第11章 山
第11章 山
翌日、朝のうちに雨は上がり、気温も徐々に上がった。
荒波と蓬は腹ごしらえを済ませると、その他の家事を分担してやった。荒波は衝立の補強や火の始末。蓬は二人分の服の洗濯だ。
蓬はついさっき、近くの小川から戻って来て、竹藪に置いてある物干しへと歩いて行った。そして再び茂みがガサガサと音を立てている。荒波が見ると、蓬が何か運んでいるようだった。
「竹薮はまだ湿ってるの。物干し、砂浜に出すね」
「おう」
荒波は釜戸の作業を途中にして、竹製の物干しを担いでいる蓬に手を貸しに行った。
今までは、いつも小屋の裏に置いていた物だ。どこに干してもいつかは乾くから。だが確かに、広々とした砂浜で乾かした方が気持ち良い、真水で洗うのもいい、と荒波は感じ入る。
蓬の働きで、無人島生活の質は日々向上しているのだった。
そして二人はそれらの作業が済むと、昨夜話した通りアカゲに会うために森へと出発した。
すぐ戻るつもりだから手ぶらだ。HELPの文字を描くのも、その後の予定としていた。
二人歩き出すと、重い空気が荒波を取り巻き出した。
蓬の表情が暗いのだ。
足音がやけに響く。思えば、蓬は朝からずっとキビキビと働きながらも口数が少なかった。
(何か俺に怒っているのでもなさそうだけど、何だろ)
荒波は思い切って声をかけた。
「なんか、元気ないね」
言うのと同時に、昨夜の蓬の不安気な様子を思い出したので、
「あ、小さい地震、またあった?」
と付け加える。
すると横を歩く蓬が顔を上げずに言った。
「うん。また多くなってる気がして。強くも。荒波はやっぱり感じないの?」
荒波は心苦しい気持ちで言った。
「感じないんだよな。でもそう言えば、今日は緑の鳥がいないと思ったんだけど、関係無いかな」
荒波から表情は見えないが、蓬は今度は、
「小屋の岩もさあ。なんか、温度高い気がしなかった?」
と言った。
「そうだった?」
荒波はどれも分からなくて困った。
それでとにかく早くアカゲと話せればいいと思い、心の中でアカゲを呼んだ。むやみに大声を出して他の生き物に嫌われたくないから、アカゲかキリが気配を読んでくれる事を期待しつつ、荒波は繰り返し思いを投げかけた。
「よお。散歩か」
呼び掛けは功を奏して、程なくアカゲの返事が頭の中に鳴る。
「アカゲ、話したいんだ。会えるかな」
今の時点で話せてはいるが、会った方が楽なのだと以前アカゲは語っていた。
荒波たちは、いつもの倒木よりも山へ近づいた地点で行き合った。
アカゲとキリは今日も、枝渡りの練習をしていたようだった。
キリが目一杯腕を伸ばしてこちらへ来る。アカゲも荒波たちと顔の高さが合う低い枝まで降りて来た。
荒波は早速、蓬が話した内容を伝えた。
「俺は感じないんだけど気になったからさ。アカゲの、山が震えるって言うのと同じかな。それ増えて来てる?」
アカゲはチラッと蓬を見て、
「アラナミよりも勘がいいのか」
と言った。
「う、え?」
狼狽える蓬を見て、荒波は不思議に思った。
アカゲは構わず続けた。
「ああ、急に間隔が狭まってきたよな。仲間も騒いでるよ」
「アカゲ? これアカゲが言ってるの?」
蓬が話の腰を折る。
「そうだよ。どうした」
何を騒いでいるのだろうかと、荒波は蓬を怪訝に思った。
「私も超能力者?」
荒波は、アカゲが話せるということを、蓬はとっくに知っていると思っていた。説明しなかっただろうかと少し焦る。でも今は話を進めたかった。
「これ、アカゲの能力なんだよ。よもごめん、後で驚いて。アカゲ、仲間と話したのか! そうか。それで何だと思う?」
「ああ。みんな、山の中に力が籠っていると言ってる。そのうち暴れ出すと」
「わ、私もそうお、思います」
蓬は声がうわずったが、勇気を出した感じで会話に入って来た。
蓬はアカゲと初めて話すのかと、荒波は心配して蓬の顔を見た。すると頬に二筋の涙が流れていて、蓬は口を歪めていた。
