『お前も、もしかしたら。多分な』
(あの時お父さんはそう言って、俺の肩を触った)
シズカは思いながら目を見張った。
(俺。ここに近道で来たんだ。お父さん)
寸時前、目を強くつぶった時に見たもの。星に囲まれた中で見たものに、今遅れてピントを合わせた感覚があった。
『オラシオンの籠だよ』
これも記憶だった。
(お母さん。お母さん)
シズカは、また父と母を見失うのが怖くて、
「お父さん。お父さん。近道! お母さん! 籠の先生!」
としがみつく様に、地団駄を踏みながら半ば叫んでいた。
岩の水たまりがピチャピチャといった。
そしてまた、動きを止めて岩場の景色を見つめた。
シズカはあの日砂浜で目覚める前、ここにいたのだと分かった。
シズカは岩場で立ち尽くした。
いつの間にか頭痛がしているし、ひどく疲れてもいる。だが潮が満ち始めていた。
(もう小屋に帰りたい)
シズカは歯を食いしばって目を閉じた。
『近道』で山頂に移ったのだ。
意識してやるなど初めて。でも戻りたい一心で、歩いてきた山を思ったら成功した。自分のしたことに再び驚きはしたが、体調の悪さが前に出る。
シズカは瞬間移動で、岩場に出る直前と同じ地点に足が着いた。
もう迫る波はない。黄色いヘビも見当たらない。安心した途端に立っていられなくなり、シズカはその場に座った。そして、手近にあるものを食べることにした。
シズカは青バナナを、皮と種子ごと齧りながら考えた。
これ以上、『近道』は出来ない。あの感覚に耐えるには疲れ過ぎていて、白目を剥きそうで怖かった。それよりは、来た通りに足で山を降りる方が安全だと思えた。
食べ終えたシズカは立ち上がり、ただ無心で小屋を目指した。景色を見る余裕はなかった。記憶を掻き集めることもできず、両親の像だけを頭に繋ぎ止めた。
そうして森を抜けて、やっと竹が見える所まで戻って来た頃、涙が出てきた。
小屋に倒れるようにして入り込んだシズカは、その夜から、熱の上がり下がりを繰り返した。
†
———— 頭痛い
散らかった部屋 ゲーム機
学校の制服
ああ、頭が痛い
駐輪場の日陰
面倒も楽しみも 小さな悩みも
家族と友達と 蓬と
頭痛い
俺は帰り道で、消えたくなった
そして一瞬の星空
どうして水の中なの
すごく疲れた
服が重い 体重い 瞼も重い
溺れる
海の上を鳥が飛んでった
「誰かオレの所に、話しに来てくれないか。頼むよ」
いいよ
休んでから
鳥達の方に行くよ
目を閉じて
喉乾いた ————
†
「シズカ」
寝込んでから三日目の昼、シズカは熱の眠りから覚めていた。
シズカは寝床に横になったまま、小屋の出入り口に体を向けた。
そこには、青々とした竹を背にアカゲが立っていた。
「どうした。病気か」
頭がズキズキと痛み、シズカはすぐに返事ができなかった。
遅れて来たキリはシズカを見ると、キュッと声をあげてアカゲの尾に隠れた。
「もう、大分いいんだ。初めて来てくれたね」
シズカは久しぶりに呻き以外の声を発した。だから掠れていて弱々しい。
「山へ行くと言ってから、会ってない。それで」
アカゲのテレバシーが気遣わしげな色味を帯びる。
思いやりがシズカの心に染み込む。
「そうか。ありがとう」
シズカはよっこらしょと起き上がった。不思議と気力が湧いてきていた。
アカゲは、勝手が分からないといった様子で中へ入って来た。キリはまだ入り口辺りでモジモジしている。
「食べ物取ってきてやるよ。ヒトは弱い時、何食うんだ」
立ったままでアカゲが言う。
「助かるよ」
シズカは西を指差して言った。
「二つ目の岩の下に穴があるんだ。そこに干し魚が隠してあるから、持って来てもらってもいい?」
それは少し前に見つけた秘密の冷蔵庫だ。常に日陰で冷たく、水も滲みない。山へ登ると決める前に偶然見つけて、食料の保管を始めていた。
シズカが岩の下の穴を思い浮かべるや否や、アカゲは踵を返した。
キリはまだ入り口にいた。
シズカは、キリと二人きりになるのは初めてだと思った。シズカは少し緊張しつつキリに声をかけた。
「キリ、中においでよ」
でもキリは逆に外へ行ってしまった。
程なくしてアカゲがキリを伴って戻って来た。手には頼んだ物と、オレンジもあった。
「ありがとう」
シズカはそれを受け取りながら尋ねる。
「一緒に食べる?」
アカゲは顔の前で手を振った。
「いいよ、お前、食べて力つけろよ」
そう言われてシズカが干し魚をかじると、やっとキリが小屋に入る気になり、近づいて来た。
キリは干し魚に興味がある様だった。そう察して、シズカが骨の少ない部分をちぎってやると、キリは恐る恐る受け取り食べ始めた。
シズカは嬉しかった。
そのやり取りの間に、アカゲはまた小屋を出た。
今度こそシズカとキリは、小屋の中で初めての二人きりとなった。
魚を食べるキリの口から時々キュッと声が出る。美味しいということだろうかと、シズカはキリの表情を見る。キリも、小さな口を忙しくモグモグさせながらシズカを見上げた。
竹の隙間から日差しが降り注ぐ。
シズカはキリと一緒に過ごす時間を幸せに思った。そうして味わう食べ物が、体中に行き渡るのを感じた。
食べ終わった頃、アカゲは再び戻った。アカゲはシズカにと、どこかから芋を掘って来たのだった。
そしてアカゲは、不意に天井を見上げると、
「また明日来るよ」
と言って出て行った。
キリはシズカの足にそっと触れてから、アカゲの後を追った。
視界から二人が消えても、まだシズカは出入り口を見ていた。
すると上から軋む音がした。シズカが顔を向けると、小屋の天井が立たわんでいた。そして、日差しの塊が入って来ていた隙間があったのが、サッと塞がった。アカゲが帰りがけに屋根を直してくれたのだった。
「ありがとう」
シズカは上に向けて言ったが、返事は無くアカゲ達の気配は消えた。
束の間、友達がいた時間の余韻に浸ったシズカは、気持ちを切り替え、立って伸びをした。そして軽いめまいを凌ぐと、裸足のまま小屋を出て、近くの小川へゆっくりと歩いた。
涼しい風が心地良かった。
浜辺の小川は運良く流れていたので、手と顔と首を洗って、口もすすぐ。それからシズカは寝床に戻り、再び横になった。
アカゲのまた来るという言葉は、シズカを優しく包んだ。頭痛は治りつつあり、元気も出てきた。明日は久しぶりに火を起こして、芋を焼こうと考える。
それからシズカはまた眠った。夢を見ては浅くなり、また深淵へと下るように眠入る。
夢は熱に浮かされながら見ていたものと同じで、シズカにおさらいさせるように、場面と気持ちが現れた。
そして、『荒波』は目覚めた。
今日も竹の隙間が輝いている。
戸の内側には芋があった。昨日の芋とは別の。
荒波は、アカゲとキリの後ろ姿が透けて見える気がした。音を立てずに立ち去る、赤と茶色の友達の背中だった。




