第百十七段 言魔神
大山祇の御殿にやってきた太玉と手力男が児屋根に言った。
「本当にお前という奴は、まったく……」
「瓊々杵を無断で連れ出したかと思えば、ここでも面倒を起こしたか」
「後者に関しては濡れ衣だと言っておこう」
二人が来たのは児屋根の要請によるものだった。
「既に起こっている事態に対処するため、吾輩は増援を求めたのだよ」
そう言って児屋根は大山祇から聞いた話を太玉と手力男に語った。
開耶を襲っていたのは、言魔神という黄泉神の一種だった。
最近になって現れた彼らは、競うように騒ぎを起こし、大山祇が御殿を構える吾田の神人たちを襲っていた。
熊襲を整序しようとしている瓊々杵がそのような事態を捨て置けるはずはなかった。
それに、事態の収拾に成功すれば、大山祇に大きな貸しを作り、山祇の総元締めである彼女の威光をこれからの整序に利用できた。
そして、瓊々杵が自信に欠けることを見抜いてもいた児屋根は、彼に経験を積ませることも兼ね、思兼に増援を要請したのだ。
「面倒な事態ではあるが、得るものも色々と多い」
御殿の庭先で太玉と手力男を出迎えた児屋根は、遠くに目を遣って笑った。
太玉と手力男が視線を追うと、そこでは瓊々杵が大山祇ら母娘と散歩をしていた。
彼らは歩きながら話していたが、その内容までは聞き取れなかった。
しかし、瓊々杵が開耶に笑いかけられてどぎまぎし、磐長がそれにおろおろした様子を見せ、そうした三人を大山祇がにこにこと見守っているのが見て取れた。
太玉と手力男も児屋根の言うことに納得が行った。
「確かに瓊々杵の交際は公的なものばかりだったからな」
額に指を当てて太玉が唸った。
瓊々杵にも年頃の女の子と接する機会はあったが、高天原においては饒速日との修行に明け暮れ、人付き合いも礼儀作法の実践という面が強かった。
天降ってからも天孫としての社交に忙しく、これまでに瓊々杵が親しく接せられたのは家族と師傅たちくらいだった。
「あぎゃんおなごと話す瓊々杵は初めっ見た」
開耶にぐいぐい来られ、瓊々杵は困惑しているようだったが、決して嫌がってはいなかった。
困っているのは純粋にどうして良いか分からないのだろう。
色々と浮き名を流した鈿女も、流石に微笑ましいお付き合いまでは授業してやれなかった。
「いずれは嫁取りも考えねばならんし、初心なままでいて変な輩に引っ掛かるくらいならば、ああして恥を掻くのも良い経験だ」
些か荒治療ではあったが、それに怯むほど児屋根は常識人ではなかった。
◆
四人で散歩をする中、開耶が目を丸くして驚いた。
「そんなことがあったなんて。瓊々杵くんはほんと見掛けによらないんですね」
その興奮は瓊々杵の話を聞いてのものだった。
開耶にせがまれて瓊々杵は天降りのことや熊襲での活動について語ったのだ。
押しが強い割りに開耶は聞き上手で、話の流れを掴んで相槌に強弱を付け、恥ずかしがる瓊々杵の話を巧みに盛り上げた。
「そのような天孫どのにお助けいただくとは心強い限りねえ」
瓊々杵が返答に窮すれば、大山祇が助け船を出した。
吾田にいる期間も長くなり、付き人を介在させずに瓊々杵が大山祇と接する機会も多くなった。
大山祇のおっとりした様子は、母方の祖母である神皇産霊を思い起こさせたが、意外と感情の起伏が激しい神皇産霊と比べ、大山祇はいつも笑顔であって底知れなさがあった。
「でも、あんまり瓊々杵くんたちに負担を掛けちゃ駄目だよ、お母さん」
おずおずと磐長が大山祇に意見した。
ある意味で最も瓊々杵と感性の近いのが磐長だった。
それでも、この三人で誰に最も注意を向けさせられるかと言えば、まず間違いなく開耶だった。
「ふふっ、お姉ちゃんは泥棒猫な上に心配性なんですから♪」
「お願いだから前者は取り下げて!」
眩しいくらいに開耶は明るく振る舞っていた。
しかし、その裏にある暗さを瓊々杵は感じ取っていた。
表面的には陽気な開耶の抱える闇が彼はどうしても気になった。
瓊々杵も内に抱え込むものがあった。
そのことがなおさら開耶に意識を向けさせた。
互いに今と違う者になれるのではないかという想いを込めて。
◆
散歩の時間も終わり、開耶と瓊々杵を二人きりにしてやると、こちらも二人だけになった磐長が大山祇に問うた。
「開耶ちゃんを放っといて良かったの?」
「放っておかないのも無粋じゃないかしらあ」
頭がお花畑のような返しに流石の磐長も顔を顰めた。
「瓊々杵くんと出会って開耶ちゃんは確かに楽しそうだけど、それは最優先にすべきことなのかな?」
「ええ、今となっては最優先よお」
大山祇は柔らかく微笑んだだけだったのだが、磐長はそれに息を呑んだ。
地表や海底の山脈が起こす地震や崖崩れ、噴火などは相手の事情もお構いなしに起こって全てを押し流す。
そのような圧倒的なる力に支えられての一言だった。
「……それはつまり……」
「ええ、その通りよお。あの子にとっては最後の触れ合い。だったら、存分に楽しませてあげないとね」
遠い目をする大山祇に磐長は言い募った。
「……もっと他に方法はなかったの?」
縋るような磐長の言葉に大山祇は顔を伏せた。
「その買い被りに応えてあげられなくて、ごめんなさい……。何か他に方法はないかと色んな常世を回ってみたけど、もう貴方でもあの子を抑え付けていられないわあ」
そのまま表情を見せずに彼女は娘に背を向けた。
「私でさえ周りの被害を考えずに渡り合ったっても抑えられるかどうかは分からないわねえ」
そうして立ち去る大山祇の背中から磐長が感情を読み取ることは出来なかった。
典拠は以下の通りです。
瓊々杵尊たちが天降ったところで言魔神が競うように騒いでいる:『大和葛城宝山記』




