第百十三段 紐小刀
押しても駄目なら引いてみろ。
海面に浮上できないのならば海底へ。
相手の裏を掻くため、猿田彦は海中の空間に穴を開け、海底までの距離を短縮させた。
幸い猿田彦がいたところは底が浅く、深海まで沈まずに済んだ。
そして、猿田彦を海底に引き摺り込もうとしていた比良夫貝は、距離の短縮でいきなり海底に到達したので、着地の準備が出来ておらず、海底に激突してしまった。
その衝撃で比良夫貝は猿田彦の手を離した。
そこに下半身を魚に変化させた鈿女が追い付いた。
彼女は手にしていた紐小刀を比良夫貝に突き立てた。
それには思兼が鈿女に手渡した呪具で、呪力を分解する伊邪那岐の呪能が込められており、比良夫貝はそれによって荒れ狂った力を分解され、暴走することが無くなった。
「心配掛けんなや、どアホ!」
そうして鈿女は猿田彦を海面まで引っ張っていき、咳き込む彼に怒鳴った。
「面目ありませんや」
生きているという実感を味わうかのように猿田彦は鈿女の肩を掴んで謝った。
「それでも、よくあの状況で穴を開けられたね」
「奴さんの荒ぶる力も利用させてもらったんでさぁ」
豊受の問いに答えて彼はずぶ濡れの煙草を咥えた。
暴走した呪力は彼我を無くそうとするからこそ相手の力を利用できる。
口で言うほど簡単なことではなかったが、猿田彦はそれをやり遂げて生還できた。
阿坂での整序を境に呪力の荒れ狂う神人たちには出会さなくなった。
猿田彦は無事に豊受を伊勢へと送り届けると、自身もそこに腰を落ち着け、鈿女と結婚して娘の吾娥津媛命を授かった。
吾娥津媛は伊賀国を帰属させ、五十鈴の一部を所有してその地を守り、鈿女も志摩国で海鼠の神人が暴走させていた呪力を分解した。
◆
本人たちは気付いていなかったが、猿田彦たちの遠征を憂いながら、見守っている者がいた。
(次々と成り行く御稜威が何と哀れなことか……)
塩土だった。
そもそも、魚人の神人たちが呪力を暴走させたのは、海に関連した塩土の仕業で、八十神のような存在を八洲という龍の腹にも生み出そうとしたのだ。
しかも、いずれは魚人の神人たちを伊勢に上陸させ、地上の力も荒れ狂わせるつもりだった。
淡路島や近江と並び、八洲のへそである伊勢は塩土も狙っていた。
しかし、それが二つの理由で叶わなかった。
一つは言うまでもなく、猿田彦たちによる妨害だった。
もう一つは正体の分からぬ力が伊勢への上陸を阻んでいたのだ。
何かしらの力が働いていることは予想できた。
だが、何故かその正体を掴むことが出来なかった。
(勝手知ったる天地であるというのに、何とこの世はままならぬことよ)
たとえ塩土という一介の国津神であってもその正体が造物主たる空亡なのだから、突破できぬとは余程のことだった。
少なくとも神人たちを相手にするのとは土俵が違った。
(如来という奴らの仕業か?)
かつて直接に対決した相手のことを空亡は思い出した。
そいつらのせいで己が天地でありながらも好きに出来なかった。
本能だけで動いているような空亡だったが、如来は警戒していた。
それは愛のなせる業だった。
空亡は自身の天地を心底から愛し、生み育てたいと願っていた。
もっとも、それは蜘蛛のような愛だった。
蜘蛛は巣に掛かった獲物ばかりか、その中で産んだ我が子さえ食らう。
そのように血肉と化すことで彼我の違いを無くし、自身を肥え太らせていく。
空亡は蜘蛛の巣のように周囲のあらゆるものを絡め取りながら、ひたすらに生んで食らうつもりだった。
だが、それが妨げられようとしている。
同じ手を繰り返しても埒は開かず、何か別の方法を考えねばならなかった。
次は何に目を着けるべきか。
(必ずやお前たちを残らず愛してやろう。ただ、そのためにはお前たちのことをもっと知らねば。まずは今回の奴らが来た熊襲とやらを探るか)
塩土という国津神に自身を限定し、空亡は他の神人たちと同じく常世にも出入りできるようになっていた。
◆
一日の仕事を終え、瓊々杵は文机に向かったまま伸びをした。
「ふう……」
仕事が終わったというのにその表情にはどこか影が感じられ、憂いを含んだ声が瓊々杵の口から漏れた。
「どうしてなんでだろ……?」
「何か困り事でもおありかな?」
「うわっ!?」
不意に声を掛けられ、彼が顔を上げると、腕組みをした児屋根が梁から逆さにぶら下がっていた。
「吾輩に気付かぬとはかなり疲れているようだな!」
確かに児屋根は存在からしてうるさく、瓊々杵は困ったように微笑んだ。
「いや、別に大したことじゃないから」
「……ふむ」
それに対して児屋根は暫し考えから頷くと、梁から下りて瓊々杵に近付き、彼をひょいと担ぎ上げた。
「何するの!?」
「ならば、大したことになる前に解決すべきだろう。根を詰められた挙げ句、急に不調を来されても困るからな。どこか遠くへ遊びに行くぞ」
「今から? みんなに迷惑を掛けちゃうよ!」
「貴公が少しいなくなったくらいで揺らぐほど柔な補佐はしとらん。休暇はしっかりと取れ」
仕事がない時も瓊々杵は勉学に励んでいた。
それを児屋根は他のお付きと同じく間近で見ていた。
彼は書き置きだけを残し、瓊々杵を外に連れ出した。
典拠は以下の通りです。
猿田彦命が死んでいない:『日本書紀』
猿田彦命の娘である吾娥津媛命が五十鈴を所有して伊賀国を守る:『伊賀国風土記』




