第百二十一段 熊襲国
開耶と共に過ごす間、瓊々杵の筆跡を目にし、それを覚えていた。
なので、文に記された開耶の署名を本物と判断できた。
その文は開耶に何かあった時、瓊々杵の手に渡らせるため、信頼できる人物に託されたものであると書面に記されていた。
誰がその人物なのか、瓊々杵に心当たりはなかったが、とにかく開耶の出した文は、彼の手に渡った。
目下、瓊々杵がなすべきは文を読むことだった。
仲介した人物の正体は後回しだった。
「……えっ?」
そして、開耶の文を読み、瓊々杵は我が目を疑った。
◆
花の力を神として祀る開耶は、自身に草花を生やし、それに対象の呪力を吸収させることが出来た。
しかし、開耶はその呪能を完全には制御できていなかった。
どうしてなのか原因は判明していなかったが、大山祇でさえも手の打ちようがないということは分かっていた。
開耶の呪能が開花した時、彼女の体からは無数の草花が生え、周囲の神人たちばかりか国魂からも呪力を吸おうとした。
その吸収は途切れることがなく、次々と草花を咲かせることで発散させ、永遠に吸い続けようとしかねなかった。
磐長の呪能が開耶を封じ込めなければ。
磐長が呪能を開花させたのもその時だった。
石化させるように磐長は開耶の呪能を停止させた。
それによってひとまず開耶が周りを吸い尽くして枯れ果てさせることは避けられた。
だが、根本的な解決には至らなかった。
磐長の呪力とて無限ではなく、停止を維持するには効果を薄めなければならなかった。
また、開耶の呪能も次々と成り行く勢いに従い、束縛から逃れようとした。
そのせいで呪能の持ち主たる開耶が激痛に苛まれても止むことはなかった。
日の光に当たるだけで針に刺されたような痛みが全身を迸り、そよ風に撫でられるだけで凍り付くような悪寒に襲われた。
呪能を無理に抑え付ける苦痛は、開耶の身体を衰弱させ、抵抗力や免疫力まで奪い、神人であるからまだ命と外見は保持していたが、体の中はぼろぼろだった。
無論、大山祇も手を拱いているばかりではなかった。
開耶の呪力が暴走したと判断し、夫に留守を任せ、根国を訪問して素戔嗚に診せた。
ところが、開耶を診た素戔嗚は、苛立ったような表情で首を横に振った。
それは自身に苛立っているようだった。
「これまで力が荒れ狂った者を様々に診てきたが、お前の娘のような症状は初めてだ」
そうして彼は父たる伊邪那岐の居所を大山祇に教えた。
伊邪那岐ならば開耶の呪力を分解できるかも知れない。
しかし、大山祇が幽宮を訪れても結果は一緒だった。
悔しさを滲ませて伊邪那岐は開耶たちに謝った。
「ごめん……。開耶ちゃんの呪力は分解できない。君の呪能は僕の分解すら上回って吸収するだろう」
これには大山祇たちも驚いた。
伊邪那岐は行方が容易に掴めないこともあって伝説的な存在だった。
そのような伊邪那岐が自身の非力さを詫びるなど予想だにしなかった。
だが、期待は現実を凌駕しなかった。
「そうすれば僕の分解によって磐長ちゃんの封印も解除されてしまう。開耶ちゃんの草花は葦原中国どころか他の天地まで侵すことだろう。そのようなことがあれば、僕は伊邪那美に面目が立たない」
伊邪那岐でさえ対処できないのだから高天原にも頼れなかった。
安定した国魂の運営によって呪力の暴走することが少ない高天原は、葦原中国よりも呪力の暴走について経験が乏しかった。
瀕死の穴牟遅を治療したように医療の技術は進歩していたが、それでも、被験体の少なさから呪力の暴走についてはやはり遅れていた。
この件に関しては高天原も頼れないとあっては範囲を他の天地に広げなければならなかった。
そうして大山祇たちは韓郷にも渡り、開耶の呪能を落ち着かせる方法がないかを探し求めた。
しかしながら、異なる天地は開耶の体調を悪化させるばかりで、已む無く大山祇たちは八洲に程近い常世たる熊襲に戻った。
◆
そのような事情を開耶の文で知らされた瓊々杵は走った。
具体的にどうするか分からなかったが、とにかく大山祇の御殿に戻らねばならぬと思った。
開耶のことが瓊々杵には全くの他人事とは感じられなかった。
どうして自身が少年の体でいるまま変わらないのか。
その原因が己の呪能にあると瓊々杵は見ていた。
何かを殺す自身の呪能が自身の成長すら殺してしまい、大人になれないでいるのではないか。
そうであることが瓊々杵には恐ろしかった。
天孫としての義務を果たすために瓊々杵はこれまで努力してきた。
その結実が他ならぬ自身の呪能によって果たされることが怖かった。
「そぎゃんもだえてどぎゃんした?」
駆ける瓊々杵を止める者がいた。
「手力男……べ、別に何でもないよ」
「ぬしが嘘ば吐ぐっとは珍しか」
手力男には嘘が通用しなかった。
饒速日を除いて最も瓊々杵の面倒を見てきたのは手力男で、武骨すぎる手力男は周囲からよく気味悪がられたが、幼少期からの師父である彼に瓊々杵は懐いていた。
それゆえか、彼は自然と手力男に吐く嘘が下手になった。
そして、そのような瓊々杵を手力男は信じて疑わなかった。
「ぬしん好きなごつせぃ」
「……ごめん。後でちゃんと説明するから」
それだけ言って瓊々杵は駆け出した。
「それば聞けただけで良か」
瓊々杵も手力男からの信頼に感じるところがあった。
饒速日に対してそうであったように。
たとえ口に出さなくともこの人を裏切ってはならないというものを瓊々杵は手力男に感じ取っていた。
典拠は以下の通りです。
大山祇神が韓郷から帰国する:『伊予国風土記』