「あ、あ、ごめんよも。俺、ちゃんとアカゲのこと話さなきゃいけなかったね」
「ううん。ちが、う」
慌てる荒波と泣いている蓬の間にキリが来た。
キリは蓬の足をスルスルと登り、蓬は無意識にかキリを抱いた。
「アカゲさん」
蓬が呼ぶと、アカゲは無言で顔と体を蓬に向けた。
「仲間を集めてください。みんなで、山の力を、あっちに。あの、お願いします」
蓬は北の方を指して言った。
荒波とアカゲは思わず顔を見合わせた。
「何だって」
「よも、どういうことよ、それ」
蓬の涙はもう止まっていた。
突然蓬は何も知らずに、アカゲに仲間を集めてと言った。それで荒波は、話の中身は理解できていないが、とにかくアカゲがばつの悪い思いをするのではないかと気を揉んだ。
すると、蓬がさらに度外れた事を言った。
「この山はもうすぐ噴火する。そ、そうなったら逃げる場所なんて無いでしょ。もし生き延びても、森が燃えて灰が降って、食べ物も何も足りなくなっちゃう。だからそうなる前に、出来るだけ多くの気持ちを集めて、噴火口を移そうよ」
噴火だなんて、と荒波はいつになく高速で考えた。アカゲに向かって、いきなり蓬が冗談を言うとは思わないけれど、ならこれはやはり本当の話なのか。蓬の超能力が島の異変を感知しているのか。
でもそれだけでなく蓬は『気持ちを集めて噴火口を移す』と言った。荒波はとても話について行けない。
荒波は、アカゲの顔を見る余裕もなく聞いた。
「噴火するの? でも何、移すって」
蓬は濡れたままの目を見開いて言った。
「北の海底に、もう一ヶ所出せるところがあるの。そっちに変わるように、念じるんだよ。みんなで同時に! だって少しはいいでしょ! このまま山で噴き出るよりいいでしょ。だから早く! 荒波アカゲお願い!」
叫ぶように話した蓬は、終わると一瞬、気が遠退いたのを堪えたような表情をした。
荒波は困惑して、蓬の腕を掴んで支えながらアカゲの顔を見た。
アカゲは強い目で蓬を見ていた。そして踵を返すと、いつもより数段速く森の奥へ消えていった。
荒波がまだ呆気にとられて立っていた時、足裏が突き上げられた。地震だ。大きくはない。でも、周りを取り囲む木々の葉がたてる音が恐ろしげだった。
「近づいてる。私、もっと早く言えばよかった。間に合わなかったら」
蓬はまた泣きそうな顔をして、荒波を見上げながらキリを抱き直した。
でもその動きの途中で、キリは蓬の腕から跳び降りた。荒波が目で追っている中、キリはアカゲが走って行った方向に地面を蹴ると、その場でじわりと消えた。
キリは文字通り消えたのだが、荒波はそれを一旦無視した。心が忙し過ぎる。
「よも、いよ、大丈夫だよ。俺、なんか分かんないけど、どうしたらいい?」
荒波が聞くと蓬は、表情を引き締めて言った。
「岩場の向こうの海に、噴火の力が行きますようにって。押すの。押す感じ! そうお祈りしながら、アカゲが行った方に私たちも行こう」
二人は走り出した。
木々の間を縫い、洞穴を過ぎる。
蓬はこの森に慣れていないし、またいつの間にか泣き出しているしで進みが遅いから、荒波は蓬の手を掴んだ。その瞬間つないだ手から、空気や、地面の奥の圧力みたいなもの、そして、蓬の噴火口を移そうと祈る心が荒波に流れ込んできた。走る荒波の目は現実の森を見ているが、そこに半透明の、蓬が見ている世界が重なる。
蓬の祈る心には、不安定な強弱があった。弱まると、山頂を目指して赤い川が昇る景色が現れる。するとまた蓬の祈りがそれを押し下げる。蓬は、下へ、北へと、力を加えている。
「あみも祈って」
絞り出すような蓬の声。
「分かった」
でも分かったとは言ったが、いまだに荒波に主体性は無い。こうして走っているのも、蓬の迫力とアカゲの素早い行動に引きずられているだけ。
いったいどういう事か。蓬は荒波の知っている泣き虫のままなのに。
荒波は混乱したまま走る。
