第百七段 鳥海山
饒速日たちを乗せた天磐船は、日高見の上空を飛び回った。
(多くの木が生い茂った美しい国だ……)
初めて地上を見た饒速日が心の中でそう呟いた。
天上でも生い茂る木々を見てはいた。
しかし、それは整序されており、地上のごとき古拙の美しさはなかった。
天磐船は出羽国の鳥海山に差し掛かると、その山頂に降りていった。
そこは高すぎて木々が生い茂っておらず、岩だらけであって火口からは煙が立ち上がっていた。
饒速日が天磐船から降りた。
山頂は荒涼としていたが、饒速日は周囲を見回して言った。
「姿は完全に隠し、気配は濃厚に漂わせるか。中途半端なことをするくらいなら、素直に出てこい」
随伴する天津神たちも警戒した。饒速日に随伴するだけあり、彼らとて遅れは取らなかった。
「流石は天孫といったところにござるかな。試すためにわざと気配を漂わせたとは言え、こうも直ぐに気付かれるとは」
すると、どこからともなく一人の神女が現れた。
青い忍び装束を着た彼女は、長い黒髪の前ともみあげを切り揃え、後ろは背中の辺りにて和紙で結っていた。
その口元は覆面に隠れて良く分からなかったが、面白がっているように見えた。
「一言主神と申す者にござる。ある人物の頼みで迎えに上がったのでござるよ。一次試験は合格でござるが、二次試験に相撲を一番お頼みしても?」
「この地に住まう者か? ならば、否も応もあるまい。土地の者が新参を試すのは当然の権利だ」
一言主が饒速日に襲い掛かった。
随伴の神人たちが饒速日を守らんと呪能を振るった。
ところが、その全てが跳ね返された。
「拙者が神として祀るのは山彦の力! どのような呪能であっても跳ね返せるでござるよ!! これにどう対処するでござるか、天孫殿!?」
呪能は神人が力を振るう基本だ。
相手に呪能が通じないでは話にならない。
呪力が圧倒的に上回っていれば話は別だったが、一言主から発せられる力は強大だった。
「お覚悟!」
一言主が跳ね返した呪能を饒速日に向けた。
それに対して饒速日がどのような呪能を振るうか。
そのことを一言主は見極めようとした。
「疾うに覚悟は出来ている」
だが、饒速日は予想の斜め上を行った。
彼は呪能を振るわなかった。
それでいながら一言主の攻撃を回避した。
◆
一言主が驚いている間に饒速日は彼女の後ろへ回り込んだ。
それに即応して一言主は饒速日に対面しようとした。
しかし、饒速日はその動きも予測しており、回り込みながら拳を突き出し、それを引き戻して一言主の後頭部に撃ち込んだ。
それに体勢を崩された一言主は、続けて繰り出される饒速日の拳に防戦する一方となった。
やがて饒速日が構えを取り、右手で複雑な軌道で拳を放った。
彼女はそれを見切って防御しようとした。
だが、それは饒速日の攪乱だった。
ぎりぎり見切れる拳を放ち、その回避に相手を集中させ、拳を放ったのとは別の手で本命の攻撃を繰り出した。
左手の手刀が一言主の首を打ち据えた。
その打撃に怯んだ一言主に饒速日は右手で渾身の一撃を放った。
もっとも、それは相手を殺すことを目的としてはいなかった。
吹き飛ばされた一言主は巧みに受け身を取っていたこともあり、土を付けられるも暫くしてからむくりと起き上がった。
「まさか全く呪能を振るわれずにやられるとは思わなかったでござるよ」
「俺の呪能はこうした場合に向いていない。それを補うことを怠らなかっただけだ。体術に話を限れば、弟の方がお前よりも上だろう」
「些か悔しい話でござるが、まあ、これから会っていただくお人のことを思えば、試験に合格したのは幸いでござる」
訝しむ饒速日に一言主は拇で火口を指し示した。
◆
饒速日の会うべき者が鳥海山の火口にいる。
そうなら会わねばならなかった。
もしそれが罠ならもっと上手い方法があった。
試験に合格するか否かなど不確定の要素が多すぎる。
敢えてそのような方法を取ったのは、本当に饒速日の身を案じてのことだったのだろう。
一言主に促されるまま饒速日は火口へ下っていった。
無論、随伴の天津神たちは制止した。
しかし、饒速日は天照との幽契によるものだと言って下がらせた。
天照はこのようなことが明言してはいなかったが、祖母の頼みとはこれであったと饒速日は察した。
「誰だ、お前?」
火口底の最深部から何者かが饒速日に誰何した。
そこは地獄の門を開いたようで、赤々と燃え続ける火口の底は、熱気だけではなく禍々しい瘴気をも感じさせた。
底に近付くほど瘴気は強くなるばかりか、最も深いところが闇に塗り潰されており、饒速日の予想は確信に転じた。
「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)。天照大日孁女尊の孫だ、第六天魔王波旬よ」
彼は正式の名乗りを上げ、相手にも同じように呼び掛けた。
「日孁の孫だと?」
闇の中からぎょろりと目が覗き、生半可なことでは物怖じしない饒速日の心胆をも寒からしめた。
饒速日が降り立った最深部の闇は物理的にも寒かった。
闇はどろどろした油のようにねばつき、それでいて凍り付きそうに冷たくまとわりついてきた。
「運が良い。他の者なら吹き飛ばしているところだった。波旬の名を呼んで良いのは日孁だけだ」
闇の中に座し、第六天は嘲るように笑った。
典拠は以下の通りです。
饒速日命たちを乗せた天磐船が出羽国の鳥海山に降りる:『物部文書』
一言主神が女神となっている:『葛城』




