第百十九段 神吾田津姫
言魔神という呼び名は彼らが自称したものではなく、意味をなさぬとは言え、草木でありながらも人のように言葉を喋るため、便宜的にそう呼称されているに過ぎなかった。
瓊々杵たちが吾田へ来る直前に現れだしたので、高天原が仕入れた情報の中にも言魔神の存在は入っていなかった。
しかも、どのようにして現れるのかも分からず、深くまで侵入を許してしまうこともあった。
開耶が襲われたのもそのせいだった。
まさか大山祇のお膝元にまで侵入されるとは思われておらず、瓊々杵たちが通り掛からなければ危ないところだった。
それゆえ、お付きの者たちが外に出て言魔神を倒し、瓊々杵は万が一に備え、開耶たちの身辺を守る役目を担った。
そして、それは形ばかりのものではなく、実際に言魔神の襲撃があった。
「開耶は後ろに下がって!」
大山祇の御殿にて開耶と二人でいるところを言魔神に襲われ、瓊々杵は開耶の前に立って言魔神と対峙した。
言魔神は瓊々杵に向けて蔓を放ち、彼はそれに拳を振るった。
すると、蔓は粉微塵になり、それに対して瓊々杵は傷一つ付いていなかった。
瓊々杵が神として祀るのは杵の力だった。
杵を用いる脱穀は、撒けばまた発芽する穀物を食べ物に変え、二度と実らなくしてしまう。
それは穀霊を殺すことでもあり、瓊々杵は生起する事物を死に至らせることが出来た。
瓊々杵が呪能を振るえば、その対象が物体ならば破壊され、事象ならばその運動を停止させられた。
そのおかげで彼は言魔神の蔓を粉微塵にしつつ、自身への攻撃は無効にさせられた。
もっとも、無闇に振るえば良いというものではなく、呪能が効果を発揮するには対象を正確に把握し、それに対して適切な出力がなされなければならなかった。
「後ろに下がれと言われましても深窓の令嬢にされるのは嫌ですね」
怯んだ言魔神に蔓が巻き付いた。
それは言魔神の蔓ではなかった。
開耶から生えているものだった。
花の力を神として祀る開耶は、自身から草花を生やすことが出来た。
その草花は呪力を吸収して発散することも可能だった。
そのために黄泉神である言魔神の荒れ狂う呪力を吸ってもそれを花として咲かせ、自身の呪力を暴走させられる前に発散させられた。
「ちやほやはしてほしいですけど、手弱女と侮られるのは願い下げです」
「あ、うん、ごめん……」
腰に手を当て、指を突き付けて開耶が言い放つと、彼女の我が侭に瓊々杵は律儀に謝った。
「というわけで、後のことは任せました、お姉ちゃん!」
「何がそういうわけなのか分かんないんだけど、開耶ちゃん……」
騒ぎを聞き付けて現れた磐長が開耶にぼやきつつ、言魔神に呪能を振るった。
彼女が神として祀るのは岩の力で、相手を石化させるかのようにその活動を何かしら停止させられた。
それにより言魔神は身動きが取れなくなり、磐長と共に駆け付けてきた者たちに取り押さえられた。
◆
御殿に現れた言魔神が取り押さえられ、その功労者として瓊々杵は大山祇の居室に招かれた。
「ご苦労様、瓊々杵。言魔神が現れるようになってどうしようかと思ってたけど、貴方たちが来てくれて助かったわあ」
満面の笑みを浮かべ、大山祇が瓊々杵に礼を述べた。
部屋の内装と相俟って満開の花を思わせた。
その室内には桜木が大量に活けられており、咲き誇る桜の森の下にいるかのような気分になった。
時折、窓から風が吹き込んで音を鳴らし、それが瓊々杵には何故か恐ろしく思われた。
「いえ、そんな、大山祇さんたちのご助力があってのことです」
「娘たちにも良くしてくれているようね。取り分け開耶にご執心なのかしらあ?」
「えっと……それは……」
大山祇にからかわれた瓊々杵は、顔を赤らめて俯いた。
確かに開耶のことは気になっていた。
しかし、それは大山祇が仄めかすような性質のものであるかは確信がなかった。
これまで瓊々杵は天孫として皆のために頑張ってきた。
周囲も天孫の役目を果たせているかどうかで瓊々杵を評価した。
だが、開耶はお忍びの瓊々杵が私人として助け、開耶も瓊々杵を皆の天孫ではなく、自分の恩人として見てくれた。
家族の他に個人として関係を結んだのは開耶が初めてだった。
少なくともその意味で開耶が特別な存在であることに間違いはなかった。
ただし、開耶が自分を特別と思ってくれているかは瓊々杵には分からなかった。
人と集まれば開耶はいつも輪の中心におり、誰とでも気さくに接していた。
それ故にか開耶は吾田でも人気があって神吾田津姫とも呼ばれ、様々な神人たちから求婚されており、ある鬼人は特にしつこく、大山祇が詭計によって諦めさせねばならぬほどだった。
大山祇は一夜にして岩の御殿を造ってみせよと鬼人に課題を出し、鬼人が瞬く間に御殿を建ててしまうと、それを讃えて褒美の酒を飲ませ、鬼人が酔い潰れた隙に御殿の石を一つ抜いて不合格としたのだ。
そうしたことがあったからか、大山祇は瓊々杵にも笑顔で釘を刺した。
「仲が良いのは結構だけど、お付き合いには節度が必要よお?」
瓊々杵がそれに何と答えて良いか分からないでいると、不意に桜の活け花が次々に散っていった。
その桜吹雪を見て大山祇が笑みを浮かべたまま表情の温度を下げた。
そして、すっと立ち上がって瓊々杵に告げた。
「……申し訳ないけれども少し野暮用が出来たから失礼させてもらうわあ」
相手が天孫であっても有無を言わせぬ響きが大山祇の言葉にはあった。
◆
大山祇が退室して一人で部屋に残された瓊々杵は考え込んだ。
何かを大山祇たちは隠している。
それを詮索するのは褒められたことではなかった。
しかし、気にならないと言えば嘘だった。
大山祇が垣間見させた表情。
それは開耶も時折ふと覗かせるものだった。
幸せそうに見える開耶がどうしてそのような表情を覗かせるのか。
そのことが瓊々杵に無視できなくさせた。
床に積もる花弁を瓊々杵は握り締めた。
典拠は以下の通りです。
木花開耶姫に求婚した鬼人が大山祇神の詭計で辞退させられる:石貫神社社伝




