第百二十段 十七世神
大和から戻ってきた一言主の報告を聞き終え、饒速日は礼を述べた。
「善くぞそこまで調べてくれた。そうか、少なくとも今は大物主が東や北と結び付くことはないか。そのまま三輪山から出ず、大人しく酒を造ってくれていれば良いが」
一言主の報告によれば大和の大物主に動きはなかった。
大和は東に伊豆や信濃が、北に但馬があった。
伊豆や信濃には百八十神の残党である十七世神が、但馬には日槍がおり、彼らは皆が穴牟遅に好意的だった。
それゆえ、穴牟遅を失脚させた高天原の天津神や出雲の地主神に報復するため、大物主と結び付く懸念があった。
大物主も馬鹿ではないから、正面から高天原に楯突くとは考えられなかったが、百八十神や日槍に争乱を起こさせ、その隙に他神の権益を拡大させようとすることは十分に有り得た。
しかし、一言主は大物主が大和の三輪山で酒造りに勤しんでいると報告した。
神人が造る酒は、山の湧き水などに込められた国魂の呪力で醸され、湧き水や醸造する神人の性質によって効能が変わった。
大物主の醸した酒の評判は饒速日も聞いており、中々に好評であるとのことだった。
呪具としての酒を通じて大物主が勢力を浸透させているとも受け止められたが、そこまで天津神たちが干渉しては却って国津神らの反発を招きかねなかった。
「……それと、他神に関して一つ気になることがござった」
大物主らにどう当たるかを考えている饒速日に一言主が告げた。
「大山祇神の娘である木花開耶姫についてなのでござるが……」
「確か熊襲にいるんだったな?」
饒速日は瓊々杵が熊襲に行ったことを知っていた。
弟の動向は常に気に掛けていたからだ。
瓊々杵に自身の分まで子供らしくいさせることで饒速日は早くに大人になった。
◆
そこは座敷のような場所だったが、出入り口が結界によって外部から施錠され、内部からは外が見られず、屋外からも室内が覗けないようになっていた。
そもそも、存在そのものが結界の力で秘匿されてあった。
そのような部屋で一人がのたうち回り、二人がそれを見守っていた。
「うぅ……あっ……」
のたうち回っているのは開耶だった。
敷かれた布団の上で蹲り、その生地を掻き毟りながら、呻き声を上げていた。
開耶の体がびくんと痙攣し、彼女の口から叫び声が漏れた。
「あああぁっ!」
「大丈夫、開耶ちゃん!?」
磐長が開耶の背中を撫でさすった。
開耶を見守る二人は大山祇と磐長だった。
苦しみが紛れるよう背を撫でてくれる姉の手を開耶が振り払った。
「大丈夫かだと!? それに答えてお前に何が出来ると言うんだ! 役に立たないどころか私がこうなっているのはお前らのせいだろう!!」
視線に憎しみを込め、呪いの言葉を吐き、それから、耳をつんざくような悲鳴を迸らせた。
あたかも中で太い木の根が蠢いたがごとく体に凹凸が走ったのだ。
磐長は開耶の罵声に言葉を返せないでおろおろするばかりだったが、大山祇は眉一つ動かさずに答えた。
「ええ、そうよお。いやしくも葦原中国の山を統べる身として貴方の呪能は見過ごせないわ。恨むのなら磐長に貴方を封じさせた私になさい」
殺気に満ちた目で開耶が大山祇を睨み付けた。
しかし、大山祇が怯むことはなかった。
磐長に近寄って大山祇は彼女を開耶から引き離した。
「少なくともその状態では外に出すわけには行かないわあ。瓊々杵くんと一緒にいるのが楽しそうだったから、ある程度は見逃していたけれど、度が過ぎては皆に迷惑が掛かるしね。暫く大人しくしてなさい」
そう言い残して磐長の手を取り、大山祇は立ち去ろうとした。
それに開耶は手を伸ばした。
その手は捕まえるためのものか、縋るためのものか分からなかった。
それでも、届かぬことに変わりはなかった。
磐長は大山祇に抗えなかったが、最後まで振り返って開耶を気に掛けていた。
大山祇も振り返りこそしなかったが、その唇を強く噛み、血を流していた。
◆
笠沙岬に沈む夕日を瓊々杵は何となしに眺めていた。
「そろそろ晩飯が出来るぞ」
そのような瓊々杵に太玉が声を掛けた。
「……あっ、うん、分かったよ」
瓊々杵が弱々しい笑みを浮かべて答え、太玉がそれに眉を上げた。
「気に掛かることでもあるのか?」
「そういうわけでもないんだけど……」
「…はあ……」
額に手を当てて嘆息し、太玉は瓊々杵の髪をくしゃくしゃにした。
「わぷっ!?」
「大人ぶるな。何のために俺たちがお前を支えてると思う? もっと俺たちを頼って美味しい思いをしろ」
それを糧に心も育め。
太玉は突っ込み役に回ることが多いために常識人と見られがちだったが、彼も偏屈さでは児屋根たちに劣らなかった。
いや、偏屈であるからこそ彼らにずっと突っ込みを入れられているのかも知れなかった。
「……ありがとう。でも、永遠に子供じゃいられないから。もう少し僕に任せてくれないかな?」
「まあ、意地を張るのも若い奴の特権か。大人になりたいって言うんなら、飯はちゃんと食えよ。育つには栄養が要るからな」
「うん、直ぐそっちに向かうよ」
再び溜め息を吐いて太玉は立ち去った。
それを見送ってから瓊々杵はまた塞ぎ込んだ。
そのような瓊々杵の足に何かが触れた。
それは開耶からの文だった。
瓊々杵は呪力による直感でそう悟った。
ただし、どうしてそれが届いたかまでは分からず、ましてや瓊々杵の背後で愛おしげに微笑む塩土の存在には気付けなかった。
典拠は以下の通りです。
大物主神が酒を造る:『万葉集』




