第百十四段 吾田長屋
日高見と熊襲でそれぞれ順調に天孫の統治が進んでいると聞き、神皇産霊は胸を撫で下ろした。
「存外に抵抗がないものだな」
「貴方は何を期待しているのですか?」
廊下を並んで歩く高皇産霊がそう零すと、彼女はぴしゃりと叱り付けた。
「争いなど起こらないに越したことはありません」
「理想論ではな。しかし、人情とは不条理なもので、喧嘩した方が却ってさっぱりすることもある。戦わぬまま従うと、発散されぬ感情が澱のように溜まり、空気が淀んでしまいかねん」
「……つまり今はまだ不安定と?」
「何か大きな災害や失政があり、離反する者たちの出た時が正念場だろう」
高皇産霊が何かに気付いて足を止めた。
「これから天照のところか?」
そう彼が話し掛けた相手は、書類を胸に抱えた稚日女で、彼女は笑顔で答えた。
「はい、穴宮のことで案件がありまして」
穴宮の中心的な人物であった忍穂耳がいなくなり、高天原の主神として天照はその対応にも追われていた。
孫たちに葦原中国のことを任せても天照は暇にならなかった。
寧ろ葦原中国に集中して後回しにしていた案件に対応していかねばならず、忙しい日々を送っていた。
「天照にはさっき会ってきましたが、かなり疲れているようでした」
それを聞いて稚日女は苦笑した。
「ああ~……。じゃあ、そろそろ燃料の切れる頃ですね。間食を作ってあげませんと」
豊受も天降ってしまい、彼女の店で酒食を楽しむことが出来なくなった天照は、癒やしに飢えていた。
そのような天照に稚日女はお菓子を作ったりお茶を淹れたりしていた。
稚日女も忙しいはずなのだが、嫌がる素振りも見せず、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「甘いものを頬張って蕩けるような顔をしてるのは、見てるだけでこっちも幸せになれますよ」
微笑んでそう述べると、稚日女は高皇産霊と神皇産霊に頭を下げ、その場を去っていった。
「天照は姉のように振る舞おうとしていますが、ああして見れば、まるで稚日女の方が年長のようですね」
「主宰神としての気負いが却って誰かに甘えたいという気持ちを強めているのかも知れんな」
顎を撫でながら高皇産霊は暫し考え込んだ。
「高皇産霊?」
「なあ、神皇産霊。稚日女のあの笑顔。姉者に似ていないか?」
今度は神皇産霊が言葉を失い、少し逡巡してから答えた。
「……奇偶ですね」
誰にでも朗らかに接する稚日女を高皇産霊と神皇産霊も好ましく思っていた。
だが、稚日女は二人に彼らの姉を思い起こさせた。
空亡の長子である御中主を。
御中主は空亡ともども姿を消していたが、父を狂信する彼女が彼の側を離れているとは思えなかった。
仏法の側に立つ道を選んだ高皇産霊と神皇産霊は、御中主とも戦う覚悟は出来ていた。
それでも、姉にして母である御中主への感情は複雑だった。
◆
天照が執務する部屋に向かいながら、稚日女の意識に御中主が顔を覗かせた。
(勘付くところまでは行かなくても連想してる表情だね、ありゃ)
御中主も高皇産霊と神皇産霊の心情を察していた。
何しろ二人は弟と妹であるだけではなく、息子と娘でもあった。
高皇産霊は高天原の国魂から天津神を、神皇産霊は葦原中国の国魂から国津神を生んだが、御中主は空亡に働き掛けて別天津神を生み出した。
そうした別天津神の中でも高皇産霊と神皇産霊は御中主が空亡と直にまぐわって産んでいた。
その時のことを思い返せば、今でも頬が熱くなる。
造物主たる父との合一を求めて抱かれ、熱いものを流し込まれた時、御中主はどろどろに溶かされてしまった。
始まりの別天津神として自我こそ失わなかったが、溶接されたように空亡から心が離れなくなった。
(いずれ他の奴らも似たような想いをするんだろな)
いつかは全てが空亡と一つになる。
そのことに嫉妬を覚えないと言えば嘘になるが、愛憎とは裏表であって憎悪するほど愛情が募った。
空亡と一つになった全てに自分も溶け込みたい。
(だから、お前たちのことも愛するさ、高皇産霊、神皇産霊)
全ては空亡と一つになる。ならば、全ては父と同じだ。遠ざけることなどあろうか。
(それにしても今はどこにいるんだろう、お父様?)
御中主の母胎から産まれて天降った父を想い、彼女は切なくなった。
◆
児屋根が囲炉裏の火に向かいながら、その先にいる相手に礼を言った。
「急に押し掛けたというに泊めてくれたばかりか、ご馳走までしてもらって申し訳ない」
「なに、旅人に宿を貸さぬほど我が家を恥じてはおらんし、子供にはつい甘くなる」
そう答えたのは塩土だった。
愛おしげに目を細める塩土の視線の先では瓊々杵が囲炉裏の焼き魚を頬張っていた。
その眼差しは孫を可愛がる祖父のようだった。
いきなりの休暇であるため、外に出たは良いものの瓊々杵を連れ出した児屋根とて行く当てがあるわけではなかった。
そうして日も暮れ、吾田長屋にて 宿を探すこととなり、そこに折良くあったのが塩土の庵だった。
瓊々杵と児屋根も塩土が空亡であることには気付けなかった。
「いつか必ずお返しをさせてください」
相手の好意に瓊々杵が笑顔で礼を述べると、空亡が手を伸ばして彼の頬へと触れた。
瓊々杵たちは空亡に正体を明かしていなかった。
しかし、触れ合える距離にいて空亡に筒抜けでないなど有り得なかった。
「ああ、楽しみにしている」
瓊々杵の呪能を読み取り、空亡は笑みを浮かべた。
典拠は以下の通りです。
高皇産霊尊が天之御中主神の子とされる:『麗気記』




