第14章 幾つもの力で
第14章 幾つもの力で
昼前、綾はスーパーマーケットで買い物をしていた。
会計を済ませ、使い込んだピンク色の買い物袋に荷物を移す。
荒波がいなくても、家族も自分も食べなければならない。でも綾は、荒波が好きなものを、荒波なしに買うのが辛かった。それで、選ぶのが上手くできず、かえって菓子パンを買い過ぎていた。
(でもどうしようもない。修学旅行に行っているとでも思うしか)
もうすぐ二ヶ月経つのだから修学旅行など。だが、他に仕方がなかった。
買い物の荷物を車の後部座席に積んでいる時に、携帯電話の着信音が鳴った。
綾は荷物に埋もれそうになっている端末を取り出しつつ、買った卵が割れない様にと位置を直す。長くもたもたとしていた。
そして籠編み教室の問い合わせだろうと予想した綾は、画面で相手を確認する事なく通話を始めた。
声は久しぶりの、警察官田上だった。
「以前、南方の竹薮のある無人島と、熱心におっしゃってましたね。なかなかその、こちらも進みませんでしたが」
田上は、歯切れ悪くも親切な声音で話し始めた。
『思いを追う』という捜索で進展があった。
まずは、荒波と蓬が一緒に居る可能性が高いという事だ。記憶を失うなどしていないであろう蓬を、超能力警察官は迅速に見つけ出したのだ。すると荒波と蓬の思考には、一致する要素が著しく多いのだと言う。
(本当にしいちゃん合ってた)
綾は車の脇に立ったままで話を聞きながら、限界まで目を見開いた。
さらに、蓬と思われる方は失踪直後から、地鳴りや噴火の類への注視回数が多く、
「どうも息子さんも、昨日辺りから、その傾向にあると」
と田上は簡潔に話した。
警察はそれを手掛かりに、噴火の兆候が急に高まった無人島に行き着いた。
小笠原諸島の最南だ。
「特に蓬さんの方の意識が、噴火観測の、そのお、グラフに合うんですよ。起伏みたいなものが」
また、噴火に関しては専門の研究機関が調査しているが、そこで飛ばしたドローンが撮った映像が、今日警察に提出された。ある物が写っていたからだ、と田上は話を続けた。
「さっき画像を二枚、送りましたんで、見ていただ‥‥」
「はい、はいもちろんです」
頭も気持ちも付いていくのが困難な中、綾は急いで返事をした。
「電話はこのままで。今いいですか?」
「今、はい」
綾は携帯端末をスピーカー通話に切り替え、田上から届いていた画像を開いた。
上空から、島の一部を映してあるものが一枚。それには、海と砂浜と緑が広がっていた。そして確かに、茂みの中には一塊の竹薮があった。
二枚目は、高度を下げて砂浜に近付いたものだった。白い砂の上に物干しの様なものが置かれていて、服が掛かっている。
綾は画像を拡大した。
「え、これ、あれだ」
目が眩む思いだった。
「こっ荒波のジャージです。これそうだ! よもちゃんの分もある、これ」
電話を切った後の綾は大変だった。
まずは運転席に座り、勤務中の明人に電話をかけた。必要な言葉を言えたかどうか、でも明人はすぐに帰ると言った。
次は小学校だ。迎えに行くからと、繁を早退させてもらえるよう頼んだ。
そしてエンジン点火、ハンドルを握り深呼吸をして、
「オラシオン! お願いします!」
と大声で唱えアクセルを踏んだ。
綾には、スーパーから小学校までの道のりは、まるで膜に覆われた世界のようだった。音は遠く色は薄い。交差点の薬局の、一日中点けっ放しのイルミネーションはいつも通りなのに。
でも、しっかりしなければならない。荒波を抱き締めると綾は決意した。荒波が嫌がっても知らない。
(今日だ。今日!)
