第百六段 日高見国
いよいよ天降りの日が近付いて高天原は浮き足立った。
それも仕方のないことだろう。
何せこれほどまで大量に天津神が天降り、葦原中国を統治するなど前代未聞の出来事だった。
「瓊々杵、葦原中国は色々と珍しいものもあるでしょうが、決しておやつとかに釣られ、見知らぬ人に付いていってはいけませんよ?」
「皇祖母上、オレも全くの子どもじゃないんですから……」
孫の行く末を心配しすぎる神皇産霊に流石の瓊々杵も苦笑せざるを得なかった。
「神皇産霊、水をやり過ぎれば却って腐らせるぞ」
「録に水もやらないどころか火を焚くような男は黙っていなさい、高皇産霊!」
突っ込む高皇産霊に神皇産霊は怒った猫のように牙を剥いた。
「やれやれ、母は強しとはよくぞ言ったものだな、饒速日。こいつには俺も勝てん」
冗談めかして高皇産霊が饒速日に話を振った。
「母であれ父であれ親が子のことを想うなら、それに勝ってはならないでしょう、皇祖父上。勝ちさえすれば良いというわけでもありますまい」
軽口にも真面目に答える饒速日に高皇産霊は呵々大笑した。
「真に想うていればな。しかし、孫たちよ。真偽の境など紙一重だ」
「……ええ。ですから、くれぐれも気を付けて。何が真偽を分けるのか、それは貴方たちに委ねられています」
高皇産霊と神皇産霊にとっての親は空亡だった。
空亡が子の全てを愛していることに偽りはなかった。
だが、それが真に子を想ってのものであるかどうかは別だった。
「自分が相手のことを想う時も同じだ。何が真に相手を想ってのことになるのか、誰も教えてはやれん。すまんな」
「それでも、皇祖父上たちはオレたちに沢山のことを教えてくれました。今の教えも無駄にはしません」
「向上心のあるのは好ましいですが、早く一人前になろうと焦ることはありませんよ、瓊々杵。饒速日、貴方もたまには肩の力を抜きなさい。少し砕けた方が却って物事の進みやすくなることもあります」
「ご助言はしかと心に留めておきます、皇祖母上」
饒速日の堅苦しい返答に苦笑しつつ、神皇産霊は彼と瓊々杵を抱き締めた。
いつもの饒速日ならそれを躱していたが、その時ばかりはされるがままだった。
神皇産霊たちとまた会えるのか分からなかったからだ。
◆
何ら事前知識もなしに天降るのは危険だった。
そこで、高天原では葦原中国にいる天津神らから情報が収集され、その分析とそれに基づいた打ち合わせがなされた。
天孫たちも打ち合わせの場に加わっていた。
「ここが貴方の天降るところです、瓊々杵」
現地からの情報に基づいた地図が出来上がり、思兼が甥の瓊々杵に解説をした。
岩戸開きの立案者である彼が瓊々杵の一行において参謀役を務めることとなった。
そもそも、瓊々杵に付けられた教師の中でも思兼が筆頭だった。
「葦原中国はこんな風になってるんだね!」
詳細な地図に瓊々杵が感嘆の声を上げた。
初めて知る葦原中国の詳しい姿に瓊々杵は子どもらしい興奮を隠せなかった。
それを見て思兼は中指で眼鏡をくいっと上げ、にやりと笑みを浮かべた。
「驚くのはまだ早いですよ。我々が収集した情報は、これだけに留まるものではありません。その一端をお見せしましょう」
そう言って思兼が合図すると、大量の巻物が瓊々杵の前に積まれた。
その量は正しく圧巻で、瓊々杵は思わずたじろいだ。
思兼が実に嬉しそうな表情で告げた。
「巻物の全体はこの何倍もありますが、私は頭に入れました。瓊々杵、貴方にも同じことをしてもらいます。余り時間は残されていませんが、私に出来たのですから貴方に不可能という道理などありません。これから教授するのが楽しみです」
瓊々杵の顔が青ざめた。
どれだけ思兼が無理難題を吹っ掛けても瓊々杵は血反吐を吐きながら、それに応えようとした。
しかも、叩くほどに伸びるのだから思兼の教育熱は尚更に燃え上がり、神皇産霊に止められることもしばしばだった。
「ひえ~……」
責任感と知識欲から瓊々杵は拒否できなかった。
「ほどほどにしとけよ、思兼。天降る前に体調を崩されたら、それこそ目も当てられないからな」
太玉が思兼に釘を刺した。
彼も高皇産霊と神皇産霊の息子で、思兼とは兄弟の関係にあった。
それ故に思兼へ苦言を呈することも少なくはなかった。
「せやけど、瓊々杵って困らせたぁなるところがあるよね。庇護欲と加虐心を同時に擽られるってやつ?」
鈿女が頬に指を当てながら首を捻った。
「その気持ちは萌えだな! 吾輩は詳しいから間違いなかろう。それもまた良し!!」
児屋根も謎の論理で断言した。
「瓊々杵、辛かったらそう言え。ぬしが耐えられんなら余程のことじゃ。いっでん力を貸すぞ」
手力男は瓊々杵の肩を掴み、己が胸を叩いた。
いつもと変わらぬ皆の言葉に瓊々杵は嬉しげに苦笑した。
やはり瓊々杵も環境が急変することに不安を覚えていた。
◆
天孫降臨は二度に分けて行われることとなった。
最初は饒速日が降臨し、次に瓊々杵が天降る方向で進められた。
そうして饒速日の天降る日が来ると、彼は随伴する神人たちと共に天磐船へ乗り込んだ。
見送りに来た天照が歯切れの悪い口調で饒速日に言った。
「その、饒速日……例のことについてもどうか頼む」
それに対して饒速日は余計なことを言わずにただ頷いた。
天照がほっとした様子を見せると、饒速日たちを乗せた天磐船は、発着場である天磐座から飛び立った。
天磐船が見えなくなっても瓊々杵たちは天磐座に長らく佇んでいた。
典拠は以下の通りです。
天太玉命が高皇産霊尊の子とされる:『古語拾遺』




