第百十八段 天津日高
ようやく伊勢に来られた豊受は、そこに店を開いて腰を落ち着けた。
伊勢でも彼女は天津神や国津神に垣根を設けず、料理や酒を振る舞った。
しかし、ごく稀に豊受は夜の営業を休み、人が訪ねてくるのを拒んだ。
その夜にだけ白馬で訪ねてくる者を除いて。
「また根国が忙しくなったそうじゃないか」
その人物が店に入ってくると、彼女は八塩折之酒を出してやりながらそう言った。
「ああ、それ故に余り長居は出来ん」
素戔嗚だった。
彼は店内の椅子に腰掛け、出された酒を一気に飲み干した。
八塩折之酒は何度も繰り返し搾った強い酒だが、それを気軽に呷っても素戔嗚は顔色一つ変えなかった。
「根国に送られてくる黄泉神が一気に増えた」
「言魔神だっけ? 熊襲で大量に現れてるそうだけど、何か裏がありそうだねえ」
「迂遠な物言いは控えてもらおうか。余り長居できんと言ったろう」
「すまないね。ああ、十中八九、空亡が絡んでるはずさ。アタシも伊予島や伊勢で魚介の異形とやり合ったからね」
素戔嗚もまた空亡のことを知らされていた。
そして、空亡の神国が完成するのを防ぐため、天照たちが仏法と神道を弘めることを陰ながら支えていた。
本来、その役割は月読が担うはずだった。
どのような教えにも外法や左道は存在する。
それら異端も視野に含めなければ、正統な教えを弘めるのは難しかった。
月読は異端の教えに目を光らせる役目が期待されていた。
もっとも、それは弾圧するためのものではなかった。
空なるこの世界においては正統と異端も相互に依拠して成立した。
異端でなければ悟りに至れぬ者もおり、そのような存在のために月読は修行していた。
ところが、素戔嗚の一件で高天原が混乱する最中、彼女は姿を消してしまった。
その原因は自分にあるのかも知れない。
大蛇の事件を経てそのような心境に達した素戔嗚は、月読が担うべきであった役目を自分が代行すると主張し、彼女の名を負ってもいた。
「瀬戸内に宗像の娘たちを置いておく」
豊受の話を聞いた素戔嗚が告げた。
彼が言う娘とは宗像三女神のことで、瀬戸内は出雲の勢力圏や伊予島、熊襲との間にある海だった。
素戔嗚の決定は葦原中国の東方よりも西方に注力することを意味した。
(饒速日がいる東は、心配が要らないってのもあるんだろうけど、出雲のある西の方が気になるんだろうね)
国譲りに際して素戔嗚は自分に相談がなかったことを天照に問い糾した。
天照は飽く迄も国譲りは高天原と出雲との信義の問題であると考えていたので、根国の素戔嗚が満足するような回答を返せなかった。
あわや高天原と根国の衝突かと思われたが、神皇産霊が天照と素戔嗚の間に割って入り、伊邪那岐と伊邪那美の整序した国土を荒らすのかと叱り付け、天照は穴があれば入りたい気分になった。
両親の名前を出されては天照と素戔嗚も互いに譲歩せざるを得なかった。
そこで、いずれ大日を本とする国となる葦原中国は、天照が最終的な決定権を握りつつ、神人たちの件に関しては素戔嗚の意向を無視しないことで手打ちとされた。
素戔嗚は天照を日本国の主と認め、自身は父のごとき神人たちの庇護者となった。
◆
言魔神はそれこそ草木のように際限なく熊襲に出現した。
「やれやれ、幾ら常世とは言え、よくもここまで湧くもんだ」
それに呆れながら太玉は呪能を振るった。
祭具の力を神として祀る彼は、道具の加減を調整するように対象の呪力を増減できた。
その支援を受け、児屋根が言魔神たちに呪紋を施した。
「まあ、良いではないか。吾輩たちが負けん限り瓊々杵が名を挙げるための肥やしになるんだからな」
呪紋は丁寧に施さなければ、効果は長く続かなかったが、戦闘中にそのようなことは出来なかった。
そこで、太玉が自身の呪能で児屋根の呪紋を強力なものにした。
そうして身動きを封じられた言魔神を手力男が殴り倒していった。
「しかし、妙な動きをする奴らだのう」
手力男は拳を振るいながら呟いた。
相撲の力を神として祀る彼は、相手の呪能をねじ伏せてその影響を被らず、戦闘を単純な腕力のぶつかり合いに変えられた。
それゆえ、黄泉神である言魔神たちに触れても手力男は呑み込まれなかった。
「確かに黄泉神の割りには動きが妙にこなれてる」
言魔神の蔓を躱しながら太玉が同意した。
「それに、吾輩の呪紋を解除しようとするところも気に掛かる。まるで知能があるかのようだ。そのせいで最初にこやつらと戦った時、反撃を許してしまった」
更に児屋根が詳しい分析を加えた。
「こやつらに知性があるか、そいとも、何者かが指示ば出しとぉか?」
そして、手力男が辿り着いた結論を口にした。
◆
言魔神の正体は分からなかったが、それでも、瓊々杵たちは順調に彼らを倒し、他神に引き渡していった。
そのことを日向宮に残った思兼も報告で知った。
瓊々杵がいない間、日向宮における執務は摂政の思兼が代行し、同じく留守を守る石凝姥や玉祖、石門別らが補佐に付いた。
(児屋根の話には試しに乗ってみただけでしたけれどもこれは僥倖でしたね)
報告書に目を通しながら、思兼はそう思った。
児屋根が瓊々杵を連れ出したのは、突然のように見えて思兼と打ち合わせてのものだった。
根を詰めすぎる瓊々杵に休暇を取らせるだけではなく、遊びのない彼に余裕を持たせることも目的とされていた。
(天孫の権威が強化されて何よりです)
日高見でも饒速日が順調に整序を進行させていた。
地上の人々は饒速日と瓊々杵を天津日高と呼んだ。
天津神の御曹子として饒速日と瓊々杵は国津神らから無視できぬ存在と認識された。
典拠は以下の通りです。
月読命が白馬に乗って豊受大神の下へ通う:『皇太神宮儀式帳』
瀬戸内へ宗像三女神が月読命によって遣わされる:西照神社社伝
素戔嗚尊が月読命の名を負う:『霊能真柱』
宗像三女神が瓊々杵尊の安全を守る:『日本書紀』
天照大御神と素戔嗚尊が喧嘩し、伊邪那岐神と伊邪那美神の存在に仲裁され、天照が日本国の主、素戔嗚が神人の親とされる:『諸神本懐集』




