第百十段 高千穂
猿田彦から一通り話を聞き、天照は彼が瓊々杵の天降りを先導することを許可した。
「お主は天津神の血筋から産まれたが、育ちは国津神も同然。高天原と葦原中国の融和にも資するじゃろう。それに、やはり現地を好く知る者の案内は有り難い」
高天原も葦原中国について情報を収集し、国津神らから協力者も募った。
それでも、やはり天上の主観に過ぎず、地上に通じた者の協力が大いに越したことはなかった。
話し合いの場に喚ばれた豊受もそれに同意した。
「八洲そのものが空亡の天地なんだから、そこの各所に住む者たちが手を取り合わなくちゃ、とても太刀打ちできたもんじゃないからね」
そう言って豊受は天宮の図形を取り出した。
「天孫たちの南北に建てた国が出会う場所へ神宮を建てる。その青写真は既に出来上がってるんだ。後はそれをどこに建てるか、大和や木国と候補はあったけど、こりゃ伊勢に決まりだねえ」
「……出迎えに上がって機先を制したと思ったら、そっちも準備は出来てたんですねぃ」
髪を掻いて猿田彦は苦笑した。
完全に相手の掌で踊らされていたとあっては笑うしかなかった。
流石に高天原と張り合うつもりはなかったが、使いっ走りにされては堪らぬと我を張った。
ところが、先方はとっくにその上を行っていた。
「上から見れば扱う問題が下よりも多く目に着く。じゃが、上という場の性質であってそこにいる私たちが上等なのではない。持ち場で最善を尽くすまでじゃ」
「それは下の者が上のことをとやかく言うなってことですかぃ?」
敢えて意地悪く猿田彦は天照に訪ねた。
高天原に輝く主宰神。
話には聞けども初めて会うその主神がどのような神人であるかを確かめるために。
「必ずしも分かり合うことは叶わず、分かっても遅いこととてあるというだけじゃ。ならば、今はこうして出会えたのじゃ。互いに欠けたものを補い合わせてはくれんかの?」
天照は己を欠けていると認める時の悲しみ、そして、それを埋め合わせられる相手への愛しさを漂わせた。
そのような彼女に猿田彦は流石にからかえず、寧ろ儚い艶やかさを感じて逆らえなかった。
◆
猿田彦が瓊々杵たちを先導することとなり、両者の引き合わせが行われた。
「宜しく頼んますねぃ」
「は、はい、お世話になります!」
どぎまぎしながらも瓊々杵は差し出された猿田彦の手を取った。
瓊々杵にとって猿田彦は実質的に初めての国津神だった。
天孫降臨は遂に本格的な始まりを見せたのだ。
「美人の手ぇ煩わせたんやさかい、気張って案内しぃや」
それを祝して鈿女が猿田彦の尻を叩いた。
「長いこと待たせたな、国津神の同志らよ!」
児屋根も腕組みをし、無駄に仰々しく格好を付けた高笑いをした。
「はあ、遂に来たか……」
太玉は観念したように溜め息を吐いた。
「そなれば突っ走る他なか」
鉞を担いで手力雄が頷いてみせた。
「これを着ていけ、瓊々杵」
高皇産霊が龍文が織られた三種の御衣を瓊々杵に着せた。
「真床追衾だ。これを着れば襁褓にくるまった赤子のごとく無事に用を果たせるだろう」
「……オレはまだ赤ちゃんみたいなものなんでしょうか?」
寂しげな苦笑を浮かべる瓊々杵に高皇産霊は不穏な笑顔を見せた。
「喜べ。まだお前は成長するのだからな。それを俺の手で促してやれんのが残念でならんぞ」
「黙らっしゃい」
最早、突っ込みを入れるのも億劫とばかりに高皇産霊を黙らせ、神皇産霊が瓊々杵を抱き締めた。
「どうか気を付けて。猿田彦の他にも私たちの眷属はいます。決して自分は孤独と感じませんように」
孤独が葦原中国の王にもなれたであろう穴牟遅を狂わせた。
その轍を踏んでほしくはない。
この素直な子には、その美質を保ち続けてもらいたかった。
「瓊々杵よ、この杵を持っていくが良い」
そして、天照があるものを瓊々杵に渡した。
「これは?」
その杵は瓊々杵が知るのとは全く異なるものだった。
◆
瓊々杵の一行は天照たちに見送られながら天磐座を離れると、空に幾重にも棚引く雲を掻き分け、猿田彦に先導されて天浮橋を進んでいった。
やがて視界が開け、瓊々杵たちは天浮橋の終点である天浮島へと至った。
天浮島は幾つかの浮洲で葦原中国と繋がっており、それらを伝って瓊々杵たちは筑紫島の日向にある高千穂へ天降った。
その峰はごつごつした岩があるかと思えば、美しい新緑の地が広がってもいた。
そこでは天忍日命と天津久米命が天石靫・頭椎大刀・天波士弓・天真鹿児矢で武装して瓊々杵たちを出迎えた。
彼らも高天原の血筋に連なる国津神で、忍日は高皇産霊と神皇産霊の息子だった。
忍日と久米が先に立って熊襲へ案内し、韓国岳を通って瓊々杵たちを霧島山の高千穂峰に連れていった。
「わあ……!」
噴煙の絶えぬ霧島山に立ち、瓊々杵は草も木も靡き伏す大地を見下ろし、その絶景に感激の声を上げた。
雲に聳える霧島山は、朝に夕に陽光が溢れ、天孫が拠点とするに相応しい土地だった。
この国土をこれから治めていくのだと改めて自覚し、瓊々杵は武者震いしてごくりと唾を呑んだ。
典拠は以下の通りです。
猿田彦命が高天原で天照大御神と幽契を結ぶ:『古語拾遺』
天宮の図形が伊勢国に伝わる:『神皇正統記』
高皇産霊尊が瓊々杵尊を真床追衾でくるむ:『日本書紀』
真床追衾が龍文の織られた三種の御衣を指す:『日本書紀私鈔』
天忍日命が高皇産霊尊の子とされる:『先代旧事本紀』
瓊々杵尊たちが日向国の高千穂に天降り、熊襲国の韓国岳を通って霧島山の高千穂峰に移る:『古事記伝』