小学校の駐車用枠、綾ははみ出たままで車のエンジンを切る。マナー違反だろうが、まともにできそうになかった。
それから、すぐ近くの来客用玄関へ急いだ。
すると廊下の奥の方から、ちょうどランドセルを背負った繁が来た。担任教師の若山に手を取られ、小走りで近づいて来る。
綾には、小柄な繁がことさら小さく見えた。それに鼻血が出たのか、ティッシュで鼻栓をしていた。
家は近く、二人はすぐに帰り着いた。
綾には家さえ膜の中と感じられ、床を踏む足裏に現実味を求めた。
そして、やるべきことを一つでも多くこなす。綾は、スーパーで買ったものをめちゃくちゃに冷蔵庫に仕舞いながら繁に言った。
「警察はもう、荒とよもちゃんがその島にいると考えて、動いてくれてんの。私たちも、いつでも出掛けられるようにしとこうね」
繁は硬い表情で頷いた。綾が出した菓子に手も付けない。
少しおいて、明人も帰宅した。
綾と明人は、まだ取るべき行動が分からなかたったが、島でもどこでも行けるようにしておこうと話した。
綾は、大量の菓子パンを車に積んだ。明人は何故か足の爪を切った。次に綾は、荒波の着替えを取りに二階へ上がったが、先に目についた観葉植物に水をやり出した。明人は、近くのガソリンスタンドに給油をしに行った。
綾も明人も、興奮のせいで的確かどうか分からないまま、とにかく黙々と動き回った。
(あの子達、あそこにいる。それが分かったのは良いけど、よりによって、遠い噴火直前の島だなんて)
そう綾は思った。
すると窓の外に、車からゴミ袋を持って出てくる明人の姿が見えた。綾は一階へ戻り、明人が室内に戻るのを待って問い掛けた。
「繁はどうしよう。一緒がいいけど」
「うん。場合によっては俺一人でも。事が進んだらまた考えよう。繁、ちょっと大変でもみんなで頑張ろな」
繁はまた無言で頷いた。
繁は帰宅からずっと無口でいた。今は漫画を広げてはいるが、読んでいるふうでもない。綾は、能力ゆえかと気遣いながらも、今その詳細を自分から訊ねる余裕は作れなかった。
そして実際のところ繁は、荒波の異様な心境を感じ取っていたのだった。
(兄ちゃんきっと噴火が怖いんだろうな。よもちゃんと一緒でもやっぱり可哀想。よもちゃんも可哀想)
周りは綾のせわしない動きで物音が止まないが、繁りはまるで動く気になれずにいた。
繁は、自分の苦しい気持ちを何かに託したくて念じた。
(時々、そっちにもう一人おれがいるみたいな感じがするのは何なんだ。そっちのおれ、何とかしてよ、お願い)
そこで、下を向いていた繁の背に綾が手を当てて静かに話した。
「しいちゃん、警察からまた電話あったの。これから、東京の消防署にみんなで行くから、上着取ってきて。荒のゲームも持ってっていいよ」
繁はなんとか立ち上がった。
繁はトイレを済ませると玄関へ行ったが、明人も綾も見当たらなかった。物音もない。もう外に出たのか、まだ部屋にいるのかと繁は少し探した。
二人は、和室の神棚の前に立っていて、じっと手を握り合っていた。
†
繁は車の後部座席で、ぼんやりと考える。
———— 家から東京へは車で二時間かかるって。
いつもは旅行で走る高速道路だ。でも今日は窓の外も車の中も、全く違う世界に見える。
最初のうちは助手席でお母さんが、消防署やよもちゃんのお母さんや、いろんな相手と電話で話していた。
「はい、はい。はい。そうです、荒波はその、瞬間移動できると思います。‥‥ はい、多分父親からの‥‥ はい」
その電話を切ったお母さんが、お父さんに説明した内容はこう。
ドローンをまた島に飛ばすらしい。今度のは消防署の物で、カメラの搭載だけでなく、音声のやりとりもできる機体だ。それを使い、遠隔で兄ちゃんたちを探す。見つけたら状況次第で救助方法を決める。