また蓬の手から荒波に、山へと向かう真っ赤な川の姿が入って来る。荒波は何とか、『噴火口を北の海へ』と心の中で唱えた。こういう感じでいいか自信を持てずにいた時、蓬の祈りとつながる感じが恐怖心を和らげた。
きっとこれでいいのだと荒波は思った。
そうして、危なっかしく二人で走り続けて少し経った時、辺りから異様な雰囲気が感じられ始めた。サルの姿があちらこちらに見えるのだ。多い。荒波は今まで、アカゲとキリしか見た事がなかったのに。
サル達は時々、キーッと声を上げたり、手を叩いて音を出したりしている。何だか怖い。人間はこの中に入って行っていいのだろうか、そう荒波が怖気付いていると、
「アラナミ、ヨモ」
とアカゲの呼び掛けが頭に入るのと同時に、ブォッという声がした。
そしてその声を頼りに顔を上げた荒波は、高い枝にアカゲとキリの姿を見つけた。
荒波は、消えたキリがアカゲといると分かり、一つ安堵した。
「森全体に情報網ができていたから、同族には伝わったよ。それに多い方がいいんだろ。カラスやらネズミやらにも言っといた」
アカゲは、ハッと小さく笑ってから、「ヘビにも」と付け加えた。
「ありがとうございます」
蓬は息を切らしながら言った。
「ただオレの言う事を、どのくらいの奴がやってくれるか」
「でもアカゲ見て。凄い数だよ」
荒波は興奮気味に言った。話している間にも空間がサルで埋まっていく。
アカゲは辺りを見渡し、呟いた。
「まさかこんなに」
そしてアカゲの視線はある一点で動きを止めた。見れば、少し離れた所の苔むした巨石に一際大きなサルがいた。鼻がまた大きい。
そのサルも、アカゲを見ている。
「ハナだ。ハナからも頼んでくれた」
そう言ったアカゲの様子に親しみが滲んでいた。それはどこか、自分に対するものとは違うと荒波は感じた。
「アカゲさん、あとは皆で、向こうの海に噴火す、る、様に、うう、祈ってください」
蓬が言っている最中、また地震が起こった。
これは長く大きかった。ハナが乗っていた巨石も目に見えて動き、近くにいた他のサル達諸共に飛び退いた。
そして木にしがみつく者、地面に伏せて目を見張る者達の中、荒波と蓬も腕を持ち合い、膝を曲げて凌いだ。
「山の向こうの海に、山の力を動かせ!」
呆然としていた者達の意識を、アカゲの強い想いと咆哮が破いた。
「みんな、一緒に唱えてくれ! 山の向こうの海に、山の力を動かせ!」
アカゲは拳を握り長い腕を北に向けた。そしてすぐに枝を跳び移り、尾を振り回し、集まったサルたちの間を駆け回り、声と思いを張り上げた。
その迫力に空気が変わった。
アカゲに応えるように、他のサルたちも吠え始めた。
それは最初は騒音だった。だが無秩序な騒がしさは、次第に揃っていく。異様な雰囲気だった。荒波には怖くて、でも美しかった。
跳び周るアカゲの姿も、怖くて美しかった。そして、
「これ、何」
と、荒波と蓬は顔を見合わせる。
野生の知恵か。いつの間にか、サルの多くが山の方を向いて体を揺らしていた。
声はもやは歌の様になった。サル達は胸を膨らませたり、腹を引き締めたりして歌に抑揚をつける。前後に左右に揺れ、頭を垂れ、のけ反った。
「山の向こうの海に、山の力を動かせ! 山の向こうの海に、おお、山の力を動かせ!」
地中のとてつもなく大きな力が、祈りの力に押される。ゆっくりと。少しだけ。でも着実に。そんなイメージが蓬の手から荒波に伝わる。
だが、地震がまた起こり祈りの歌が途切れてしまった。
再び動揺が広がる。警報の様に鳴り響くサルの声。辺りは、一度芽生えた結束を失って混沌とした。
すると蓬が荒波の手を離した。そして、騒ぐサル達が塊になっている場所に入り声を張り上げる。
「噴火は止められない! でも、山から海に動かそう! 祈るしかないのではなくて、祈りで、移せると! 信じて! やろう!」
まるで別人だと荒波は思った。聞いたことのない、蓬の強い声。蓬の全力。
だが突然現れた蓬を、サル達は警戒する。眼差しは鋭い。
