第百五段 神勅
同行させる五伴緒らや携帯させる天璽が決定され、貫くべき方針としての神勅も決められた。
それは饒速日と瓊々杵に対してだけではなく、児屋根や太玉ら随行する神人たちにも下された。
天照と高皇産霊によって下された神勅は、天壌無窮・宝鏡奉斎・斎庭稲穂・侍殿防護・神籬磐境の五つだった。
天壌無窮とは天地に窮まりがないように神勅を永遠の義務とすること。
宝鏡奉斎とは神勅を引き受けた証として宝鏡などの天璽を奉斎すること。
斎庭稲穂とは斎庭の稲穂を与えて人を飢えざらしめるがごとく生の営みを大切にすることだった。
「働いて食べ、紡いで着る。詰まらないことのように見えるじゃろうが、それが当たり前のこととして実現されている尊さを知れ。日常の重みを知らぬ者に奉斎を全うすることは出来ん」
天璽を饒速日と瓊々杵に授けた天照は、神勅が意味するところを孫たちに語った。
当たり前のものを無くした喪失の記憶が思い出され、天照の胸が痛んだ。
しかし、無くしたものが存在するから、現に有るものの尊さを知ることが出来た。
「真に奉斎を全うしている限りお主たちの国は永久に保たれるじゃろう。何気ない日常を尊ぶ国は、たとえ滅びても生の営みが続く限りまた蘇る。そして、生の営みとはな儚くも力強いものなんじゃ」
それが天照たちの神国だった。
空亡の神国はその実現を阻止するだけでは解決に至らなかった。
それに代わるものを打ち出さねば、封じてもいずれまた復活してしまいかねなかった。
「無を知るからこそ有の尊さにも気付ける。現に有るものは、今は無きものによっても形作られておる。顕露なるものだけではなく、幽事の声にも耳を傾けよ」
侍殿防護と神籬磐境は随行する神人たちに命令された。
侍殿防護とは天孫たちの御殿に侍って彼らに神勅を防護させること。
神籬磐境とは神籬と磐境で神域を劃すように天孫たちから独立して彼らに阿らぬことだった。
「くれぐれも饒速日と瓊々杵を甘やかしすぎるな。緊張関係がなければだらけるだけだ。天孫をして戦々恐々と祭祀せしめろ」
期待に満ちた目で高皇産霊が五伴緒らに告げた。
高天原は天孫による一元的な統治を構想してはいなかった。
王法から自立した領域も模索されていた。
◆
天安河の河上にやってきた豊受が滝の奥にいる国之常立へ声を掛けた。
「暫くは会えなくなるねえ」
「訪ねてくれる者が減るのは寂しい限りだが、奴が葦原中国に再び手を出したかも知れんとあっては致し方ない」
国之常立が獄中と思えぬ鷹揚さで答えた。
「八洲は空亡が創造した天地だ。我々が彼の目を欺けるのだから、逆もまた然り。如来が目が光らせていれば、奴も大人しくしているだろうと考えたのは浅慮だった」
「そうかと言って下手に動くわけにも行かないしね」
豊受が視線を向けた先では迦具土が天安河を堰き止めていた。
迦具土の人生は伊邪那岐の油断による空亡の介入で狂ってしまった。
いや、それに伊邪那美も巻き込まれ、天照や素戔嗚にまで影響を与えた。
ちょっとした油断でさえそうなるのだから、もしも本格的に動けばどのような結果を招くか。
そこを慮って慎重を期したのだが、それが却って空亡に時間を与える結果となってしまった。
先送りできないのならば危険は承知で打って出るしかない。
「かつて伊邪那岐と伊邪那美に任せたがごとく再び神の道を開かせねばなるまい」
創造に執着する空亡を封じ込めるには、無常を説く仏法を、弘めるに如くはない。
しかし、聞法する側にも法を聞く準備が出来ていなければならなかった。
そのために開かれる道が神道だった。
「天降りは瓊々杵に同行するけど、葦原中国に着いてからは伊勢へ向かわせてもらうよ。そこに忍穂耳と千々姫が拠点を築いてるそうだから。瓊々杵には秘密にしてるけど、天照たちとは話を通してる」
「卿の作る食事を食べられなくなり、天照はさぞ残念がっていただろう」
国之常立の言葉に豊受は大笑いし、迦具土が何事かと振り返った。
◆
遠くから豊受たちを見張りつつ、稚日女は首を捻った。
(やっぱりただの世間話にしか聞こえないなあ)
その人格は御中主に切り替わっていた。
彼女は豊受が国之常立のところに通うのを怪しみ、後を付けてきたのだ。
もっとも、往来が困難であるとは言え、天安河の河上に人の出入りが皆無というわけではなかった。
特に建御雷と経津主が常陸に天降って以来、埴安姫尊が迦具土を足繁く訪ねていた。
埴安姫は迦具土の妻で、稚産霊神という娘を儲けてもいた。
彼女は息子らのいなくなった夫が寂しくはないかと思って訪ねているのだ。
しかし、豊受が国之常立と通うのはそれとはわけが違った。
確かに二人の仲は悪くなかったし、豊受の経営する店に国之常立もよく来店した。
だが、店の主人と客の関係にしては頻繁だった。
そもそも、御中主は前々から二人のことを怪しんでいた。
別天津神が生まれると同時に国之常立が現れたのも怪しかったし、豊受もやけに天照たちから重んじられている。
その秘密を御中主は探ろうとしたが、どれだけ目を凝らし、耳を澄ませても得るものはなかった。
如来の法力による隠匿は空亡でさえ突破できず、御中主が破れるわけもなかった。
(でも、お父様に高天原を任されたんだから、何も出来ないままじゃいられないよね)
そう決心して御中主は自らの腹を撫でた。御中主がその力を神として祀る太極は、天の北極にも準えられた。そして、北極星は天空に開いた丸い穴であるともされた。
それは子宮を意味した。
如来の目を掻い潜るため、空亡が身を隠したのは御中主の子宮だった。
御中主は空亡を塩土として産み直し、それにより如来の目を盗んで父親を天降らせたのだ。
典拠は以下の通りです。
天照大御神と高皇産霊尊が神勅を天孫だけではなく、五伴緒らに対しても下し、火之迦具土神埴安姫尊と結婚して稚産霊神が産まれる:『日本書紀』
天照大御神の神勅が衣食など民生を重んじる:『新論』
何気ない日常の尊さが何よりも大切にされ、保たれている国が神国であるとされる:『神皇正統記』
王法が顕露を支配し、神道が幽事に関わる:『唯一神道名法要集』