「レスキュー隊が船で行ってくれる。あと、自動運転の無人船も。有人船よりスピード出るんだって」
と、綾は明るく言った。
「さっき瞬間移動のことを言ってたのは? 何の話で?」
運転しながらお父さんが聞く。お父さんは車の自動運転機能をあまり使わない。
「レスキュー隊が島に上陸できない場合に、荒が、その、近道で船に移れればって。まあ念のために聞かれただけだよ」
話を区切るとお母さんは、おれにチョコパンを勧めてくれた。でもおれは、今はいいと断った。お腹が通行止めになっているから。
それでも、お母さんが車に持ち込んだ、大きなピンク色の買い物袋の中を見てみた。
中には兄ちゃんのもある。苺クリームが挟まっているカステラみたいなやつだ。
おれはパンから目を逸らした。
お父さんは小声で「きしょう。させっかよ噴火なんか」と言った。
少しするとまたお母さんの電話が鳴った。
「‥‥ 消防署でね‥‥うん」
と言って、お母さんは割とすぐに通話を終わりにした。よもちゃんの家族も出発したという連絡だったらしい。
そして車の中は静かになった。
そうなると、おれは嫌でも、兄ちゃんの気分を感じ取ってしまう。いや、違う。おれもう分かんない。兄ちゃんもよもちゃんも混ぜこぜの、大勢の気分が塊になっているみたいに感じてしまう。何かおれ、潰されそうで怖い。
怖いばかりで何も出来ない。おれは頭をブンブンと振った。
車の窓の外の景色は、いつの間にか都会に変わっていた。お父さんはいつもよりもスピードを出していた。
高速道路から海が見えてきた。
少しの間眺めていると、車は出口へと逸れて一般道へ降りた。信号待ちで止まっている間、久しぶりの静けさに耳がブーンと鳴る。
そこで、ラジオが速報を伝えた。
「‥‥ が、先ほど噴火したと言うニュースが‥‥ 」
お父さんもお母さんも、聞こえていても何も言わなかった。
「‥‥ 島の山頂より噴石の飛散が認められました。現時点で‥‥ 」
お父さんはあえて運転に集中していて、お母さんはそれを邪魔しないように努めていたんだと思う。ずっと何も言わなかった。
信号は青に変わり、お父さんは車を進めた。
おれは泣きたかった。また怖い何かが頭に入って来そうだ。でもその時、どうしても感じてしまった兄ちゃんの気持ちは、思ったものと違った。
兄ちゃんが、怖がるよりも悲しがっている気がした。もしかして、よもちゃんと離れてしまった? いや、違う気がする。
「無人島のお友達とさよなら」
おれはそう感じて、つい声で言ってしまった。でもそれがどういう事かは分からなかった。
分かりたくなかった。ただ兄ちゃんが可哀想だった。そこで、
「着いた」
と言い、お父さんは車の速度を落として左にハンドルを切った。
東京で一番、港に近い消防署だ。おれ達はひとまずここで待機する。
敷地にはヘリポートもある。こんな時でなければ、おれは楽しんでいたと思う。
お父さんは、建物の入り口のすぐ近くに車を停めて言った。
「現状を聞こう」
おれは慌てて、脱いでいたスニーカーを爪先に引っ掛けると車を降り、お父さんとお母さんから離れないようについて行った。
消防署の扉の内側は、人の話し声や物音、テレビの音声なんかでガヤガヤしていた。紙や、パソコンから出る匂いも。照明はやけに明るく感じる。
あまりにも、家族の車の中とは別世界だった。
事務カウンターで、お父さんが人に声をかけた。お父さんとその人は、何度かおれの方を見たりして、また話している。
お母さんも話に加わりに行った。
「お願いします。荒波はまだ中学生なんです」
お母さんは多分、話をややこしくさせないために、自分の心と口のブレーキを両足で踏んでいると思う。
皆んなの言葉や顔から分かるのは、兄ちゃんの捜索が緊迫しているということだった。