それでも蓬はやめなかった。
「一緒に! お願い!」
言って蓬は土に膝をつき、山に向かって祈るような格好をした。
危なくないか、と荒波は不安になった。自分が、柔らかな蓬の鎧になろうかと一歩出る。でも気づけば、蓬の周りをアカゲが距離を取って巡っていた。どうやら、仲間が蓬に危害を加えないよう、牽制しているらしいと荒波は見た。
「ヨモは山と話してる! 森を救おうとしてる!」
アカゲの言葉が荒波にも来る。
反感を持った様子のサルが、巡ってきたアカゲに手を伸ばすのが見えた。だがアカゲは体を捻って躱し、顔をそのサルに向けて対峙する。手を出してきた方のサルは即座に退き、目を逸らした。アカゲは深追いせず、他のサルをまた巡る。
荒波はアカゲの本当の強さを感じた。人間を守って仲間に敵視されても、蓬を信じた行動に迷いが無い。そんなアカゲにみんなが気圧されているのが荒波に伝わってきた。
蓬はアカゲに守られ、今も大声で訴えている。
(じゃあ俺は。どうしよう。どうしよう)
荒波は恐怖を募らせながら考えた。
———— 待ってよ。
俺逃げたいよ。
サルも地震も怖い。
せめて、山から少しでも離れたいよ。
あの砂浜に帰りたいのに、蓬はここで頑張り続けている。
何故蓬は逃げない。俺はこんなに逃げたいのにどうして。
「んがっ」
また地震だ。
確かに、噴火してしまったら砂浜も何も、逃げ場など無くなってしまうかもしれないけれど。
怖い。でもよもを置いて逃げられない。誰か助けてよ。
不意に見上げると、少し先の木の上で、何匹ものサルがあちらこちらを向いているのが目に入った。
きっと祈っていない。
シズカ助けて。
俺は相も変わらず、自分自身だと認めきれない少年の名を呼んだ。それで勇気が出た訳ではないけれど、俺は目を閉じ、そのサル達がいる木をめがけて心を踏み出した。
ガサッ。俺は必死に細い幹にしがみつく。揺れながら辺りを見ると、サル達が顔をこちらに向けていた。突然現れた俺を見る目に敵意が浮かぶ。
勢いでやっちまえ。怖くても構わずに俺は息を満たした。
「山の、山の向こうの海に、山の力を動かせ。山の向こうの海に、山の力を動かせ!」
やっと荒の本性が出た、いや無理矢理だ。サル達に伝わるかどうかも分からない。ただこうして叫んでいないと、無意識に、一人で近道で逃げてしまいそうだ。
俺は北を指差し、力一杯に祈りを繰り返した。
「山の力を動かせ、山の力を動かせえ!うあああああ! 」
力がみなぎり気持ちよくなる。
すると通じた。あのサル聞いてくれた、俺と同じ動きで応えている、いいぞもっと。生まれて一番の大声だ。蓬に思ったのと同じで、自分の声ではないみたいだ。無人島だとしても俺がこんなことをするなど。
シズカ。
『シズカとアラナミは、一人だよ』
こんな時なのにまたアカゲの言葉が浮かぶ。あの誠実な眼差しも。
そうだ。全部俺だ。ちくょうが当たり前だろうに。依然、怖がりの俺も恥ずかしがりの俺も、叫ぶのを止めに入るが無視だ。山の力を動かすのだ。だってそうだ、必要だからやるんだ。蓬と力を合わせる。
「山の力を動かせ!」
高い所の一塊のサル達が、バラバラの奇声で調和を乱しているのに気付いた。団結して揺れていたサルを邪魔しているようだ。一体何が気に入らない。
俺は一段跳んでサル達の枝に近づく。サル達は俺を囲んだが、俺の事を嫌がるように目を逸らし、やはり奇声を上げる。
「う俺に注目しろあ!」
俺は、サル一頭一頭に顔を近づけ喚き散らした。
「なあ祈ろう、山の力を動かせ! なあ!」
するとサル達は、山の方へ向きを変え揺れ出した。気持ちが伝わったと思った。
俺はまた祈りを繰り返した。
すると今度は、落ち着きなく枝の上を行ったり来たりしていた黒いサルが、俺に向かって目と口を大きく開けた。俺に怒っている。それでも俺はまた、
「祈ってくれ!」
と掴まっている木を揺らして叫んだ。するとサルはさらに目を見開き、そして跳んで来た。
襲われる!
