006_小さな手形
村長にも、話があると言われていた。
ネージュの家を出てから、ウィルはそのことを思い返した。プリシラと次の冒険に出る前に、こちらの用事も済ませておこう。初めての仕事を終えてきたと伝えれば、村長もきっと喜んでくれるに違いない。
昼の村内は朝より人が少なかった。家々の戸口では、干した洗い物が風にはためいている。どこかの台所から、煮炊きの匂いが流れてきた。
腹の虫が鳴いた。
そういえば、昼をまだ食べていない。プリシラは今頃、家で昼食を食べているだろう。森を歩き、倒れ、ギルドで報告をして、ネージュの所で診てもらった。一日の半分で、ずいぶん色々なことがあった。
村長の話を聞いたら、何か口に入れよう。報告をすれば、村長は笑ってくれるだろうか。最初の一件で倒れたことまで話したら、苦笑いされるかもしれない。ウィルはポーチを腰に掛け直し、村長の家へ足を向けた。
何の話かは聞いていない。成人したのだから、これからしっかり働くように、と言われるのかもしれない。そのくらいに考えていた。
村長の家は、村のほかの家よりひと回りもふた回りも大きい。村の集会場を兼ねた建物で、団体で泊まれる客間もある。日中の集会場は子供達むけの学校にもなっているので、この村の人間なら誰しもがそこそこ馴染みのある場所だ。正面扉の前に立つと、自分の影が板戸の上へ短く落ちた。取っ手の周りだけ、大勢の手に触れられて木の色が濃くなっている。ウィルは遠慮する事なく扉を開き、食堂から続く奥へと声をかけた。するとすぐに返事があり、集会場で少し待っているように告げられた。
集会場には教卓と子供たち用の椅子や机が並んでおり、壁際の棚には本が背を揃えて収納されていた。村でこれだけの本があるのは、この家くらいのものだ。窓から差す光が、磨かれた床の上に四角く落ちている。卒業後にはあまり訪れなくなっていた学びやは、古い紙と乾いた木の匂いがした。
懐かしい記憶に思いを馳せていると、村長がえっちらおっちらやってきた。
勧められた席につき、腰のポーチが椅子に挟まらないよう、少し脇へずらす。背もたれの低い子供用の椅子は、座ると足の裏が床にきちんと届いた。子供の頃、集まりでここに座った時には、足をぶらぶらさせていた気がする。最初の依頼をどう報告しようかと、また考えていた。
「おお、ウィル。改めて成人おめでとう。もう冒険者登録は済ませてきたのかね?」
「はい。その足でプリシラと、クエストも一つ終わらせました」
ウィルは腰のポーチに手を添えた。今日もらったばかりの冒険者カードは、内ポケットにしまってある。
「そうなのかい。これは将来有望な冒険者が誕生したようだね」
「いえ、僕はまだまだ。足を引っ張ってしまって、プリシラがいなければどうなっていたことか……」
言いながら、後頭部へ手が伸びかけた。ネージュに診てもらったばかりのそこは、もう痛まない。
「なに、最初のうちはそんなものさ。気にせず、これからも励みなさい」
「はい! ありがとうございます!」
村長は目を細め、ゆっくりと頷いた。その顔を見ると、肩に入っていた力が少し抜けた。
「ところで村長、先日言っていた、僕に話さなければいけないことって、何ですか?」
自分から尋ねた時にも、それまでの和やかな話が続くつもりでいた。
村長はすぐには答えなかった。卓の上で組んだ指を、一度ほどいて組み直す。村長の視線が、閉じた本の表紙へ一度落ち、それからウィルへ戻る。窓の外で鳥が鳴き、その声が途切れるまで、広間は静かだった。
「うむ、そのことなんだが……。ウィルよ。実はお前は、わしに借金をしとる」
「……え?」
「借金だよ。その額、ざっと五十万G」
「え? え?」
聞き間違えたとは思わなかった。それなのに、言葉が頭の中で落ち着く場所を見つけられない。ズボンの裾を、知らずに両手で握っていた。
窓の外では、相変わらず鳥が鳴いている。広間の光も、卓の木目も、さっきと何一つ変わらない。変わったのは、混乱している自分の方だ。
頭の中で、その額を今日の仕事に結びつけようとした。何度依頼を受ければ届くのか。考え始める前に、そもそも自分がなぜその金を返すのかというところで、思考が止まった。
「覚えていないのも無理はない。お前はまだ幼く、当時は借金の意味もきちんと理解してはいなかったじゃろう」
当時、という言葉で、話が昨日今日のことではないと分かった。
村長は席を立ち、また奥の部屋へ入っていった。床板を踏む足音が遠ざかり、戸の向こうで、引き出しを開ける音がする。
待つ間、ウィルは部屋の中に視線を彷徨わせる。棚には題の擦れて読めない、古い本もある。一冊ずつ追っていっても、どれも頭に入ってこなかった。五十万G。村の誰かがそんな大金を手にしているところを、ウィルは見たことがない。戻ってきた手には、端の黄ばんだ紙が一枚あった。
