第百九段 天之八衢
饒速日たちによる日高見の整序は順調に進んでいると報告され、高天原は瓊々杵の天降りも実行に移すべきであると判断した。
瓊々杵が天降る先は、筑紫島の南部にある熊襲国だった。
熊襲は八洲と浮縄の間に位置する常世で、そこに瓊瓊杵たちは徒歩で向かうこととなっていた。
日高見と違って熊襲は出雲の勢力圏と接しており、穴牟遅を下した高天原の名声が轟いていた。
それ故に恭順する者も少なくはなく、天磐船のような軍艦に乗って天降れば、無用の緊張を生じさせて折角の同調者たちを減らしてしまいかねなかった。
そこで、伊邪那岐と伊邪那美がそうであったように徒歩での天降りが選択された。
しかし、いざ天降る段となり、最後の確認が行われると、天之八衢で異変が察知された。
天磐座から幾つも昇る天浮橋は、中途でも分かれ道が出来ており、その交差点が天之八衢と呼ばれていた。
そうした交差点の一つに不審な者がいると報告された。
しかも、当人に隠れるつもりはないらしく、鼻が長くて背丈も高いその姿は、赤い日を鏡で照らしたように目立っていた。
どうすべきか話し合いがなされ、誰かを偵察に赴かせてはどうかと高皇産霊が天照に助言した。
天照は鈿女をその任務に当たらせた。
「鈿女、偵察にはお主が持って来いじゃから、どうか様子を見てきてはくれんか?」
「そないに頼まれたら一肌脱がなあかへんな」
鈿女は気前良く笑って引き受けた。
そうして彼女は異変があったという天之八衢へと潜入した。
鴉に姿を変えて。
鈿女は神楽の力を神として祀った。
神楽では様々なものの動きが真似られ、彼女は種々の生物に変身できた。
偵察に向いた生物に変身するだけではなく、その場で状況に応じた他の生物にも変身できたので、不審者を探るには打って付けだった。
◆
天之八衢にいたのは猿田彦だった。
(まさか一言主の嬢ちゃんが上の坊ちゃんを迎えに行ったまま仕官するたあ思いませんでしたねぃ)
葦原中国に長くいて高天原へ上がれないので、天浮橋の中途で待機せざるを得ず、手持ち無沙汰ゆえに持っている矛で地を突きながら、猿田彦は内心で溜め息を吐いた。
一言主に饒速日を出迎えさせたのは猿田彦だった。
天孫降臨が円滑に進むよう地上で支援するのも、忍穂耳たちに課せられた役目で、それに協力する猿田彦が一言主を紹介し、五十鈴の幾つかを持たせたのだ。
(おかげで下の坊ちゃんはあたしが迎えに行く羽目になりやしたよ。上の坊ちゃんに惚れ込んだんですかねぃ。果たしてこっちはどうなのやら──)
そのように思案していると、猿田彦は自分に近付く気配を感じ取った。
鴉に変身した鈿女が飛んできたのだ。
鈿女は呪力を抑え、天之八衢に迷い込んだ鴉を装っていたが、猿田彦とてただぼうっとしているわけではなかった。
「やっとお出迎えですかぃ」
先方に気付かれたことを鈿女も察した。
そこで、不審な相手を牽制すべく鈿女は狼に変身して襲い掛かった。
鳥として飛んでいる速度そのままだったので、その速さは凄まじいものだった。
「穏やかじゃありませんねぃ」
しかし、猿田彦は前方の空間に穴を開け、鈿女を後方へと通過させた。
それを鈿女の視点で見れば、相手に前方から襲い掛かったはずがいつの間にかその後方にいたようなもので、驚かなかったと言えば嘘だった。
しかし、奇襲が失敗したとなれば、うかうかとしてはいられなかった。
鈿女は直ぐさま蝙蝠の群れに変身し、四方八方から猿田彦へと襲い掛かった。
(どこがあたしの弱点か、即座に当たりを付けてそれに賭けてきましたかぃ)
死角となっている空間に穴を開通させるのは、どうしても精度が下がった。
蝙蝠の体は小さいから尚更だった。
そうした攻略法を瞬時に思い付き、大胆に実行する鈿女には猿田彦も舌を巻いた。
「どこの誰かは知りやせんけどもあたしの負けでさ」
そう言って猿田彦は矛を手放し、両手を挙げてみせた。
「潔ぇなぁ。もうちょっと粘ろとは思わへんの?」
相手の戦意が失せたのを感じ取り、鈿女は人の姿に戻って問い掛けた。
「あたしゃ天孫の降臨を出迎えに来ただけでしてね。別に高天原と争う気はないんでさ。それに、美人と戦うのはどうも気が乗りませんや」
「矛は収めても口は減らへん奴やな。せやけど、おべんちゃらに報いてやらんのも、ウチがケチみたいやしな。ここで手打ちにしたるわ」
猿田彦の飄々とした態度を気に入って鈿女も苦笑した。
◆
鈿女に押送されて猿田彦は天照たちの前へ突き出された。
「何故に我が孫たちの行く手を遮ろうとしたのじゃ?」
訊問する天照に猿田彦は五十鈴の一部を差し出してみせた。
「お宅の息子さんたちに頼まれましてねぃ」
「忍穂耳と千々姫か!?」
天璽を見せられて天照が浮き足立った。
「あたしゃ下の坊ちゃんを出迎えに来させてもらったんでさ。ちょいと不幸な擦れ違いはありやしたけど、別嬪さんに出会えましたから損はしてませんや」
「あー、忍穂耳たちの知り合いというのも頷けるわ」
微妙な表情で納得し、天照は猿田彦に訊いた。
同席していた高皇産霊と神皇産霊も猿田彦を受け入れた。
二人にとって猿田彦は孫に当たった。
「それで、高天原に昇ろうとして何をなす? 鈿女と渡り合ったのだから生半可な覚悟でそうしたのではあるまい。葦原中国に撒かれた種がどう育ったか教えてくれ」
「今のは彼の悪い癖のようなものなので、無視してくださって結構です」
「高天原も中々に複雑なんですねぃ」
葦原中国で生まれ育った猿田彦は、高天原の中枢たる神人たちの反応に驚きながらも面白がった。
典拠は以下の通りです。
猿田彦命が鼻の長くて背丈も高く、赤く照って鏡のようであるとされる:『古語拾遺示蒙節解』