躍動するサルの全てが怖かった。黒いサルの顔が迫る。荒い息がかかる。俺の心は真っ白になった。こんな恐怖現実なのか。受け入れなきゃ駄目か。無理だ。
だが木が大きく揺れたせいで、遠のきそうだった意識が戻った。俺は咄嗟に体を捩ってサルの爪を躱し、枝を渡って逃げた。何も考えてはいない。手足の運びはめちゃくちゃで、今にも落ちそうな危うさ。怪我を防ぐのも間に合っていない。必死に木を掴み、手が何ヶ所も切れたのを感じた。
痛い。こんなの慣れてないのに。
でも近道で地上に降りるには、心のゆとりもまるで足りない。無意識に何処かへ移動してしまうことも起きない。自分だけで逃げたりしないという誓いが、枷になっているのか。そうならなんて不便な。
いよいよ動きが止まった俺に、黒いサルはいとも簡単に追い付いた。
そしてサルは掴みかかって来た。強い腕は激しく俺の体を揺さぶる。視界がぶれる。さらにもう一頭、呼応したサルが近くの枝に飛び移ってきて、
「クアンクアン、クアンクアン!」
と高い声をあげた。
俺は全身で木にしがみ付きながら、サルの爪が肩に食い込むのを感じていた。盛り上がる皮膚も後手にまわり、太刀打ちできていない。
「クアンクアン、クアンクアンクアン!」
高い声のサルは、一頭、二頭と、祈っていた周りのサル達の気を引きはじめる。
「クアンクアン、クアンクアン!」
痛い。怖い。サルが重い。これ以上耐えられない。助けて。俺泣いてる。情けない。すごく怖かった。そして孤独だった。でも、蓬も向こうで頑張っている。
「くっおオラシオン!」
俺は勇気の呪文を唱えた。そして泣き震えながら、黒いサルの腕を掴んだ。
「うぐう」
サルの体温。それを引き離す。怪我が熱い。サルは一歩程の枝に退く。
不意に俺は、自分の体がサルよりも遥かに大きいという事を思い出した。そもそも、戦うつもりなど無かった。でもやらなければやられてしまう状況だ。
俺の身体中をアドレナリンが駆け巡った気がした。
「何か悪いか? 島を守って悪いことあんのか? あんのかよお!」
サルはバネのようにまた戻ってきて、俺の顔に牙を剥いた。
俺は思わず木から手を放し、サルと取っ組み合いになる。一緒に落ちる。俺はサルの顔面を押し戻しながら空中でも祈りを訴えようとした。荒の暴走で命が放ったらかしだ。
「いっしょに、ぐ!」
その時、黒いサルごと何かに突き飛ばされた。落ちて地面に叩きつけられる直前の、横からの衝撃。そして体の下で朽ちた倒木が粉々に砕ける。
次いで黒いサルが俺から跳び退く。体が痛い。でも最低限のダメージだと感じる。
すぐには状況が飲み込めなかった。
あの大きなサル、ハナが近くにいるのが見える。
黒いサルは、ハナの向こうからまだ俺を見ていたが、ハナにもちらっと目を向ける。
するとハナは、黒いサルに向かい手や表情を動かして、怒りとは違う様子の声を発した。ハナは、懐柔しているのか。黒いサルの鋭い目が緩んでくる。そして威嚇を引っ込めた。
俺は樹上の、高い声を上げていたサル達を見上げて位置を測った。ハナは争いながら落ちる俺達に体当たりして、ボロボロの倒木へ飛ばしたのだ。命を救った。でもサルなら身を翻して難を逃れられないだろうか。ハナは俺を助けたのか。
そう思いを巡らせていた俺には顔も向けずに、ハナは黙って跳び去った。
とにかく俺は、例の体の欲求に応えるべく、手近にあった篠や若木を貪り食べて急場を凌ぐ。すると黒いサルがそんな俺を見て、怯えた様な顔をした ————
そして黒いサルは、周りに合わせてい小さく揺れ出した。
あちらこちらの、元から祈り揺れていたサルたちは、黒いサルが加わったことを気にする様子を見せる。
サル達の歌は、黒いサルの力で格段に揃って強くなったと、荒波は感じた。
†
アカゲが集めた生き物達の祈りは、島全体の、無数の住民を巻き込んでいった。
