第百三段 天孫降臨
忍穂耳たちによる秘密の報告を受け、天照たちも計画を進めた。
「饒速日、瓊々杵、鍛錬で忙しいところ、よう来てくれた」
御殿に饒速日と瓊々杵を呼び寄せ、天照は二人の孫にそう話し掛けた。
「天祖母上のご命令とあれば」
「そのための鍛錬でもありますし」
畏まる孫たちに彼女は内心で苦笑した。
瓊々杵はまだ頑張って背伸びをしているような感じで、子どもらしい可愛げがあった。
しかし、饒速日は酷く大人びており、頼もしく思える反面、早々に巣立たれて寂しい気持ちにもなった。
「喜べ。存分にその備えを活かせるぞ」
そのような天照の想いを余所に高皇産霊がうきうきしながら言った。
「子どもみたいにはしゃがないでください。大人げない」
それを神皇産霊が牽制し、瓊々杵を庇うように彼の両肩に手を置いた。
忍穂耳と千々姫が放任主義である分、母方の祖母たる神皇産霊は饒速日と瓊々杵に対して些か過保護だった。
饒速日はそれをそつなくかわしていたが、瓊々杵は逃れられないで猫可愛がりに遭っていた。
もっとも、高皇産霊も神皇産霊とは違う形で孫を可愛がっていた。
天照と月読を鍛え上げたように高皇産霊は饒速日と瓊々杵の鍛錬には手を貸し、過酷な試練を課した。
それを饒速日は淡々と、瓊々杵は必死に真正面から克服していき、そのことが高皇産霊をなおさら興がらせた。
そして、扱きすぎる高皇産霊と甘やかしすぎる神皇産霊の間に立ち、天照が折り合いを付けさせていた。
この頃には天照も高天原の主宰神として経験を積み、自分の教育に当たっていた天津神たちを饒速日と瓊々杵に振り向けさせられた。
時には天照が自ら稽古を付け、二人の成長を見守っていた。
「心して聞け、饒速日、瓊々杵。お主たちにはそれぞれ日高見と筑紫島の南に天降ってもらう。未だ整序されぬ葦原中国を取りまとめよ」
それ故に彼らにならば任せられると信じ、天照は饒速日と瓊々杵の二人に葦原中国への天降りを命じた。
◆
天照の命令を饒速日と瓊々杵が断ることはなかった。
そもそも、彼らも高天原が葦原中国へ積極的に介入するという話は聞いており、その旗印に自分たちが担がれるであろうことも、有り得ないことではないと考えていた。
そして、それに驕ることもなく、いや、そうであるからこそなおさら鍛錬に励んだ。
饒速日は何事もなかったかのように自身を鍛えた。
そのような兄の傍にいて瓊々杵もうかれてなどいられなかった。
自己主張することもなく、義務を果たす饒速日は、自然と周囲の責任感を刺激した。
饒速日と瓊々杵の天降りが内定すると、それは神集いに諮られ、妥当な人選であるとして可決された。
正式に高天原の政策となり、具体的にどのような指針で実行させ、何を持たせて誰を連れていかせるかが話し合われた。
何でもかんでも高天原から流出させるわけには行かなかったが、出し惜しみをしてはならなかった。
それは葦原中国への侮辱になるし、統治に失敗すれば国譲りの苦労も水の泡になった。
饒速日と瓊々杵は天降りの旗印として最適で、本人たちも今後の成長を大いに期待させたが、実戦の経験を積ませられてはいなかった。
高天原で要職を歴任させるという手も考えられたが、余り長く葦原中国を放ってもおけなかった。
今は穂日が出雲を治め、穴牟遅が整えた秩序を再編していた。
しかし、それは飽く迄も穴牟遅のいなくなった穴を埋めているだけで、穂日の事業は地主神らと共同して進められた。
その内に国譲りで見せた高天原の威光は薄れかねなかった。
高天原がまだ強い威光を保てている間に葦原中国の残る地域を整序し、空亡の神国が完成するのを防ぐ。
無論、天津神たちには造物主のことを伏せていた。
だが、彼らも国譲りで国津神らが決して自分たちに引けを取るものではないと痛感させられ、葦原中国が未だ整序されきっていないことに危機感を覚えた。
それ故に饒速日と瓊々杵が葦原中国へと降臨することを承認した。
天照の孫である天孫の二人は彼女に準じる高天原の象徴として期待された。
それにより計画の進行はますます熱を帯びた。
◆
饒速日の指が瓊々杵の額を小突いた。
「勝負ありだ、瓊々杵」
また組み手で瓊々杵が饒速日に一本取られたのだ。
「やっぱり兄さんは凄いや」
両膝に手を突き、息を整えながら瓊々杵が言った。
その言葉には羨望や劣等感など複雑な感情が込められていた。
しかし、そこには嫉妬というものがなかった。
小さな子が親に勝てないことを妬むだろうか。
それに近い感情を瓊々杵は饒速日に抱いていた。
親代わりの饒速日を彼は第三の親のように思っていた。
「凄いのはお前の方だろう。その姿で俺との組み手に付いてきている。天降った後も鍛錬を続け、その才能を無駄にするな」
容姿と天降りのことに振れられ、瓊々杵は胸がちくりと痛んだ。
彼はある時期を境に成長しなくなって幼童のままだった。
自分はずっと大人にならず、子どもであり続けるのかも知れないとさえ瓊々杵は感じていた。
それゆえ、彼は親代わりの饒速日と離れ離れになることを憂えてもいた。
勿論、そうであるからと言って天降りを拒むつもりはなかった。
だが、兄と離れることで心にぽっかり穴が空いてしまうことも否定できなかった。
「瓊々杵……」
そのような弟の想いを察してか、本当に珍しく饒速日はうっすらとした笑みを浮かべ、もう一度彼の額を小突いた。
「俺でない奴のことも見ろ。それでも、お前のことを俺は見守っている。だから、安心してお前は前だけを見据えろ」
親を求める気持ちは分かる。
饒速日とてそうであって彼は親の負うはずであった義務にそれを求めた。
己も親を求めたのだから、弟がそれを自分に見出しても拒否できようか。
典拠は以下の通りです。
天孫降臨に高皇産霊尊だけではなく神皇産霊尊も関係する:『天神寿詞』
高皇産霊尊が饒速日命を気に入っている:『先代旧事本紀』
瓊々杵尊が高皇産霊尊のお気に入りとなる:『日本書紀』




