第百十二段 伊予島
熊襲での生活が本格的に始まり、日々、瓊々杵は頑張って多くの知識を学んだ。
それに合わせて思兼から次々と仕事を任され、良い結果を出せるよう最善を尽くした。
風の便りに饒速日が日高見を立派に治めていると聞き、兄の名を辱めぬためにも瓊々杵は必死に努力した。
「はあ~……」
書類が山積みの文机に突っ伏し、瓊々杵が溜め息を吐いた。
「幸せの逃げてきそうな溜め息ですねぃ」
「悩みがあるんやったら、お姉さんに吐き出してみ?」
「腹が減ってんなら、うちの店に来な」
声を掛けられて彼が顔を上げると、見知った神人たちがいた。
「猿田彦さんに鈿女さん、それに、豊受さんまで……何かあったの?」
鈿女は勿論のこと、猿田彦も熊襲に残り、瓊々杵たちを手伝っていた。
猿田彦は諸国に通じており、瓊々杵たちにとって有り難い戦力だった。
そのような猿田彦の仕事には鈿女がよく補佐に当てられた。
かつて天之八衢でやり合ったこともあり、どちらもノリが軽いからか、猿田彦と鈿女は馬が合った。
二人はよく酒を酌み交わしてもおり、豊受の店を利用していた。
熊襲でも豊受は出店し、客の中には現地の者もいた。
「質問に質問で返すのは感心せえへんな~」
鈿女が瓊々杵の鼻先を笑ってちょんと突いた。
その蠱惑的な仕草に瓊々杵はどきりとさせられた。
鈿女は使命のためには我が身を犠牲にすることさえ厭わなかったが、それ故に刹那的なところがあり、博打や色事など様々な大人の世界を瓊々杵に垣間見させ、その反応を楽しんでは思兼に小言を頂戴していた。
「いや、本当に何でもないから、用がないなら出てってよ!」
からかわれたこともあり、瓊々杵は顔を赤らめ、抗議の姿勢を示した。
「あんまり瓊々杵を困らせるんなら、耳を揃えて店のツケを払ってもらうよ?」
「すみませんねぃ、用事そのものは真面目なもんですから堪忍してくだせぃ」
豊受から叱責を受け、猿田彦が火の点いてない煙草を口から離し、頭を掻きながら瓊々杵に用件を語った。
◆
猿田彦が瓊々杵に語った用件は、豊受についてのことだった。
彼女は前々から天照との幽契とやらで伊勢に行くことを希望していた。
しかし、熊襲における瓊々杵の立場が固まっていなかったので、彼女もその確立に協力し、日向宮に留まっていたのだ。
「けど、こっちも落ち着いてきたし、そろそろ伊勢に店舗を移転させてもらおうかと思ってね」
「伊勢にはあたしも用があるんで、豊受の姐さんを案内させていただきやす」
「で、その途中に伊予島があるさかい、ウチも同行してそっちの問題も一挙に解決しようと思ったんや」
それを聞いて瓊々杵も納得した。
伊予島とは伊予之二名島のことで、最近、そこでは魚人の神人たちが呪力を暴走させていた。
そのことは瓊々杵たちの耳にも入っており、いつかは対処せねばならぬ課題と見なされていた。
龍に喩えられる八洲の内、瓊々杵たちは腹の南を整序するよう高天原から命じられていた。
腹の北は饒速日が、背は穂日に委ねられていた。
割り当てられた地域で異変が生じている以上、そう長く捨て置いてはいられなかった。
「分かったよ。オレのところへ報告に来たということは伯父さんも知ってるんだね」
瓊々杵への報告は思兼が取りまとめていた。
そうでありながらも猿田彦たちがわざわざ報告に来たのは、別れの挨拶も兼ねてのことだろう。
それを察して瓊々杵は微笑んだ。
「最後まで気を遣ってくれて、ありがとう。今は離れ離れになるけど、国造りをそちらにも広げていくから、いつか必ずまた会おうよ」
そして、豊受の東行きに合わせ、猿田彦を将とし、伊予島に遠征の兵を送ることとなった。
瓊々杵は猿田彦を補佐する鈿女に猿女君という名前を贈った。
思兼も自身が呪具を彼女に提供した。
◆
猿田彦たちが伊予島に遠征してみれば、確かにその海では魚人の神人たちが力を荒れ狂わせていた。
しかも、その範囲は伊予島に留まるものではなかった。
現地の他神たちと協力し、猿田彦たちは呪力の暴走した神人たちを取り押さえていったが、どれだけ進んでもそのような事態の止む気配が見られなかった。
そうしてとうとう伊勢にまで来てしまった。
そこでも魚人の神人たちは力を暴走させていた。
終わらぬ戦いに猿田彦たちは疲れ果て、伊勢の阿坂で事件は起きた。
「後ろから来とんで、猿田彦!」
鈿女の言葉に猿田彦が振り返った時にはもう遅く、比良夫貝の神人が彼の手に噛み付いた。
肩が外れるような勢いで腕を引かれ、猿田彦は海底に引き摺り込まれていった。
豊受が時間を巻き戻し、猿田彦を助け出そうとしたが、海そのものが呪力を荒れ狂わせ、彼女の呪能が発動するのを邪魔した。
(不味いですねぃ、これは)
喉の奥から空気がせり上がり、猿田彦は耐えきれずにがぼりと息を吐き出した。
空気の欠如がまともな思考を妨げ、更に比良夫貝の暴走した呪力が猿田彦の力も狂わせた。
それは吐き出した息の泡から新たな神人たちが生まれるほどだった。
(今度ばかりは抜け穴がありませんか)
捕食されていては穴を開けても意味がなかった。
(まあ、最後に聴けた声が鈿女の姐さんだっただけ幸せだったでしょうかねぃ)
神人が死ぬことはない。
力尽きた神人は生物と非生物の間のような存在になるだけだ。
ただし、そうなればまた活力を得るまで動くどころか、考えることすら出来なくなり、鉱物のごとくただ存在するばかりだった。
(……いけませんねぃ)
自分の行く末に思いを馳せ、猿田彦はにやりと笑った。
(姐さんのことを想ったら、もっと生きたいって欲が出てきましたや)
なけなしの思考を振り絞って彼は呪能を振るった。
典拠は以下の通りです。
猿田彦命たちが将兵を率いて伊予島に遠征する:『富士古文献』




