第百十五段 笠沙岬
一方に山が聳え、もう片方には海が力強く広がっていた。山は木が鬱蒼と葉を茂らせ、森の澄み切った風が頬に触れて爽やかだった。海は白い太陽が蒼天に浮かんで光輝き、暖かな日差しが気持ち良かった。
そのような浜を瓊々杵は一人で散策していた。そこは笠沙岬と呼ばれ、瓊々杵と児屋根は塩土の薦めでそちらに赴いたのだ。児屋根は笠沙岬に着くと、瓊々杵が息抜きできるよう別行動を取った。
日向宮が気掛かりではあったが、もうここまで来ては休暇を満喫するしかなく、瓊々杵は観念して羽を伸ばすことにした。仕事から解放されるのは久し振りだった。大きく伸びをして新鮮な空気を吸い、瓊々杵は眼前の雄大な景色を眺めた。
その大きさに彼は我が身の小ささを改めて感じさせられ、自身の紅葉のような手をじっと見詰めた。天降ってからそれなりの歳月が経過していた。しかし、瓊々杵の体は依然として少年のままだった。
(どうして成長しないんだろう?)
あたかも自身の未熟さを突き付けられているかのようだった。それが皆に申し訳なく思われ、瓊々杵を無理な仕事に駆り立てた。しかも、このようなことで皆を煩わせてはならないと思い、瓊々杵は誰にも相談できないでいた。
(もしかしてオレの呪能が関係してるのかな?)
瓊々杵の背中に悪寒が走った。このような事象を起こしてもおかしくはないのが瓊々杵の呪能だった。自身を蝕む呪能という可能性に瓊々杵は恐怖を感じた。
(いけない。今だけは考えないようにするんだ。ここへは休みに来たんだから)
かぶりを振って彼は思考を切り替えようとした。ここまで来て落ち込んでいては児屋根に申し訳ない。些か強引な手段であったとは言え、自分のことを慮ってくれたのだから、その好意を無下にしたくはなかった。
(児屋根のためにも頑張って怠けよう!)
瓊々杵は拳を固めて決意した。だが、それが叶うことはなかった。そう遠くはないところから悲鳴が聞こえてきたのだから。
◆
悲鳴の聞こえてきたところに瓊々杵が駆け付けてみれば、そこでは一人の乙女が異形の草木に襲われていた。
「花も恥じらう乙女の体に気安く触らないでください!」
巨大な花を顔のように咲かしたその異形は、人の声を思わせる音を出し、触手のごとき無数の蔓で乙女を絡め取っていた。異形の草木からは荒ぶる呪力が感じられた。恐らく黄泉神なのだろう。
「待ってて! 今、助けるから!!」
蔓を近付けまいと乙女は懸命に脚を振り回していたが、無意味な抵抗であるように思われた。乙女を救うため、瓊々杵は異形に向かっていった。異形は瓊々杵の存在に気付き、花の顔を彼に向け、蔓の一部を鞭のように振るった。
その動きは素速かったが、瓊々杵もそれに負けてはおらず、最小限の動作で蔓を避け、異形との距離を詰めていった。そして、異形の顔に拳を突き出した。
肩当てのような大きい葉で異形が顔を庇うと、瓊々杵は地面を蹴り、体を捻って拳を回転させ、乙女を絡め取る蔓に手刀を振るった。すると、蔓は切り刻まれたように裂け、異形が悲鳴のような音を発した。蔓から解放された乙女を受け止め、瓊々杵はその場から走り去ろうとした。
しかし、異形は蔓を地面に突き立て、地下を潜って地中から瓊々杵を攻撃してきた。
「うわっと!?」
地中からの攻撃には先程のように行かないのか、姿を現してから襲ってきたものは蹴りで凌いだが、瓊々杵は乙女を抱き抱えたまま避けるのに精一杯のようだった。
「どこの誰だか分かりませんけど、貴方までやられる義理はないんですから、私を置いて逃げてください!」
乙女が瓊々杵に叫んだ。藻掻くことはしなかったのは、それによって動く邪魔になり、瓊々杵が回避できなくなるのを危惧したのだろう。そのように察したからこそ瓊々杵はなおさら逃げなかった。
たとえ初対面の相手でも瓊々杵には義理があった。この地に住まう人々らのために天降ったのだから。彼らを救い出せるなら危険や恥を恐れてはならなかった。
「児屋根!」
「任されよう!」
瓊々杵の求めに呼応して現れた児屋根が異形にその呪能を振るった。
◆
祝詞の力を神として祀る児屋根は、相手に呪紋を施すことでその呪能を操作できた。それは対象が有する能力の本質を見抜き、図面に表現できねばならなかったが、そうするのに必要である独特な感性を児屋根は常識と引き換えに獲得していた。児屋根が呪能を振るうと、異形の草木に呪紋が現れ、その蔓が膨れ上がり、身動きを取れないようにした。
「やっぱり近くにいたんだね」
「気付かれていたとは吾輩もまだまだだな」
「長い付き合いだから」
幾ら非常識な神人であろうとも児屋根とて瓊々杵の恩師だった。たとえ感性が独特であっても培った絆に偽りはなかった。もっとも、そうであるからこそ未熟な自分への気遣いが心苦しくもあったのだが。
そのことに瓊々杵が思い悩んでいると、異形が何とか自由の利く蔓を彼に振るった。
「瓊々杵!?」
児屋根が即座に瓊々杵を助けようと動いたが、距離的に間に合いそうにはなかった。
「凄い力を持ってるのに、意外と抜けてるんですね」
ところが、蔓は瓊々杵に振るわれなかった。解放された乙女が流木で蔓を叩きのめしたからだ。腰に手を当てて得意げな乙女に瓊々杵は呆気に取られながらも礼を述べた。
「……あ、ありがとう。えっと、キミは……」
「木花開耶姫。大山祇神の娘です」
その自己紹介に瓊々杵と児屋根は驚いた。
典拠は以下の通りです。
塩土老爺が瓊々杵尊を笠沙岬に導く:『日本書紀』