想いがつながっていく。
木の根元の草の中、小さな生き物達も北を見ていた。
そしてサル達の歌は、もう地震で途切れることはなく、繰り返し強さを増した。
もはや、森が歌っているも同然だと荒波には思えた。
そうして膨れ上がった力は厚く、揺るぎなく山を取り囲んでいく。荒波にはそれが見えるように感じられた。
(凄い)
荒波は圧倒されていた。
そして、目を閉じて踏み出し、蓬の元へ戻る。
方向感覚をすっかり失い、荒波は無意識に、蓬を目的地にした。そういうやり方は初めてだった。
だが肩の痛みが荒波の心を乱した。近道は窪地の空中で終わり、荒波は短く落下した。冷たい土が荒波の顔を打つ。頬で、さっきまでの涙と土が混じった。
荒波はなんとかめげずに起き上がったが、サルへの恐怖で強張っていた筋肉が震えていた。
荒波が歯を食いしばり周りを見ると、蓬はすぐそこで苔の地面に膝をつき、こうべを垂れて祈っていた。それをサル達が囲み、揺れている。
荒波は這ってサル達の隙間を通り、蓬の傍に辿り着くと手を取った。状況を知りたかったのだ。
集中しているのか蓬は反応しない。
手からは今も、地中で大きな塊を押すような力が伝わってきた。
荒波が祈りに復帰すると、蓬が手に力を込めて、
「もっと! もっと強く!」
と低く吠えるように言った。
荒波も蓬も、サルたちの動きや声に溶け込んだ。そうしようと思わなくても、みんなの力に抱き込まれたように自然とそうなった。
「山の向こうの海に、山の力を動かせ。山の向こうの海に、山の力を動かせ」
熱い塊を向こうへと押しやる。これでいいのかなど、迷いや疑いはもう無い。
アカゲは大勢のサルの中で、飛び回り続けていた。みんなの心を煽っている。強い思いと太い声、両方を最大に発している。そんなアカゲは、いつもよりも真っ赤に見えた。まるで火の玉だ。アカゲが通ると生き物達の祈りは揺さぶられ、より強くなった。
怖い筈が、不思議な恍惚感に荒波が触れた時だった。
視界の端で、アカゲの動きが突然止まった。サルたちの歌もピタリと止んだ。
そして蓬は、祈る姿勢のまま絶叫した。
「ふあああ!」
ほぼ同時に、一際大きな地震と、空気を震わせる音。
(怖いよ)
すると再び蓬が言った。
「噴火した! どこ」
(噴火した?)
荒波は蓬の言葉で山を見上げるが分からない。ただ地鳴りばかりだ。
「来る!」
これはアカゲの思いだ。それにサルたちの高い声が重なる。
(何が)
山を見上げていた荒波の目に映ったのは、幾つもの動く光だった。あんなものは見た事がない。
(夢の様に綺麗だ)
そう荒波は思った。恐怖を自分から切り離したかった。黒いサルが跳び掛かってきた時と同じに意識が遠退く。もうそのままにしたかった。
「バオウ!(火が飛んで来る!)」
猛獣の様な、アカゲの吠える声がした。
生き物たちはすでに動いていた。枝を渡る。ぶつかり合い落ちる。地面を駆ける。そんな中でじっとしている程には、荒波は自分を捨てられなかった。とにかく山から離れなければならないと、荒波は心を現実に戻した。
荒波は、繋いでいた蓬の手を引っ張り、一緒に立ち上がろうとした。でも何故か蓬はそうしようとしない。もう噴火してしまったのに。
「ねえよも! もう行かなきゃ」
荒波にこれ以上蓬を待つことは出来なかった。既に十分、怖くても留まり、戦ったと思った。
それで、まだ座り込んでいる蓬の正面にまわると、荒波は蓬の脇の下をすくい抱き上げた。
(軽い。繁と大差ない。これなら行ける)
蓬も抗いはせず、荒波の肩から背中に腕を掛ける。荒波は蓬の尻の下で手を組み、サル達と同じ方向へ走り出した。
「あたしまだやる! 噴火をあっちにやる!」
蓬は叫んだ。そして荒波の肩越しに、なおも北へと祈り続けた。
荒波には蓬の叫びは聞き取れなかった。自分の激しい呼吸で耳が効かない。