「これが借金の証書だよ」
村長はそれを、ウィルの前へ広げた。折り目の跡が幾筋も走り、角は柔らかく擦り切れている。整った大人の字が紙の大半を埋め、数字の並んだ行が何本か続いていた。インクは褪せて、ところどころ茶色く見える。ウィルは身を寄せ、示された箇所へ視線を落とした。
そこには、拙い字で自分の名前が書かれていた。その横に、小さな手形が押されている。
ウィルは片手を開いた。紙に触れないよう、手形の上へかざす。指先も、掌の幅も、今の手の内側に収まってしまう。
手を引いて、拙い字へ目を戻した。自分の名前だ。その先にも文字は続いているのに、同じところから何度も読み直してしまった。
「お前のご両親は、王都の商人に借金をしておった。ご両親が亡くなった時、お前は借金のカタに、奴隷商に連れ去られるところだったのだよ」
奴隷商。
村の外から来た荷馬車に、知らない大人と乗せられていく。そんな光景が、思い出ではなく、たった今聞いた言葉から勝手に組み上がった。背中を冷たいものが伝い、ウィルは手を止めた。
証書の小さな手形を見ていた村長が、ゆっくりと息をついた。
「だが、仕方がないこととはいえ、あまりに忍びなくてなぁ……」
紙の上に置かれた村長の指が、手形の脇で止まる。節の太い、日に焼けた指だった。
「その時にわしがそれを肩代わりするから、将来働いて返すのと、このまま奴隷商に連れていかれるのを、幼いお前に選ばせた」
ウィルはもう一度、手形を見た。この小さな手の持ち主が、大人に囲まれて、二つのうちの一つを選んだ。その時の自分が何と答えたのかは分からない。けれど、答えはこうしてここにある。この村に残る方を、選んだのだ。
「覚えていないかい?」
両親を失ったばかりの頃を、ウィルは思い返そうとした。
何もかもが、霧の向こうのようにぼんやりしている。両親がいなくなって、何を見ても何を言われても、心がどこにも引っかからなかった頃だ。大人たちに囲まれていたこと。誰かの大きな手が、自分の手を取ったこと。見下ろしていた顔が、たぶん村長だったこと。そう言われれば、それ自体はたしかに覚えている。けれど、何を聞かれ、何と答えたのかまでは、輪郭が溶けて掴めない。
それでも、村長のおかげでこの村にいられる。そのことだけは、当時はよく分からないまま、漠然とずっと覚えていた。その裏に、この一枚があったのだ。
「……詳しいやり取りまでは、思い出せません。でも、借りたお金を、僕が働いて返すということなんですね」
言ってから、ウィルは顔を上げた。これだけは、今のうちに言っておかなければならない気がした。
「それと……あの頃のことはぼんやりとしか覚えていないんですけど、村長のおかげで僕がこの村にいられるんだってことは、ずっと分かっていました。ずっと、感謝していたんです。ちゃんと言ったこと、なかったですよね」
「そうかそうか」
村長は二度、小さく頷いた。責めるでも、がっかりするでもない声だった。証書の端を指でならし、ウィルの方へ少し向け直す。
霧が晴れた後のことなら、ちゃんと覚えている。毎日のように顔を出してくれたプリシラ。三人で走り回った村の道。今朝ギルドへ向かった道も。その日々の下に、黄ばんだ紙が一枚、ずっと敷かれていた。
礼は言えた。けれど、その礼と、五十万Gという数字が、まだ喉の同じところで引っかかっている。ウィルはもう一度、証書の名前へ目を落とした。
「それで、契約通り、成人したお前にはこの借金の返済をする義務があるが、どうするかね?」
「う……その、今すぐにお返しするのは、難しいです」
声が小さくなるのを、自分でも感じた。卓の木目に目を落とすと、そこに光の四角がまだ落ちていた。今の自分が持っているのは、腰のナイフと、ポーチの中の空いた瓶と、今朝もらったばかりの冒険者カードくらいのものだ。
「まあ、それはそうだろう。もちろん、お前の状況は理解しておるよ。だが、念願の冒険者にもなったからね。これから少しずつ借金を返済してもらうということで、どうかな?」
「はい。すごく助かります」
頭を下げると、卓の縁が額のすぐ先に来た。
握りしめていたズボンの裾から、ようやく手を離せた。指の跡が、布にくっきり残っている。
今日、一つの依頼を終わらせた。次も仕事を受け、その次も続ける。すぐには無理でも、少しずつなら返していけるかもしれない。
途方もない額の前に、それでも自分のすることが一つ見えた。窓の光の四角は、卓の端から少しずれ始めている。
村長は証書を指で押さえたまま、言葉を続けた。さっきまでより、声が一段低かった。
「うむ。だが、額が額だからね。そうのんびりとはしていられん。これからは、この借金に利子もついていくからね」




