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神国紀  作者: flat face
巻第五 天孫本紀 饒速日と瓊々杵
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第百二段 幽宮

 忍穂耳たちが幽宮に来た目的を聞くと、伊邪那岐は納得したように頷いた。


「高天原もあの黒い雨を空亡の仕業と見たか」


「やっぱそっちも気付いてたのかよ」


「だから、この子もここにいる」


 動かぬ体で伊邪那岐が視線だけを下に向けた。

 そこには菊理媛が伊邪那岐を守るように立っていた。

 未だ菊理媛は警戒を解いておらず、能面のような無表情のままに、殺気を漂わせていた。


 もう二度と同じ手は通用しないと忍穂耳は悟った。

 自己韜晦に長けた彼は、覇気や殺気を隠すことを得意としていた。

 それを利用しての初見殺しが忍穂耳の戦法で、菊理媛が同じ手に引っ掛かるようには見えなかった。


 銀髪を後ろの一部だけ長く伸ばし、前髪は切り揃えた菊理媛は、両手に黒い長手袋を嵌めていた。

 葡萄酒のごとき赤衣に包まれた長身は、良く鍛えられて引き締まり、顔立ちもきりりとして油断がない。

 彼女の不意を打てたのは幸運だった。


「黒い水は山奥にある黄泉にも降った。伊邪那美は黄泉の外で何かあったのかと思い、菊理媛を寄越してくれた。親子の縁による移動でね」


 妻が夫の身を案じて遣わしてくれた娘を、伊邪那岐は愛おしそうに見詰めた。


「もし空亡がまた動き出したのなら、黄泉から流れ込む呪力を分解している僕も、狙われてしまうかも知れない。それゆえ、菊理媛はここに来た者を強く警戒しているんだ。悪く取らないであげてほしい」


「警戒しすぎるに越したことはないし、別に恨みには思わないよ」


 黒い水に触れ、空亡という存在の一端に触れた千々姫は、実感を持って言った。


「それで、葦原中国で荒れ狂った呪力を分解している僕に、何か知らないか訊きに来たわけか。しかし、黒い水は天から降ってきたのだろう? 空亡は高天原にいるようにも思えるけど」


「それはこっちも考えたさ」


 忍穂耳は高天原で検討されたことを伊邪那岐に伝えた。



 黒い水は天から降った。ならば、空亡は高天原にいるはずだ。そう考えて天照たちは高天原を捜索した。


 しかし、三貴子や別天津神の力を以てしても空亡は見付からなかった。

 その理由を考えると、浮かび上がってきたのが御中主の存在だった。

 別天津神の筆頭にして空亡に心酔する長女。


 御中主もまた姿を消し、どこにいるか分からなかった。

 彼女が空亡から離れるなど考えられず、造物主の側にいると見てまず間違いはなかった。

 空亡が一人でないのなら彼らが一所に固まっているとも限らなかった。


 人手があるのなら高天原だけではなく、葦原中国などにも手を出していると考えるのが筋だった。

 一人だけでも強大すぎる存在が少なくとも二人はいる。

 手分けしていない方がおかしかった。


 その方が楽しめるのだから、と高皇産霊は語った。

 実際、建御雷と経津主が葦原中国を平定している最中、不自然な呪力の高まりを何度も感じたと報告しており、あの二人にそのような疑念を抱かせながら、尻尾を掴まれていないのは、空亡たちの関与を窺わせるのに十分だった。


「僕もそう思うよ」


 空亡の介入により伊邪那美と引き離された伊邪那岐は、高皇産霊の見立てに同意した。


「ただ、僕は葦原中国のへそであるこの幽宮に流れ込んできた呪力は分解できるけど、その具体的な動きは掴めない。それでも、一つ言わせてもらうなら、空亡は龍脈に目を着けているだろう。そこを重点的に調査すると良い」


 国魂のごとき土地の力がそれぞれの天地にはあり、それらは何かしらの地理的な要因でその位置を変えつつ、一定の経路を走っている。

 震旦ではそれを龍脈と呼ぶ。

 龍脈を流れる力は、龍穴という地点で噴き上がり、そこにいれば恩恵に与れた。



 葦原中国の龍脈は筑紫島の真ん中から伊予之二名島および淡路島と木国を通り、伊勢を抜けて諏訪から常陸国ひたちのくにへと続いていた。

 それを伊邪那岐は忍穂耳たちに教えた。

 そこまで正確に把握できているのは、やはり現地にいるからこそのものだった。


 ひとまず忍穂耳たちは常陸ひたちへ行くことにした。

 西は何だかんだ言って素戔嗚やその子分たちが目を光らせていたこともあり、大きな異変があれば、問題になっているはずだった。

 伊邪那岐に礼を言い、忍穂耳たちは淡路島を発った。


「申し訳ありません、父様。私が不甲斐ないばかりに」


 また二人きりになると、菊理媛が伊邪那岐に対して謝った。


「いや、無事でいてくれて、ありがとう」


「父様がご無事なければ無意味です」


 真っ直ぐな菊理媛の言葉に伊邪那岐は苦笑した。

 縁を呪能とするがゆえに菊理媛は義理というものを酷く重んじ、そうであるからこそまだ未完成の葦原中国の空白地帯たる中津空根なかつそらねを伝って父の下へ馳せ参じたのだ。

 しかし、伊邪那岐は菊理媛がそのしがらみに囚われるのを望んでいなかった。


菊理くくり淡海あわうみの方に行きなさい」


「……どうしてかお訊きしても?」


 自分は用済みになったのか。

 平板な声音の奥底に潜む感情を読み取り、伊邪那岐は菊理媛に微笑んだ。

 そのようなことがあるはずなかろう。


「あちらでは伊吹山が大蛇を生んだから、調査をしてもらいたいんだ。空亡の興味はもうこちらに向いていないようだし、その隙は僕たちも打って出るべきだろう。僕は伊邪那美とも一緒になって君たちと共に暮らしたいんだ」


 葦原中国における地上のへそが淡路島なら、水上のそれは淡海だった。

 そこに菊理媛は遣わされた。

 後に彼女は近江国おうみのくにの伊吹山を伝い、加賀国かがのくに白山しらやまに至った。


 高天原でも動きがあった。

 忍穂耳たちは常陸での調査を高天原に報告した。

 それを受けて建御雷と経津主が常陸へ天降ったのだ。


典拠は以下の通りです。


八洲に中津空根がある:『天書』

菊理媛神が近江国から白山に座す:『二十二社註式』

建御雷神と経津主神が常陸国に天降る:『常陸国風土記』


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