理由は、警察が兄ちゃんの居場所に目星をつけた時に予想したよりも、ずっと早く噴火が起こってしまったからだそうだ。それで大勢の消防署員が動いてくれているらしかった。
「ええ、はい。それに噴火の主力が、山頂から北の海中にずれたんです。今向かっている無人船が、波で軌道を外れました。すぐ調整するので」
カウンターの人は、パソコンを見ながら忙しそうに言った。
「自衛隊も出ます」
これは部屋の奥の職員が言った。
その時、不思議だった。おれの口が勝手に動いた。
「兄ちゃん来る」
言ってしまったけれど意味は分からない。ただ、何かに引っ張られる感じがある。でもこの場の誰も、おれのことなんか気にしていない。
お母さんは結局、騒ぎ出している。
「もう、あっちゃん近道やって! 竹見えたらさ、言ってよ私押すから!」
「ああ俺行くよ!」
お父さんの心も、さすがに走り出している。
お父さんがお母さんに背中を向けた。お母さんはもう、お父さんの背中を押しそうだ。
そこでおれはまた変な感じがして、余所見から引き戻された。
「違うよ」
また口が勝手に喋った。
誰かに頭を乗っ取られたみたいに、一人で場違いな状態になった。
「兄ちゃんここ!」
そして両目から涙が溢れ出した。恥ずかしいけれど、そんなことに構っていられない。お腹に力を込めないと、奈落に落ちてしまう気がして怖かった。
俺は、蜂の大群の様な大人達の足元を離れて、ヨロヨロ、壁際の空いている長椅子へ歩み寄る。
でももう駄目だ。足に力が入らない、涙が出る、これ何なの、
「ん兄ちゃん! んここ来て!」
落ちる!
「ううああ!」
「くあ」
「ギュン」
床に座り込んで、上着で涙を拭いたおれ。
目の前によもちゃんがいた。
おれが向かっていた、空いていた筈の長椅子にいたんだ。髪がボサボサだけど、よもちゃんだ。
もう一人いる。でも誰か分からなかった。よもちゃんに乗っかってて後ろ向き。汚い。
おれの鼻に、何かが燃えたような匂いが入る。
「しいちゃん」
よもちゃんがおれを見て呼んだ。
もう一人の誰かも、ゆっくり頭を動かし出していた。
大人達は匂いで気付いたのか。周りが急に少し静かになった。
「蓬ちゃん! あ、あ、荒波!」
お母さんの声だ。
「おお母さん! お父さん! しいい!」
これは兄ちゃんか。あの人、兄ちゃんか。
後は、誰がどの言葉を言ったのか分からない。
やった、成功だ、帰れた、荒波、帰ってきた、蓬ちゃん、近道で帰ってきました、ここに居ます、ここに、ここに居ます、荒、荒波、荒波。
お父さんは多分、三メートル程、兄ちゃんの所へ瞬間移動したと思う。俺の前に急に背中が現れたんだ。
そしてもう、大きなお団子。みんなが固まってこんがらがっていた。
さらにその大騒ぎの中、よもちゃんの家族も到着したから、もっと混乱と喜びが広がった。
おれなんて、ぎゅうぎゅうと押し潰されるかと思った。けれどその時、予期せぬ気持ちよさを味わった。
フワフワの毛が顔に触ったんだ。
みんなの隙間に小さなサルがいた。ぬいぐるみみたいだけど、黒い大きな瞳をゆっくりと動かしていた。
「お前」
呼び掛けると、子ザルもおれを見た。
そしておれは、さっきおれを強く捕まえていたのは、この子だったんだと分かった。何で分かるのかっていうのは分からないのだけど、思ったのではなく、おれは分かったんだ。
時々兄ちゃんに会っているように思えた理由も、不思議だけれど、この時に分かった。説明できないのは、きっと、おれがまだ小学二年生だからだろう。
家族達にもみくちゃにされたおれを、消防署の人は引っ張り出して救ってくれた。すると、こっちもまた大騒ぎになった。いつの間にかおれの肩に子ザルがいたんだ。軽すぎて気付かなかった。
もうおれは疲れて、お父さんの車で休みたくなった。チョコパンを食べながら。
ヘリコプターも消防車も、今ならいい気分で眺められると思う ————