それに蓬の体の異常な熱さが、荒波の胸や首を焼くようだった。それが妨げになったのかどうか、荒波は近道に踏み込む余地を見出せない。
サルとの格闘の時といい、まるで役立たずの能力。
次々に眼前に迫り来る木立が、風と共に二人の横を流れていく。足元など見られないが、荒波は木の根を、石を、窪みを跳び越えた。
「あたしあみを家に帰すんだ!」
蓬の涙混じりの喚き声。やはり荒波に聞き取れはしないが、蓬の体温が更に上がるのが伝わった。
そこで2度目の、轟音と地震が襲ってきた。
大きくてくぐもっている。1度目のと少し様子が違うが、恐ろしいことには違いはない。走っていても地震が長いと分かる。
「い行ったああ!」
言うと蓬は降ろせという動きをした。荒波は止まりはせず、速度を落として蓬を着地させ手を掴んだ。
蓬も走り出す。
身軽になった荒波の速度に、必死に合わせる蓬の心の中、拳を突き上げる自分がいた。部屋で膝を抱え、何でもすると叫んだ日の蓬だった。
辺りには硫黄の匂いが漂いだしていた。背後に何かが落下したのを感じても、二人は進むことしかできなかった。このまま奇跡の様に、転ばず、前だけを見ていたかった。でも荒波は、何とか勇気を出して再び上を見上げる。
明るかった昼過ぎの空が、噴煙に覆われて暗くなってきている。火や噴石が来るかどうか、もう分からない。でも、パラパラと何かが降る音が四方でしている。
遠くから子ザルのものか、幼い鳴き声がした。それで荒波は、小さなキリが心配になった。アカゲが守っているだろうが、この状況は尋常ではないと思った。
「アカゲ! どこ! キリと一緒なの?」
荒波は走り、息継ぎを発射台にして、腹を絞り、声と想いを飛ばした。でも応答無しだ。
(諦めずに何度でも呼ぶ。アカゲが俺に気を向けてくれるまでやる)
それでもし仲間と助け合っているか、キリと逃げることができているなら、荒波は今度こそ近道で、蓬を連れて砂浜へ行くと決めた。
「アカゲどこ!」
やはり返事は無い。
不意に横の方に明るさを感じて顔を向ける。枯れた蔓の集まりに火が付いたのだ。炎が壁のように広がっていた。
それは走る荒波たちの後方へと過ぎていくが、そういうのは他にもあった。
「アカゲ!」
炎は増えていく。
「アカゲ!」
荒波はまた声を張り上げた。
「アカゲえ!」
「アラナミか」
応えた。やっと応えた。
「アカゲどこ。大丈夫?」
「キリが気を失った。抱いて走ってる」
荒波はそう聞いて、全力を出せずにいるアカゲの姿を思った。
「よも、走り続けて。俺アカゲ達を」
「ああ!」
言い終わる前に蓬の悲鳴がした。太い幹が連なっていたせいで、先がよく見えていなかったか。すぐ前方が火で阻まれていた。そこへ追い討ちをかけるように、また大きな地震が起こる。何かが近くに落ちる感じが続く。
サル達は枝を伝い追い越して行くが、そんな動きは人間には無理がある。
荒波が、どうにかならないかと後ろを振り向いた時、走って来るアカゲの姿が見えた。背後の明るさで輪郭が黒く浮かび上がる。
「どっちに行けば」
蓬が狼狽える。
立往生している二人にアカゲが追いつく。その腕の中には、丸まったキリがいた。
火が大きくなる。熱い風が吹く。それに煙か噴煙かで、視界が悪くなる一方だ。
「よし。みんなで一気に近道で行く。来て!」
荒波は言ったが、声が震えてしまった。
(やるしかない。でも全員を抱えて浜へ行けるか。大体でいい、方角はどっちだ)
「待て! 待てアラナミ!」
アカゲが吠えた。荒波は待ちたくなどなかった。
「キリが目覚めた。キリを、お前の家族が引っ張ってると言ってる」
見ると確かに、キリは目を開けたが。
「家族?」
今、荒波の家族の話をする必要があるかと、荒波はアカゲに初めて苛立った。
それでもアカゲは続けた。
「分からない。でもキリが必死にオレに言うんだよ。アラナミと行くって」




